肯定は愛

どんなときもどんなときも 迷い探し続ける日々が 答えになること僕は知ってるから”(槇原敬之どんなときも。』より引用 作詞・作曲 槇原敬之、1991年)

私は歌をつくる。それをライブでやったり、録音したりする活動をしている。

歌をつくる動機になるものがある。それは失恋かもしれないし、幸福や愛情かもしれない。

なかでも、「自己肯定」はたびたび歌になる。

私だけじゃないだろう。さまざまなアーティストが、ミュージシャンたちが、自己肯定を歌にしてきた。

それは「あなたへのメッセージ」でもあり、「あなた」の肯定でもある。

Youのところに、自分を代入するか、あなたを代入するか。

それによって、自己肯定にもなるし他己肯定にもなる(「他己肯定」なんてことばあるんだろうか?)。

私はそういう肯定の歌が好きだ。

この世のあらゆるラブソングの中でも至上のものだと位置づけている。

なにげなく「ラブソング」と形容した。

そう、肯定は、愛なのだと思う。

私はあなたを肯定する。

「あなた」は、私かもしれないし、いまこれを読んでいるあなたかもしれない。

「答え」の歌

冒頭の引用に戻る。槇原敬之『どんなときも。』

私は、いろいろなことに迷っている。

日々、失敗している。そのなかのわずかな分が、うまくいくことにつながっているかもしれない。

でも、ほとんどが「迷い」だし、ほとんどが「探している状態」の最中だ。

それが、「答え」を結ぶかなんてわからない。

もちろん、たまたま結ぶこともある。感情の高まりが何かのはずみで自己肯定と結びついて、新しい「歌(オリジナル曲)」が生まれることもある。

それは、私にとってかけがえのない「答え」のひとつだ。その歌が、何を変えるか? あなたのもとに届いて、あなたを変えるきっかけになるか? そこまでは正直、わからない。そんな奇跡めいたことが起これば、私は幸せだし、歌も幸せだ。

そこまでの奇跡を起こすことがなくても、少なくともその歌は私を変える。ほんのちょっとかもしれないけれど。

歌が生まれることで、愛する人を守る力がつよくなるかなんてわからない。

願わくばそういうものであることを思う。

でも、歌が生まれることで私は浄化されてしまう。

私のすべてが浄化されて、この世からなくなってしまうとかそういうのじゃない。

浄化なんてされないで、もっと現実に、社会に、集団に、目の前の誰かに、これを読んでいるあなたに強く作用して変化を、革命をもたらすものであるべきかもしれない。

でも、そんな「べき」は知らないよ。私にそこまでセキニンは持てない。

だって、歌は何者にも縛られないから。

それだけで、ぽつんといられるのだ。

私が、あなたの力なしには、社会の支えなしには生きて行かれないのとは微妙に違うだろう。歌は独立した存在でいられる。

そんなことを思わせてくれる好例が槇原敬之『どんなときも。』だ。

私のなかのマッキーが目を覚ました

なんだか不思議なタイミングが合ったような気がしてこれを書いた。

私はかねてよりマッキーの熱心なファンで…というのでもない。

昨日かおとといくらいに、ふとこの曲のメロディ、そのポジティブなメッセージの強さにふと気付いて、急に意識し始めたのだ。

自分の外側の世界で、何か槇原敬之や『どんなときも。』に関する情報にふれたのがきっかけなのでもない。

私のなかにすでにあった『どんなときも。』が急に輝きだしたのだ。ただ、思い出したというだけなのだけれど。私が求めていたのかもしれない。

今日、これをあえて書いてみた。

この日々も、この瞬間も、いつかは何かの“答え”になるだろう。

楽曲『どんなときも。』メモ

・槇原敬之のシングル、彼のセカンドアルバム『君は誰と幸せなあくびをしますか。』に収録。ともに1991年。このバージョンのほか、シングルのカップリング『どんなときも。[ballad version]』(2012年のベストアルバム『秋うた、冬うた。〜もう恋なんてしない』に収録)、シングル『GREEN DAYS』のカップリング『どんなときも。’07』がある

・織田裕二主演の映画『就職戦線異状なし』(1991年)主題歌。この映画の主題歌の募集(コンペ?)を知って制作、応募されたものが『どんなときも。』だという。

青沼詩郎

(参照元:Wikipedia

槇原敬之 公式サイトへのリンク

https://makiharanoriyuki.com/m/

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