四つ足
夏休みだから、田舎に行くことになった。
僕には父の田舎と母の田舎がある。両方の田舎にいっぺんに行くことはできないから、片方ずつ行くことにした。
僕の家はだんだん家族が増えて行った。いま、うちは6人家族だ。もう、5人乗りの1台の乗用車に全員乗り切れなくなってしまった。いちばん下の弟はまだ母乳を飲んでいる。
車に乗り切れないしお金もかかるから、もう家族みんなで今年、田舎に行くのはやめたらしい。らしいというのは、僕が言い出したんじゃないからだ。
僕はひとりで電車に乗って田舎に行くことにした。
パンツや靴下を持った。歯ブラシも持った。お金も持った。あと何がいるかわからないから、とりあえず水着を持った。
家を出ると、山羊がいた。山羊の瞳は、なんだかおかしい。どうしてあんなふうなのか。蛙の瞳もあんなふうだった気がする。どうして瞳孔が細い非対称な瞳なんだろう。おかしいよ。でも山羊は僕の瞳を見ておかしいと思っているのかもしれない。あるいはそんなことよりも大事なことが山羊にはあって、僕の瞳のかたちなんて気にしていないだろう。
僕は山羊について行った。そう、山羊はこっちを一瞥したのち、歩き出したのだ。
四本足があるってどんな感じなんだろう。どの足をどういうふうに動かしたらいいのか混乱しないのだろうか。器用だと思う。
でも多分、山羊は僕みたいに歯ブラシを使って歯を磨けないと思うんだ。だから、山羊も僕のことを見たら器用って思うかもしれない。でも山羊には歯を磨くのよりももっと大事なことがあって、僕が歯ブラシを使って歯を磨くことなんてなんとも思わないかもしれない。さっきだって、僕が財布から小銭をいくつも取り出してひけらかすみたいに自動販売機の溝に差し入れてもそっぽを向いて口をもごもごさせていたし、取り出し口に落ちてきた缶のプルタブを引っ張って栓の抜ける音を高鳴らせたときもやっぱりそっぽを向いて口をもごもごさせていた。山羊は僕よりも大事なものを、きっといっぱい持っている。今日の空模様とか、蝿の行く先とか。違うか?
不思議と山羊は僕の歩みを待ってくれる。さっきだって、自動販売機の前でもぞもぞしている僕を待ったんだ。だから僕たちは今も一緒に行動している。
山羊のおかげでぼくは電車に乗ることができた。いまもとなりには山羊がいる。さっきまで一緒だった山羊とおんなじ山羊だ。見間違うことはない。からだに特徴的なしみがある。
なんのしみに似ているのか、表現がむつかしい。でも、僕はそのしみをよく知っている。大好きだったおじいちゃんのそれだ。そっくりなんだ。
これから行こうとしている田舎で、去年までおじいちゃんは生きていた。今年は行ってももういない。だから、そこに「おいでよ」ってしに行くつもりで、僕はいま山羊と一緒に電車に乗っている。
山羊さんゆうびん(ザ・フォーク・クルセダーズ)
自分で書いた即興小説を本日のブログ記事の枕にしてしまった。
山羊で思い出すのはザ・フォーク・クルセダーズのアルバム『紀元貮阡年』(1968)に収録された『山羊さんゆうびん』。
原曲は作詞・まど・みちお、作曲・團伊玖磨『やぎさんゆうびん』。有名な童謡だ。
手紙がくると、黒山羊はたべてしまう。
しまった…! 読む前にたべてしまった。
(どれだけ紙に飢えている?)
たべてしまって、内容がわからない。どうしよう。大事な用かもしれない。
なんの手紙だったか訊くしかないな。
それで手紙を書くのだ。
そうしたら、一度じぶんが書いたはずの手紙の用件を訊いてきたその手紙を、白山羊はたべてしまう。白山羊は、自分が書いた手紙の内容を黒山羊が読まずにたべてしまったから、手紙の内容がわからなかった…だからまた、なんの用件だったのかおしえてほしい…という内容の手紙だということを知らずにたべてしまう。
そして、白山羊は黒山羊がとったのとおなじ行動をとる。
このあと、このやりとりが延々と繰り返される想像をいったいどれだけの人がするだろう。
紙にくびったけすぎる感じがなんとも可愛く、おかしい。
どれだけ「紙」が好きなんだよ。読む前にたべたら内容がわからなくなってしまうということを忘れさせるくらいにがっついてしまうのか? がっつかせるほどに、「紙は食べるもの」という認識を持っているのか? どれだけその認識はつよいのさ。
ちなみにおなかをこわすから、山羊は紙を食べてはいけないという通説をわたしは認識している。現実の山羊も、たぶん手紙なんかより草のほうが好きだろう。ってか、たべるんだろうか。
青沼詩郎
ご笑覧ください 拙演