星野源『くだらないの中に』を私に紹介してくれたのは妻だった。
最近毎日、人の曲をカバーして動画をアップロードする活動をしているのだけれど、そんな私に「この曲は(どうか)」と紹介してくれた。
そのとき、曲を一聴して思ったのが「おれには声のポジションが高いな」だった。いいバラードだと思ったけど、その理由ですぐそのときに「よし、やろう」とは思わなかった。これが少し前のお話。
7月の17日頃にカバー動画更新の活動をはじめて…そうか、昨日で2か月が経ったのか。
昨日、ネタを求めてインターネットをうろうろしていた。日中、時間をつかえるスケジュールの日だったからゆっくりそれができた。
そうしたら、なんのご縁か、検索の道すじに星野源の『くだらないの中に』が現れた。スポット検索をしたのではない。別のことを調べて、道草を重ねていた。そう、斉藤和義の『紅盤』というコンセプト・アルバムの収録曲『君は僕のなにを好きになったんだろう』が気になって楽曲名で検索したらあるブログが出てきて、そのブログ内の別の記事で星野源『くだらないの中に』が取り上げられていたのだ。
前に妻にこの曲を提案されたときは、私は「受け身」だった。その「きっかけ」「ファースト・コンタクト」が伏線になって、起爆した。「おっ」「そういえばこの曲は前に紹介されたやつだったな」と思いつつ、自分から曲に出会ったという思いがこの日は強かった。インターネット(検索エンジン)から提案されたものを「受けた」だけで、能動性というには及ばないかもしれないけれど。
『くだらないの中に』を、私が加入しているサブスクアプリで再生してみる。
アコースティック・ギターのイントロの質感。すごくいい。私は気持ちが動いていた。この「気持ちが動くかんじ」が、行動を引き起こす。「やってみたい」と。
夢中で歌詞とコードを聴き取り、書き留めた。
イントロ。ドアタマから数えて2小節目、フラットファイブのコードの響き。これがいい。ギターの演奏ポジションをさがす。最近あまり使っていなかった押さえ方だった。いいなこれ。コピーが楽しい。
一拍単位でコードチェンジする場所が随所にある。たとえばⅤm-Ⅰ7-Ⅳの動きが頻出する。ほか、私の手癖を外した進行も。書き出さないと自分で演奏するにはワタワタすると思った。この日はその労力を割けた。一曲とじっくり向き合う体験こそ身になる。
「毎日カバー」をしているとせせこましい。私は自分の表現の幅を広げるためにカバー動画更新の取り組みをやっているのだけれど、時間に迫られてときに粗雑になってしまうことの脆さを意識した。粗雑にしてしまったら、そのぶん自分の表現に返ってくるものが減ってしまう。本末転倒である。
話を戻す。コードは4和音が多い。星野源『恋』を聴いたときも、『うちで踊ろう』を聴いたときにも思った。それから、歌メロ。8分音符で動くところもあれば、16分の割り付けになるところもある。コード、メロディ、リズムの複雑な「振り付け」すべてがフックである。そういえば星野源はダンスにおいても秀でている。そう…星野源の音楽は、純音楽にしてダンスなのだ。純なポップ、その高みへのアプローチを彼は変化球で満たしている(「くせ」とも)。ストライクゾーンの四隅ギリギリまで活かして投げ分けてくる。そんな印象を私は持つ。
歌詞に注目。
“髪の毛の匂いを嗅ぎあって くさいなあってふざけあったり”
“首筋の匂いがパンのよう すごいなあって讃えあったり”
(『くだらないの中に』作詞・星野源)
たとえば、ピアスの穴の匂いを嗅ぐのが好きという人がいる。くさい匂いをあえて嗅いでしまう心理が私にはよくわかる。「くさい」といってみたが、それは不正確だ。くさくはない。気になるにおいとでも言うか。「好きな人」のことを「気になる人」と表現することがあるだろう。それは「好き」の一歩手前を表しているようにも思えるし、実は「好き」とは全然ちがう次元の要素にも思える。とにかく、私を強く引き付ける原因なのだ。それが「気になる」であり、私の観察のアンテナ、五感が反応するポイントなのである。
その原因(きっかけ)とリアクションのシーンを切り取ったのがこの歌詞である。この表現は、すごく個人的なのだけれど普遍的に思える。切り口がユニークだけれど、「そういうことってあるよね」なのだ。繰り返そう。星野源は極めてストライクゾーンのギリギリまで活かして投げ分けてくる。マウンド上のダンサーだ。
上で紹介したラインに続く歌詞が
“くだらないの中に愛が 人は笑うように生きる”
(『くだらないの中に』作詞・星野源)
だ。標題のフレーズ“くだらないの中に”が出てくる。“愛が 人は笑うように生きる”と続く。文章としては、“愛が”のあとに省略がありそうだ。“愛が”、なんなのか? 「ある」と続ければ文章としては落ち着く。しかしそれをしない。“くだらないの中に愛が 人は笑うように生きる”なのだ。これは、「降りてきた」フレーズだと思う。立ち止まってまじまじとそれを眺める。うーん。文章としては確かに抜けがある…かもしれない。けれど、これはママイキだ。これがいい。曲を生み出しているときの、星野源の心の動き、推敲の経過を妄想する。実際はどうか知らないが、私だったらそうするだろう。降りてきたものを吟味して、直すか生かすかの判断を下す。これは生きたほうのパターンだ。
“愛が”と“人は”のあいだにスペースが入るのが正式かもしれないが、ここでひとつ、ひねくれた解釈を考えてみた。「愛が人」ととらえるのだ。「おらが村」(私の村)的な表現である。つまり、「愛の人」。そうすると文章がつながる。「くだらないの中に【愛が人】は、笑うように生きる」となる。明らかな曲解かもしれない。考えるのは楽しい。
青沼詩郎
2020年はファーストアルバム『ばかのうた』リリースから10周年。おめでとうございます。活躍、めざましく。
星野源のファースト・アルバム『ばかのうた』(2010)
『くだらないの中に』を収録したアルバム『エピソード』(2011)
ご笑覧ください 拙演