弦(竿物)が何本いるんだ!の様相です。歌に聴き入っているとまとまりがあって気にならないのですが、オケにも注意すると実に竿物づかいが豊かです。
アコギのストラミングは当然ながらいると思いますがあまり前にしゃしゃって出てくる感じではありません。左右にかまえる、ゆらめくようなワウだかトレモロのかかったようなトーンがサウンドの割合を大きく占めるでしょうか。チョップ(スイープ)したようなピッキングのニュアンスがいぶし銀で、寡黙で渋い印象を醸します。
間奏をリードする存在感あるメロディはマンドリンの音色でしょうか? 複弦の豊かな響きで広がりがあります。歌のあるところでもオブリガードしている感じです。歪んだエレキギターもいます。
バックバンドが浜田省吾さん含む愛奴だという話で、バンドとして独自のフィールや音楽的語彙のローカル感を培ったような、息……波長の合った独特の心地よさがあります。ひっかけるようなゴーストノートの聴いたドラミングで、引きつけて、タメて、バシっといく……キックとスネアのグルーヴ、もったりと耳を引くベースの組み合わせのうえで吉田さんとかまやつさんの歌が哀愁をまき散らします。
二人のキャラクターの違うボーカルが入れ替わりながら紡がれる哀愁。吉田さんの書くメロディは一聴して愛着がわくのに不思議と自分でいざ歌ってみようとすると案外歌唱の難易度が高い曲が多く、『竜飛崎』はこれでもまだ可愛いほうといって良いでしょう。そんな傾向の中でも、かまやつさんらしい「かまやつ節」も感じます。お二人とも至極独特で唯一無二のキャラクター、稀有で独自な表現者なのは確かですが、二人の間の波長の相まりも感じるからなお神秘です。
なお主題の竜飛崎(Wikipediaへのリンク)は青森県、津軽半島最北端の岬です。
“竜飛崎よ どてっ腹を ぶちぬかれちゃったね”
(『竜飛崎』より、作詞:岡本おさみ)
「どてっ腹」を「ぶちぬく」。濁点の連なりが濃ゆい印象ですが、濁点が強い拍にモロ当たりするのをうまいこと避けたメロディ、節回しになっています。1961年に建設開始、1988年に開通した青函トンネルのことを歌っているのでしょうか(Wikipedia>青函トンネルへのリンク)。
“六月の春がいちどに花ひらくこの岬には
秋にあじさい咲くという
また来てしまった
しょせん帰りゆく この旅なのに
あゝまだ津軽は 吹雪です
凍え死ぬこともないな ぼくの旅”
(『竜飛崎』より、作詞:岡本おさみ)
いったいいつの季節の歌なのか、解釈する道筋が入り乱れそうなハイブリッド感。あじさいが咲き、盛ることを「六月の春」と喩えており、その土地の気候の特色によって、その「あじさいにとっての春」といえる「六月の春」が秋ごろに訪れるのが、この竜飛崎の地域の情景なのでしょうか。検索するに「秋」はちょっと言い過ぎな向きもある?ような時期に咲くとする記述も視界に入りますが、歌の世界はおおげさに言ったりホラを吹いてなんぼなのでむしろ好ましいでしょうが、秋に咲くあじさいも実際のところあながち嘘でもないのでしょう。印象に残るラインが組み合わさった作詞です。
どてっ腹をぶちぬかれれば、本州との血が通うでしょうか。もちろん開通以前も船の道があるはずですから、青函トンネルは人やものが通う手段のひとつだとは思うのですが。
交通の便、インフラはととのっていく。社会はどんどん進んでいく。旅にふらっと行って、そこで一宿一飯に困って野垂れ死ぬこともまぁまずない。恵まれることと、記憶の中で凍りつくみたいに残りつづける、いつかの不便したり苦労したりした瞬間の記憶……それも、個人としての己が所有する記憶以上に、先祖が、社会が有する積みあげてきた汗水や血を流した痕跡かもしれません。人類一人ひとりの遺伝子に刻まれた先代の記憶を回顧する、幻のような感覚。
なつかしさとは不思議なもので、若い人も持ちうる感覚なのです。もちろん、年齢とともに増長する感覚だとも思います。
青沼詩郎(沁みるなぁ)
参考Wikipedia>シンシア (よしだたくろう・かまやつひろしの曲)
Monsieur Kamayatsu Forever ムッシュかまやつWEB記念館
『竜飛崎』を収録した『よしだたくろう ベスト・セレクション』(1995)
ご笑覧ください 拙演(YouTubeへのリンクShiro Aonuma @bandshijin『竜飛崎(よしだたくろう&かまやつひろしの曲)ギター弾き語りとハーモニカ』)