映像
モノクロの画面。和装の島倉千代子。管弦楽の編成です。指揮者もいますね。芯があって細かい節回しのついた歌声。日本民謡や詩吟などの素養を思わせます。彼女のキャリアの実際やいかに。映像の島倉千代子は若く見えます。堂々たる歌唱です。
ボン、ボボン……と鳴る低音。コントラバスやチューバの合音でしょうか。録音版で聴いたのと低音位にやや違いがあります。この編成のための特別な編曲でしょうか。映像はTV番組か。歌い終わるやいなや退場せんとする島倉千代子。ステージ転換がタイト(時間に厳しいの意)なのでしょうかね。
ぽつんとした一隻の船が目に浮かびます。歌詞の情景、優雅な歌メロディが伝わってくる歌唱と編曲が胸に迫ります。
スコンと抜けたスネアのサウンドが気持ち良い。フルートのオブリガードが調和し心に余韻します。
曲の名義など
作詞:なかにし礼、作曲:浜口庫之助、編曲:ボビー・サマーズ、合唱:ボビー・サマーズと彼のグループ。島倉千代子のシングル(1968)。
島倉千代子『愛のさざなみ』(シングル版)を聴く
バンドのアレンジ、ホットなサウンドがかっこ良い。聴き惚れてしまいました。じんじんと押し出すアナログのゲイン感。エレキギターの2拍目・3拍目ウラにくるアクセント。キレの良いクランチサウンドです。アコースティックギターのストロークがのどかで、音の壁を厚くしています。グループサウンズバンド、あるいはグループサウンズを生んだ源流を解釈したような音です。
歌のハーモニーパートが豊かです。島倉千代子を含んでいるのか、島倉千代子以外のボーカリストなのか。エレキギターのカッティングとポイントを合わせた「、パッ、パー」のハーモニーが記憶に残ります。
間奏や後奏に「、シ、ミーーシ、ラ、ソ♯ー」という2小節のモチーフが聴こえます。ボーカルの「フッフー」といったハミングとピアノのユニゾンでしょうか。不思議で神妙なサウンドをしています。非減衰系と減衰系の合音?が神秘的。
島倉千代子のボーカルは情感いっぱいです。心の底から出た言葉のように歌っています。胸声と頭声(雑に言うと、地声と裏声)を器用に行き来しているでしょうか。高い音域の繊細さと低い音域の豊潤さをともに発揮しています。
歌詞
“この世に神様が本当にいるなら あなたに抱かれて私は死にたい”(『愛のさざなみ』より、作詞:なかにし礼、作曲:浜口庫之助)
神様を持ち出されると、心がまるはだかにされた気になるのは私だけでしょうか。神様がどういうものか定義するのは私には難しい。言葉にした瞬間嘘になる気がします。
誰かに何かを伝えようとするとき、必ずねじ曲がってしまいます。言葉、態度、やおよろずの方法や媒体による表現が、良くも悪くもフィルターになってしまうのです。ここでいう神様とは、そうしたフィルターを排して、私のほんとうの心を、まるはだかの真意をわかってくれている存在ではないでしょうか。
神様を持ち出され、私は「おっ」と思ってしまったのです。持ち出し方がまずければ、私は眉をひそめた刹那、気にもとめず曲を聴くのをやめたかもしれない。でも『愛のさざなみ』は歌い出し1行目から私をひきつけました。理由は、イントロからバンドのサウンドがカッコよかったこと。平静なポジションから滑らかに、それこそさざなみのように上下しゆらめくメロディ、その魅力を引き出す島倉千代子の歌唱が良かったこと。
ねじ曲がりなく私の心を透かしみる存在。神様になら言える私の本音は、「あなたに抱かれて死にたい」。極端を承知で本当にそう思っている。もののたとえではない。そんなことを言っても理解されないことをはばかって、相手が生身の人間ならば、そのようなことを伝えんとすることは諦めたかもしれない。敬虔な愛を歌っている。私はそう解釈しました。
“ああ 湖に小舟がただひとつ やさしく やさしく くちづけしてね くり返す くり返す さざ波のように”(『愛のさざなみ』より、作詞:なかにし礼、作曲:浜口庫之助)
「湖に小舟がただひとつ」は1〜3番に共通して登場する情景描写。このライン以外はおおむね抽象を保っています。
湖は海と比べると静かです。より限られた範囲、目の行き届く規模を想像させます。「湖」は心の中を象徴する情景に思えます。
湖に浮かぶ小舟は孤独です。定員は2人くらいなら許されそう。つまり、「孤独な2人」を表現しているのではないでしょうか。独りきりではない。しかし、2人寄り添ったところで孤独が拭えるわけでもない。「小舟」にそんな想像を抱きます。寂しさ、恋しさを持ち寄る閉鎖環境、それが「小舟」ではないでしょうか。激情でもなく、社会を覆す革新の中心地でもない。しかし、周囲にゆらめきと波紋を及ばせます。愛の存在証明。それが「さざなみ」か。
メロディ
歌い出しの“この世に神様が”は前の小節に8分音符ひとつはみ出させる弱起。それ以外は、8分音符を等間隔で並べたリズム型です。前の小節に食い込むことで、ちょっとしたイレギュラーを起こしています。堅物、よく言えば実直なリズムが、少しだけ何かを装っている……。歌い手のさじ加減、味付けひとつでどうにかなってしまいそうな微妙な「食い」です。※『ドーナツ盤メモリー~島倉千代子』収録のシングル版より聴取。バージョン違いにより歌いまわしの細部が異なるようです。
順次進行を多めに、跳躍してもおおむね3度くらいまでにした滑らかなメロディ。やさしくおおらかで、広い器の持ち主。そんな主人公を想像させる、上下の揺れを持ったモチーフです。
Bメロに入る際の、“ああ”。歌い出しの“この世に神様が”のときよりも、いっそう大胆に食い込んだリズム型です。
AメロはⅠとⅣのみを用い、入れ替えの妙で訊かせるシンプルなコードづかいでした。Bメロは短和音を多く用いています。Ⅲ7(Eメージャー調でのC#7)が、調をはずれる緊張のスパイス。ですがⅡmではなくⅣへ進行するので、緊張の解決をぐいっと捩じられた気分になります。Ⅵmを挟んで、“くちづけしてね”のところではⅡ7を用いています。ドッペルドミナントです。固有のⅤにバトンを届ける副Ⅴの響き。ただのⅡmよりもドラマティックです。
サビといっていいのかわかりませんが、曲のいちばんおいしいところはたった4小節ほど。1コーラスを結び、オトシマエをつける部分です。モチーフを下行させて反復する際、細かい音程の上下・リズム割りによる声の装飾で絢爛にしています。ロマンティックなシーンを美しくとろけるような甘みで「盛って」ります。島倉千代子の歌唱、色っぽい。
甘く滑らかなモチーフを主体にしていますが、1コーラスの最深部にアクロバティックなオチが待っています。歌詞“さざなみのように”のところ。オクターブ上行です。「オチ」ならぬ「アゲ」です。縁起(演技)がイイね。
後記 海をわたるハマクラ印
浜口庫之助を意識しはじめたきっかけの曲は『涙くんさよなら』でした。『バラが咲いた』も浜口庫之助。そこから高田恭子『みんな夢の中』も聴きました。彼の曲が私を魅了する現象を「ハマクラマジック」と呼んで心の中で親しんでいます。うわ〜、また浜口庫之助だよ、と。それ以来、浜口庫之助は私の中ですっかりブランドです。
なかにし礼の作詞にちゃんと触れる機会がこれまであまりなかったので、ハマクラブランドをきっかけに今回鑑賞する機会を得ました。心をまるはだかにした色めき・艶めきのある、ロマンティックな歌詞です。それでいて、嘘がなく本気。
島倉千代子の歌唱を鑑賞する機会も得られました。真っ直ぐに伸びたり、細くするどく、華麗に揺れたり。やさしく愛らしく言葉のエモーションを引き出します。前の項目にも書きましたが、民謡や詩吟の素養も思わせます。日本っぽい歌い方です。
演奏とアレンジがムチャかっこいい。サウンドでツカまれました。海外のスタジオの、録音のためのプロ演奏集団なんだとか。浜口庫之助のすすめでそのようにしたそうです。作曲者であるとともに、結果としてサウンドプロデューサーとしても曲の仕上がりを方向づけたのではないでしょうか。歌手を中心に据えつつも、作詞・作曲・編曲・演奏の総和で独創の高みに至っています。
演奏は「ボビー・サマーズと彼のグループ」とのこと(参照元:Wikipedia>愛のさざなみ)。ボビー(Bob Summers)は歌手のメリー・フォードのきょうだいのようです。メリー・フォードはあのレス・ポールと結婚した人。音楽と親類の縁に恵まれていますね(参照元:Wikipedia>Mary Ford)。
青沼詩郎
・関連リンク
TAP the POP>月刊キヨシ>「愛のさざなみ」は、なぜロス・レコーディングされたか?〜名ドラマー、ハル・ブレイン起用で島倉千代子をよみがえらせた浜口庫之助 ハマクラさんのキャリア、彼のポリシーの概観をつかめる内容が興味深かったのでリンクしておきます。
『愛のさざなみ』を収録した『ドーナツ盤メモリー~島倉千代子』(2006)
ご笑覧ください 拙演