まえがき メディアと知覚の話
テレビの圧迫感
テレビはその空間を支配してしまう。画面が大きければ大きいほど、視覚の注意をひくだろう。おまけに音を発する。音楽のみならず、多様な人の声(スピーチ・ナレーション、芝居、話芸、怒声……)、効果音。アコースティックなサンプリングを凌駕する電子音・人工的に生成したものの類。
広告料を中心に運営する性質上、視聴覚(目と耳)的に視聴者の注意をひくことがテレビの使命である。番組の最中もそうだろうし、CMの最中もそうだろう。目立つ画面、目立つ音。ユーザーがテレビ視聴に資源を割く意志のときは問題ないが、空間を共有している者の中にテレビを邪魔に思う人が混在すると、その人にとってはテレビの存在は厄介である。他のことがしたくても、気が散って仕方ない。
スマホ・パソコンの個人プレイ感
テレビを観たくない人と同じ空間で他の人がテレビを観ていると、テレビを観たくない人にとっては大変差し障るというのが上段の本旨だ。ここでいう「テレビの視聴」が、「パソコンを用いての何かしらのメディア視聴」に置き換わると、同じ空間で別のことをする人にとっての差し障りの度合いはだいぶ変わってくる。
テレビはその部屋に視聴空間を展開するのが負う使命なのだろう。おおむね、その部屋のなかで、複数の人がどこにいても、それぞれがそれなりに見やすかったり聞き取りやすかったりするように設置される。
パソコンは、基本、単独の人物が操作して仕事をしたり情報を得たりするのに用いられる。だから、たとえ画面の大きいデスクトップ型であっても、そのパソコンが置かれた空間のすべてを支配する性格においては、テレビのほうに軍配が上がるのがもっぱらだろう。
昔ながらの大衆食堂や町中華などにテレビが置かれ、つけっぱなしになっていて、食事の前後・最中に客らがそれを見るともなく見ているシーンを思い起こす。
かたや、スターバックスとかエクセルシオールとか、飲み物を傍らに一人ひとりの客がバラバラに、それぞれのパソコンやらスマホ・タブレットなどに向かっている光景がある。人によってはイヤホンで耳をふさいでもいる。もちろん連れ合いで会話するなどもあるだろうが。飲み物はそこで過ごすためのチケットみたいなものだ。大手カフェチェーンは、一人ひとりが個別に望む時間を過ごすことを後押ししてくれる。
かつてのテレビは大衆のものだった。「みなさんどなたも、このことを共通の話題にしましょうよ」という、送り手からの方向づけを感じるものだ。その番組の面白さを多くの人の共通の話題にさせ、その番組にともなって宣伝される商品やサービスも、より多くの人に認知され販売や売り上げが促進されること。上からおりてきて、大衆を支配する一方通行の流れ・構図を思う。
「公衆」という観念がテレビのそばにある。テレビのたち(性質)が時代とともにすべて変わってしまったわけではないが、ネットがあらわれて、世の中の注意や意識の量を占めるメディアの割合が激変した。言わずもがな、これもすでに昔話である。
ラジオの耳福 知覚の占有・分散の話
radikoのスマホアプリでラジオをよく聴く。もっと昔からラジオの魅力を知っていたら、私はもっと早い段階でもっとまともな音楽通になれていたかもしれないと思うくらい、興味の種、新しい風や刺激をもらっている。遅くとも中学生くらいまでにラジオの魅力に気づいていたかった。後悔はともかく……現在はradikoで、放送と同時刻でなくとも、自分で放送を録音しておくでなくとも、放送後1週間の猶予をもって手軽に聴ける。遠い地域(エリア外)の番組をも網羅するradikoプレミアムがひと際ありがたい。
音声だけのコンテンツは、注意の量を占有し過ぎないところがありがたい。もちろん全意識を集中させればそれだけ想像力を稼働した豊かなリスニング体験になるだろうが、移動中や作業中など、そこまでの意識を放送のリスニングに割かない状態であっても、自分の行動の傍ら、ちょこっとだけラジオ番組のタイムテーブルの進行、話題や音楽の移ろいに参加することができる。
テレビではこういった「ほどよい参加」ができないとは言わないが、やはり注意をひこうと刺激的につくられる画面や音の存在感が強く、「ながら視聴」の適性はラジオのほうに軍配が上がると思うのが私の実感だ。ラジオは「意識を割くことのできる量」における弱者にもやさしい。「ふと意識の切れ間に耳に入る」とか、「自分が特別に関心を寄せるものに言及したときだけ自分の注意センサーが反応する」くらいの付き合い方がしやすいのは、やはり聴覚のみに特化した“半生”くらいのコンテンツのなせる業かもしれない。
たとえば視覚と聴覚の両方をテレビに注いでしまうと、残るのは触覚と嗅覚と味覚くらいになってしまう。触覚と嗅覚と味覚のみで平行(同時進行)できる日常動作といったら……食事くらいだろうか? やっぱり大衆食堂や町中華とテレビの相性は抜群なのかもしれない。それはそうと{ラジオの音楽番組}+{新聞や雑誌}+{麺類や丼もの・一皿料理}なんて組み合わせも、どれかにしなさいと自分に言ってやりたくなる半面やってしまいがちで、それもまた悪くない。ひとつの感覚に集中する価値もあるが、分散することで得る体験もあるだろう。
生活の傍ら、よく聴くラジオ番組
FRAG RADIO(α-STATION FM KYOTO、くるり出演)、Daisy Holiday!(interfm、細野晴臣出演)、SPITZ草野マサムネのロック大陸漫遊記(TOKYO FM)、Got You OSAKA(FM COCOLO、トータス松本出演)、星野源のオールナイトニッポン(ニッポン放送)、Yuming Chord(TOKYO FM、松任谷由実出演)、Dear Friends(TOKYO FM、坂本美雨出演)、桑田佳祐のやさしい夜遊び(TOKYO FM)などミュージシャンが出演するものが好きだ。
Blue Ocean(TOKYO FM、住吉美紀出演)も好んで聴く。最新のまぶしさあふれる曲、定番の曲、懐かしい曲、知名度や趣味の深さもさまざまな楽曲が放送されるので音楽好きとしても楽しい。時事的な話題はもちろん、生活や仕事ほかあらゆることにまつわる個人の悩みにフォーカスする相談コーナーもあり、固有のリスナーのメッセージを通して世の人の雑感にふれるライフスタイルメディアとしても鮮度が高い。幅広い層の参加を促す社交性と度量、きっぱりとして快活な発話とキャラクター、青い海……あるいは太陽のようなシンボルとしての住吉美紀の存在が大きい。
世界の先進的なサウンドをもつ楽曲も日々放送されるなか、際立って最近私の記憶に残ったBlue Ocean(2023/5/1 Blue Ocean公式サイト内オンエア・リストへのリンク)の放送楽曲が、勝新太郎が歌った『サニー』だった。
サニー 勝新太郎
勝新太郎の声が渋い。女声コーラスが清涼感を添える。主和音の第5音を半音進行させて増5度やマイナーシックスの不穏な空気が勝新太郎の怪しい艶めきを強調する。冒頭のピック・ベースのピチピチとしたアタックとわずかにゲイン感のあるサウンドもスナックかクラブのような背景を演出する。ピアノの活舌がよく滑らかに転がる。ブリッとした響きで和声音程を出しまくるサックスはディストーションしたエレキギターかと思う倍音でミラーボールのようなギラつきを見せる。エンディングでは威嚇しあうようなフェイクを飛ばす。
風通しの良い都市の窓際のような爽やかなラジオ番組・Blue Oceanで、さらりとこの勝新太郎『サニー』がかかるインパクトは私にとって大きいものだった。
シングル『いつかどこかで』(1970)に収録されたのが勝新太郎『サニー』の初めての発表か。アルバム『夜を歌う』(オリジナル発売年:1976)にも収録。
Sunny ボビー・ヘブ Bobby Hebb
ベースが颯爽と疾走する。コンコンとビブラフォンが揺らめき、かがやく響きで添い寝する。エレクトリック・ギターがプレーンなトーンでぴったりとしたカッティングでバック・ビート。低いところでじわじわうなるサクソフォン。少し遠いところに感じるベル(金管)は柔和な音色。
Em→Fm→F#m→Gmと度重なる転調を経てオーブンの庫内温度が上がっていくように熱を増す。ソウルフルな歌唱やそのフェイク、管楽器の熱量も転調とともに増していく。ドラムスは後半はほぼダウンビートで1,2,3,4のオモテを強調しバンドを乗せ秘境へ誘う。
主題の“Sunny”をコールする、“Uh”とクローズドな響きで奥行きを醸す女声。音域としてはメインボーカルより上にいるだろうに、前後感が良くメインボーカルを絶妙に上に乗せて引き立てる。
最初のコーラスから最終コーラスに向かうメインボーカルのダイナミクスの幅がよく出て、オン・マイクで明瞭なキャラクターで熱量感もある。
作詞・作曲者でありオリジナル・アーティストのBobby Hebb。本人名義のシングルが1966年。
サニー 弘田三枝子
オープニングは6拍子なのだろうか。ゆらめきを感じるスウィングした移勢をかまし、冒頭からハイ・コンテクストで深い音楽性、高い意匠で聴き手を惑わす。演奏時間30秒頃で4拍子がはっきりしてくる。
ベース、ピアノ、ドラムスのトリオが沈黙と夜の静けさを演じる間奏。ピアノのチリチリとしたゲイン感、演奏の理知と平静が孤独な熱量とひりっと寒い外気の狭間で都会にたたずむ主人公の輪郭を成すようである。
このボビー・ヘブの作『サニー』“Sunny”を最初にレコーディングし発表したのがこの弘田三枝子のものだという。アルバム『MIKO IN NEW YORK(ニューヨークのミコ ニュー・ジャズを唄う)』(1966)に収録。演奏はビリー・テイラー・トリオ。ボビー・ヘブのパフォーマンスにみる、ソウルあるいはリズム&ブルースを思わせる曲想とのギャップ、長い年月を経て大胆にアレンジされ価値を再提唱したような高い洗練に驚くばかり。
余談 サニーの訳詞者に『夢は夜ひらく』の曽根幸明
勝新太郎の歌った『サニー』の日本語訳詞者:曽根幸明の名前に見覚え。一般や歌手の口を伝い、数多の異なるバージョンを派生させたアウトロー歌謡『夢は夜ひらく』(原曲:『ひとりぽっちの唄』、藤原伸:曽根幸明の芸名)の作者である。都築響一『夜露死苦現代詩』に『夢は夜ひらく』に関わる曽根孝明へのインタビューがあり、7・5調の歌詞がもたらす大衆性の強みを思い知った記憶がある。
後記 Sunnyの波及
サニー、すなわち“陽光”“晴天”の観念を曲名に冠しつつ、“夜”と連れ立って来る二面性ある曲想、“Sunny”なのである。そのギャップに表現、味わいのポテンシャルを思う。表があれば裏がある。光があれば闇があるし、夜があれば朝も昼もやがて来る。短調のくすんだ響きは光明や希望の裏返しだ。離れてみるからこそ、そこに光明があるのが観察しやすい。作者の感情と理知の揺らぎ、生命観が宿った深淵な思想が奥に垣間見える楽曲に思える。多くのカバーを生んだのもうなずける。
青沼詩郎
勝新太郎のアルバム『夜を歌う』(オリジナル発売年:1976)
Bobby Hebbのアルバム『Sunny』(1966)
弘田三枝子のアルバム『MIKO IN NEW YORK(ニューヨークのミコ ニュー・ジャズを唄う)』(1966)
夜露死苦現代詩(著:都築響一、筑摩書房、2010年)
ご笑覧ください 拙演(YouTubeへのリンクShiro Aonuma @bandshijin『Sunny(Bobby Hebbの曲)ギター弾き語り』)