思い通りに転がされてたまるかといった尖った感じがサウンドの全面に出て思えるのですが、一方で、匿名性を強調したタイトル『少女A』が象徴するように、おのれがいかにありふれた存在であるかを主人公が自覚しているのを思わせ、その振れ幅が楽曲の独自性を呈しています。
エレキギターの歪んだトーンの重ね合わせが攻撃的です。イントロから切り裂くような鋭さ。また、ベースと随所でユニゾン。こんなに攻撃的なのに、協調してもいるのです。はみださんばかりの個性と殺気のヤンキー面々が、意外と絆が強かったりリスペクトが深かったりチームワークが良かったりする陳腐な妄想をしますが……我ながら自分の妄想の陳腐さに反吐が出る思いです。
とにかく、ぶいぶいいうベースとギターのユニゾンがカッコイイのです。これにキビキビとしたブラスがオブリガードをぶちかまします。ドラムスのタイトなサウンドが理性の柱を思わせる。バランス感が秀逸で、編曲の萩田光雄さんの手腕の至るところでしょう。ピィーッと浮かんだオルガンのハイトーンもまたスパイシーで光るアクセントになっています。
中森明菜の歌唱もダイナミクス、表情豊かです。自分を大きく見せようとしたり、美を装ったりする若さ・青さがにじみ出ていたら、平凡なアイドルソングとしては差支えのないものかもしれないにせよ、埋没してしまう危険がひりひりと肌を低温やけどに追いやったかもしれません。
歌詞の絶妙さと分け隔てが難しいところでしょうが、主人公における、己の矮小さの知覚といいますか、自分を俯瞰して見れている、達観している、年齢相応であれば自分のサイズ感を見誤ってもおかしくないようなものを、この主人公はどういうわけか、よくものを比べるスケール(ものさし、基準)を知っているように見えるのです。スレているというか、やっぱりちょっと大人びている。自分が大人じゃないことを知っていることで、大人びてみえるのです。
少女は記号だともいえます。また、名前の頭文字を置き換えたアルファベットも記号です。もう、自分なんてどこにもないのじゃないかと思わせる、記号の組み合わせ“少女A”。それを、じぶんだといえる10代そこそこの青少年って、なんだか年長者のこっちが震え上がる思いがするような、冷たく静かな態度……つまり冷静さを思わせます。
そういった違和感が随所に、いえ、全面的に光って、中森明菜という現実の存在と楽曲のなかの主人公が重ね合わせに見事に成って、当時の人々の目を存分に引いたことは、今でもこうして2023年の私が『少女A』というコンテンツに触れて、異時代なのに「いまのモノ」として楽しめていることが、暗に裏付けているように思えます。
盛り上がる思いをなだめて平静を取り戻して歌詞の字面をみてみると、“ワ・タ・シ 少女A”といいつつも、主人公はどこか、自分が自分であることに臆さないといいますか、誇っているような、貴い自覚があるようなふうにも思わせます。どこにでもいるけれど、ここにいるたった一人の存在であること。そういう絶対的な確かさと、あやうさ・もろさの重ね合わせが爆発して、バイクの気筒がうなっているのが聴こえてくる……幻の火花をみるような凄まじい味わい。
青沼詩郎
『少女A』を収録した中森明菜のアルバム『バリエーション〈変奏曲〉』(1982)
ご寛容ください 拙演(YouTubeへのリンクShiro Aonuma @bandshijin『少女A(中森明菜の曲)ギター弾き語り』)