さよならビリー・ザ・キッド 真島昌利 曲の名義、発表の概要

作詞・作曲:真島昌利。真島昌利のアルバム『夏のぬけがら』(1989)に収録。

真島昌利 さよならビリー・ザ・キッド(アルバム『夏のぬけがら』CD収録)を聴く

真島さんの詩の世界がそのまま音楽の線路の上に乗るまっすぐさを覚えます。歌詞の内容が私にふりかかり、自動で心が説得されるモードに入ってしまう。音程やリズムの細密な正確さを包摂しつつもそれを超越した表現力を説得力ある歌唱と表現することが世にあると思いますが、歌唱の何がそれをリスナーに感じさせるのかを真島さんの歌唱は考えさせます。作詞者=歌唱者である必要は必ずしもないでしょうが、歌詞を自分の真実の言葉として発せられるかどうかでしょうか。もし作詞者≠歌唱者であれば、それをさも自分の言葉のように潔白に歌い切ることが歌唱者の力量であり義務でしょう。

メロもサビもボーカルメロディのリズム形が比較的似ていて、抑揚の熱量差や歌い出して3小節目以降あたりのリズム形の違いで聴かせます。歌詞の内容を降り注ぐ雨のようにこんこんと聴かせる意図で、メロとサビのボーカルメロディの音形が似ているのはメリットでもあるように思います。

バンドのサウンドも非常に恒常的です。あるべきパートのあるべきボリューム(質量)が、最初から最後まできちんと鳴っているのです。これもまた歌詞の内容が、どこからか流れてきてどこまでも続いていくような悠久な流れのなかに生じているような視点の博さを思わせます。

ドラマーがECHOESメンバーの今川勉さん。アルバム『夏のぬけがら』収録各曲を聴いていると、ドラムコンチェルトかと思わせるくらいドラムのプレイに華があるのを実感します。『さよならビリー・ザ・キッド』でも、シンプルなリズム形を恒常的に演奏するなかでもその華を感じます。

恒常的に泣き上げるハーモニカは友部正人さん。詩人の名共演ですね。アルバム収録曲(M6)『地球の一番はげた場所』は友部さんによる提供曲です。M12『ルーレット』でもハーモニカを吹いています。

参加メンバーをみるだけでもプロジェクト自体に豊かなみどころを感じます。

気立の良い適確な白井幹夫さんのピアノ、ぐもっとした愛嬌と親しみやすさと質量感を備えた山森正之さんのベース、奥行きをあたえる真島さんのアコギ。それに先述のドラムとハーモニカ。音数(パート数)は参加メンバーの人数と乖離がない点も、この楽曲が真実をせつせつと訴える味わいを帯びる重要なポイントに思えます。音数が多くも少なくもなく等身大で、かつサウンドに骨も肉も華やかさも実直さも感じ、好印象です。リードボーカルに、ちょっとだけ奥行きをあたえるディレイもしくはダブルやリバーブなのかわかりませんが残響系のほどこしを感じます。突き刺さる切実さをバンド(オケ)に接着させるサウンド面のひと工夫かもしれません、細かい点かもしれませんが楽曲の聴き心地に与える全体的な影響量は大きい気がします。

21で結婚して 27でもう疲れて 夢のかけらさえ投げ出し 惰性で時を過ごしている

ぬけがらのようにうつろで 話題は過去に流れてく 君はふせ目がちになって 他人の人生をうらやむ

『さよならビリー・ザ・キッド』より、作詞:真島昌利

目がはなせない歌詞です。この言葉が人ごとと思えて聞き流せる人って世の中に一体どれだけいるのでしょうか。ほとんどの人は、理想と現実の板挟みにため息をつく気持ちが理解できるはずと思う私はひねくれきっているのでしょうか。

誰でも、思い描く希望の姿があると思います。若いと、視野が狭かったり知識経験が不足していたりするが故に、希望の姿のなかに幻想をふんだんに含めがちです。もちろん、若いうちから積極的に貪欲に行動して、幻想を幻想たらしめている知識・経験・技量の不足点を明確にし、課題をひとつひとつクリアしながら時間を経過し、社会のなかの己を成長させていけば、思い描く姿、希望や夢は何も幻想で終わるはずもないのです。

でも誰もがそんなに優秀ではありません。幻想の重箱の隅の闇が闇のままでいるのは、自分の勇敢な行動の不足によるものではなく、単に社会の闇のせいなのだと無意識に決めつけて、己のなかの自身、自分で信用できる自分の面だけに光をあてて時を流下していると、この楽曲『さよならビリー・ザ・キッド』で主人公が観察する“君”のようになるのは至極自然ななりゆきだと思うのです。

何が君におこったんだ 何かが君をケっ飛ばした 君がとてもすけてみえる 消えてしまいそうなほどだ

『さよならビリー・ザ・キッド』より、作詞:真島昌利

ひょっとしたら、君を観察しているのは君自身の客観の人格かもしれません。つまり、主人公の自伝かもしれないとも思います。現実の真島さんと、この楽曲の主人公あるいは“君”が似ているかどうかはわかりません、だいぶ違うようにも思います。現実の作曲者や作詞者の人物像と、楽曲のなかの人格は切り離して味わってオッケーなのです。それが音楽鑑賞の楽しみでもあります。

国立の6月の雨 バス停のわきの木の下 君はぼんやりと立ってた 僕等はそこで別れたよ

『さよならビリー・ザ・キッド』より、作詞:真島昌利

リビングでこのCDを再生しながら、キッチンで飯をつくっているときにこのフレーズが耳に入ってきたとき、私は“バス停のわきの木の下”という歌詞を“バス停の秋の木の下”と聴き間違ってしまいました。ちょうどこの瞬間の現実の私は、夏が去って秋になる時期を過ごしているタイミングだったので、バス停の秋の木の下……季節感があって素敵な歌詞だなと勝手な取り違えをしてしまったのです。その直前に“6月”と歌詞にあるので、そこは聞き逃してしまったのでしょう。あるいは6月を経て、秋に突入したバス停の木の下という時間の経過を瞬時に味わったのかもしれません。

誰も見ていやしないのに 孤独なビリー・ザ・キッドを まじめな顔で演じてた 君をおぼえてる

『さよならビリー・ザ・キッド』より、作詞:真島昌利

ビリー・ザ・キッド義賊の象徴でしょうか。正義の悪と解釈してみます。正当性やかなった理屈を見出すこともできなくもないが、オモテむきの社会のルールや慣わしからの逸脱行為をする人が正義の悪であり、「ビリー・ザ・キッド」の喩えが表現する“君”の人物像の一面かと思います。どんなに富を不当に独占している許し難いブットビ野郎がいようとも、そいつから盗みや略奪という方法によって資源を取り出すのは悪です。歯痒い感覚もわかります。だってそもそもアイツが財を築いたやり方が汚すぎるじゃないか!うんうん、わかる。だからそいつに対してであれば、盗みや略奪をはたらいていい……? そこまではうなずきかねる私がいます。

楽曲中の“君”の話を逸脱してしまったかもしれません。

ギターで世界にはむかい 痛い目もみたよ くだらないことでいつでも 僕を笑わせた

『さよならビリー・ザ・キッド』より、作詞:真島昌利

理屈や主張の根源たる動機は共感するけれど、規律や社会のきまりとして結果的には悪になってしまう選択をする君。その正義の悪も「演じて」いたわけですから、本当のところは義賊ですらないのが“君”の正体かもしれません。ただ、僕とつるんで、僕を笑わせるだけの存在。ふたりの関係はイノセントで、純心無垢そのもの。

ずっと時間が経ってから再会したのが国立のバス停だったのでしょうか。固有名詞:国立(くにたち)が急に生活の臨場感を高解像に演出します。聖地めぐりしたくなりますね。

青沼詩郎

参考Wikipedia>夏のぬけがら

参考歌詞サイト ORICON NEWS>さよならビリー・ザ・キッド

真島昌利 ソニーミュージックサイトへのリンク

『さよならビリー・ザ・キッド』真島昌利のアルバム『夏のぬけがら』(1989)

ご寛容ください 拙演(YouTubeへのリンクShiro Aonuma @bandshijin『さよならビリー・ザ・キッド(真島昌利の曲)ギター弾き語りとハーモニカ』)