夏に味わった『どんなときも。』
夏頃(2020年)に、槇原敬之の『どんなときも。』を味わいました。ここでいう「味わう」とは、聴いたり、聴き込んで曲の特徴を抽出して自分で弾き語ってみたりするという方法で鑑賞することをいいます。
「聴いた上で、弾き語る」は、その曲を私の心に深く根をおろすものにする積極的な方法のひとつです。
自分で好きな曲を弾き語る体験は、オリジナルとなるアーティスト、たとえば槇原敬之が一般にどういう存在なのかとか、同様に『どんなときも。』という曲がどういう背景を持って生まれたものなのかといったこととは別に生じる固有の記憶です。
何が言いたいかと言いますと、私は槇原敬之やその楽曲について正しく詳しい具体的な背景などの情報を持ちませんが、曲に触れ、想像を膨らますことができるのです。
それはもちろん、どなたについても同じことが言えるのかもしれません。
そんなわけで、ただ雑然とした現実の世界からぽつりと浮かんでいるみたいにして、私の中に槇原敬之の『どんなときも。』がただあるのです。
『遠く遠く』
日々音楽アプリをつかって曲を聴くのですが、たまたま出会ったのが槇原敬之『遠く遠く』でした。
私の使う音楽アプリにはランダム再生(?)の機能があります。今選んでいる曲と、ジャンルや年代?(詳しく・正しくはわかりません)に従って、私が関心を持つかもしれない別の曲を延々と再生する機能があるのです。
なので、私が自分の好みに従って適当に再生を繰り返す中で槇原敬之『遠く遠く』が再生されることは自然…といいますか、可能性の高いことだったと思います。
『遠く遠く』は槇原敬之のアルバム『君は僕の宝物』(1992)に収録されています。彼のキャリアで3枚目のアルバムです。
非シングル曲ですが、2006年にNTT東日本のCMソングになったことで認知を広めたようです。私自身にもうっすらですが、CMに接した記憶があります。
『遠く遠く』音楽と歌詞
歌詞
サビから入る構成。冒頭から
“遠く遠く離れていても 僕のことがわかるように 力いっぱい輝ける日を この街で迎えたい”(『遠く遠く』より、作詞・作曲:槇原敬之)
という歌詞。
結びの歌詞は上記のサビの歌詞に加えて
“僕の夢をかなえる場所は この街と決めたから”(『遠く遠く』より、作詞・作曲:槇原敬之)
です。
この曲想に、私は槇原敬之『どんなときも。』に通ずる、向上心や目標に向かって何かを成そうとする意志や情熱を感じます。
表現は当然異なりますが、『どんなときも。』には
“もしも他の誰かを知らずに傷つけても 絶対ゆずれない夢が僕にはあるよ ”昔は良かったね” といつも口にしながら 生きて行くのは本当に嫌だから”(『どんなときも。』より、作詞・作曲:槇原敬之)
とあります。
自分の向上や達成のためなら誰かを傷つけてもいいなどとは決して言っていませんが、たとえ“知らずに”それをしてしまってでも“ゆずれない夢が僕にはあるよ”という意志には、「非情」といいますか、禁欲的に真実に向かう、不器用なくらいにまっすぐな態度を感じます。冷酷さと熱情を持ち合わせているかのようです。
また、
“ “昔は良かったね” といつも口にしながら生きて行くのは本当に嫌だから”(『どんなときも。』より、作詞・作曲:槇原敬之)
という部分は『遠く遠く』の2番のサビの折り返しのフレーズ、
“大事なのは 変わってくこと 変わらずにいること”(『遠く遠く』より、作詞・作曲:槇原敬之)
を私に強く想起させ、関連を思わせます。
昔は良かったことそのままが、今の自分にとっても良いとは限りません。変わることと変わらずにいること。ふたつのことは、対極にある別のことであると同時に、境目を引くのがむずかしいことでもあります。無段階につながっている表裏一体のこととも思います。
音楽
『遠く遠く』で印象的なのは裏打ちのリズム。レゲエやスカなどにみられるバッキングパターンです。これに、リズム&ブルースや歌謡のようなメロディ・リズム、サウンドが交雑したような独特の質感。冒頭のサビ後にあるスティールパンを模したシンセサウンドが、「どこか遠く」を表現しているように感じます。スティールパンは、南国や島国、リゾート(非日常)を私に想起させます。都会(日常)を思わせる歌詞との対比に思えます。
サビやスティールパン風サウンドの間奏で右側から聴こえる、1拍目裏から入ってくるエレクトリック・ギターの独特のグルーヴを持ったトリルの装飾が入ったようなカッティング。これも、私にレゲエミュージックへの敬愛や憧れを思わせる仕掛けのひとつ。心地よく響きます。
現在を過ごす私との響き合い
「遠さ」「隔たり」は、社会で生きる上で、最近の私が頻繁に意識する概念でもあります。そして、『遠く遠く』や『どんなときも。』の本質には、望むほうへ向かい、努め、成そうとする意志、変化し、高め、良くなって行こうとする情熱を感じます。(その裏に、非情の冷やっこさも。)
『どんなときも。』はシングル曲であり、槇原敬之の2枚目のアルバム『君は誰と幸せなあくびをしますか。』(1991年)収録曲です。『遠く遠く』(1992)と時期的な近さもあり、ふたつの曲はこのように通底する意志から生まれた曲のように思えます。『遠く遠く』のほうには、より音楽に「遠い土地」を思わせる特徴が取り入れられているようです。でも、『どんなときも。』のイントロにもラテン楽器のティンバレス?のようなモチーフが入っています。次のアルバムに入る『遠く遠く』を予感させる…と、ふたつの曲を味わった今では思います。
青沼詩郎
後記 リスニング+弾き語りの記録として
2020年5月に私はここのサイトをつくって音楽ブログを書き始めました。
最初は単にリスニング記でした。
7月頃からは、「ブログとは別」の認識で、なんとなく、自分で選んだ好きな歌(他人のつくった曲)を弾き語りしてそれをYouTubeにアップロードするようになりました。
ところで、単に「リスニング記」だけだと弱いかなぁと思ってもいました。
やっているうちに、「歌を選んで、弾き語りした体験」と「リスニング記」を合わせてブログにするようになりました。
「聴く」行為も奥が深いです。「これ以上深く聴くことはできない」という境地には、厳密には至ることは無理かもしれません。だから、「リスニング記だけでは弱い」というのは、単に私の至らなさから来る思いです。
ただ、「弾き語る」ことは、「単に聴く」だけでは至りにくい角度や目のつけどころでその曲をみることになります。その体験は、ただ曲を聴いて、思ったり気付いたり考えたりしたことや、足りない知識をネットやCD・書籍などの物理に求めて得る以上の創造性を駆使したのものになります。
だから、私のリスニング力の至らなさをカバーしてくれる方法が、このリスニング+弾き語り体験記だったのです。毎回完璧にきちんとその形をとっているわけでもないのですけれど。
『遠く遠く』を収録した槇原敬之のアルバム『君は僕の宝物』(1992)
『どんなときも。』を収録した槇原敬之のアルバム『君は誰と幸せなあくびをしますか。』(1991)
ご笑覧ください 拙カバー
青沼詩郎Facebookより
“去年の夏頃、ふと『どんなときも。』をじっくり聴いて味わって、曲のメロディや響きやリズムが心に残っていました。
『遠く遠く』という曲は、たぶんテレビCM(NTT東日本)で聴いたことがありました。最近、サブスク音楽アプリで繰り返し聴くうちにあらためていい曲だなと思っていました。
「遠く遠く 離れていても」という歌詞をはじめ、現実のいろんなんことが重なります。
ちなみに、昨年の夏頃から槇原敬之は活動を休止しています。
槇原敬之や私やあなたやもろもろが、力いっぱい輝ける日を期待しています。”
https://www.facebook.com/shiro.aonuma/posts/3541813675912281