まえがき 認識と単位
インスタントラーメンをつくっている会社員どうしが結婚式をしたら
「インスタントラーメン」はあなたにとって日常か、非日常か。そんな話をチラリとこちらに書いた。インスタントラーメンは、私としては「ハレの日」に食べるイメージには遠い。友人の結婚式とか、大切な人やあなたの誕生日をお祝いするとかいう席でインスタントラーメンを囲むことは稀なのではないか。
もちろん、「ハレの日」にインスタントラーメンが活躍することがあっても構わない。インスタントラーメンの企画・開発・販売・流通などを業務の大本命にしている社員同士の結婚式だとかいったら、式や披露宴のどこかしらのタイミング・何かしらのかたちでインスタントラーメンをゲストにふるまったら、新郎新婦のパーソナリティを反映した気の利いたもてなしだと理解され、よろこばれるかもしれない。まぁ、それはレアケースとして横に置かせてほしい。
インスタントラーメンをよく食べる人だったら、インスタントラーメンは日常アイテムだ。でも、滅多に食べない人だったら、ちょっと特別なアイテムにもなりうるのである。また、先述のようなレアケース(“ナカの人”同士の結婚、とか)もあるだろう。その人次第だし、時と場合によるのだ。
別の話になるが、たとえば人気のあるものが大好きで、話題にされているモノ・ヒト・コトはひととおり賞味してインプットしたい気質の人がいたら、行列の先にあるパンケーキにあり着くためのエネルギーは惜しまない……かもしれない。一方、人の群がるモノ・ヒト・コトを避けたがる気質の者も世にはいるだろう。私はどちらかというと後者の人だ。行列の先のパンケーキは、私のような気質の者には己のスポットライトを逸らそうとする対象になりうるが、行列に並んでいる人にとってはすでに光がギンギンに当たっているところに己のスポットライトをも照準し、まぶしいほどに輝いて見えるはずだ。見る人、とらえ方によっては、同じ対象を正反対に評価することがある。
A面とB面
レコードのA面とB面はなにが違うのだろう。もちろん収録されている曲が違う。おそらく、A面とされている方に収録されている楽曲を、B面のものよりも(作品の供給側が)優先・尊重している場合が多いだろう。
A面曲のほうが誰にとっても価値が大きいかどうかはもちろん別の話だ。「このシングル、B面の方が私は好きだな」……という経験、多少の音楽好きだったら一度や二度は覚えがあるはずだ。
そのとき、私にとって、B面曲の入ってるほうがA面なんじゃないか? でもレコードには私の好きじゃない方(A面曲)の曲が収録された面にA面と書いてある(「Side 1」といった表記も多い)。Aが本命で、Bが捨て曲なのか? いやいや、AとかBはタローとかジローとかシローとかそういう固有名詞みたいなものでしかない。単に、区別するための呼び名にすぎないのである。
もちろん、曲にもキャラがある。A面っぽいキャラの曲、B面っぽいキャラの曲、は確かに存在する。やっぱり、AかBかで、その名を冠する領域にあてがうのにふさわしいものを選別する価値観が存在するのは否定できない。そのあたりの詳細な議論で盛り上がる機会は、いまは横に置いておこう。
まとまりや区切りが空模様を変える?
もっと話をこじらせてみる。例えば参加者がいっぱい集まった研修や討論の会で、グループ分けをすることにした。会に来てくれた人を受付順で、3人で1グループにするか、4人で1グループにするかで、4人目の人の運命(?)が分かれる。3人ずつなら2グループ目の1番目になるが、4人なら1グループ目の4番目である。
3人で分けようが4人で分けようが、受付順No.4の人(たとえばシローさんとしておこう)が受付順No.4であることに変わりはない。でもたぶん、受付順No.4のシローさんが、1グループ目に入った4人組でグループワークする世界と、2グループ目に入った3人組でグループワークする平行世界とがあったとしたら、その研修会のグループ・ディスカッションは、まるでひとつとして同じ空模様が存在しないみたいに、似ているようで全然違ったものになるかもしれない。
私のたとえベタのせいで話の焦点があやういが、私やあなたが、固有のモノやヒトやコトをどう「扱う」「区切る」「みなす」かなどによって、結果や実績、反響といったものが、かなり違ってくる場合があるのだ。「どう扱うか」の決定を下したその瞬間は、扱いを決められた対象(その固有のモノ・ヒト・コト)はなんら違いはないのに、その適用を受けて一定の時間を過ごすなどすると、不思議とその固有のモノ・ヒト・コトの様相だとか評価が違ってくるようだ。
たとえば、リーダーとして扱うことが決定された瞬間のシローさんは、まだリーダーにされようがされまいが違いがない物体なのだけれど、実際にリーダーとして扱われ、それにふさわしいふるまいをする経験を積むほどに、たぶんシローさんはリーダー然としてくる……あるいはリーダー然とするのに力が足りずにリタイヤするだろう。リーダーとして扱われることがなければ、どちらの未来も生じなかったものだ。
味覚の感性において信頼を集めるシローさんがいたとして、シローが「このパンケーキはうまいぞ」といって言及すると、そのパンケーキは多くの人にうまいうまいともてはやされるかもしれない。他方、同様に味覚の感性において信頼を集める平行世界のシローさんが「このパンケーキは残念だ」といってふれまわると、そのパンケーキは淘汰されて店のメニューから消え失せるかもしれない(あるいは店自体が……)。パンケーキ自体はまったく同一(としておく)なのに……。
どう「みなす」か、どう「扱う」かで、同一の固有の事象が、違った運命をたどることがある。認識次第で、まったく違った人格を与えられる。様相が別物に見える。その振れ幅をむしろメリットととらえるのもまた認識である。
理解も誤解もされうるのをわかって共存させ、あえて平行させる高等な作為も考えられる。ただただ好きなように突っ走った結果、盛大に幅のある解釈を生む天性もあるだろう。対象が認識を左右するのは当たり前かもしれないが、認識が対象を左右することも場合によってはあるのだと覚えておきたい。
くるり『愛の太陽』をあじわう
くるり『愛の太陽』発表の概要、作詞・作曲者などについて
くるりの『愛の太陽 EP』(2023年3月1日発売、2016年『琥珀色の街、上海蟹の朝』以来2枚目のEP作品)に収録。2023年2月22日に配信で先行リリース。FRAG RADIOでは2月6日にオンエア解禁した。作詞・作曲:岸田繁。
ギターリフにみる多層な拍子感
3拍子の曲(※)なのだけれど、イントロのギターリフの音形の頂点が2拍目ウラにある。3連の2拍子系、つまり6/8拍子ふうの性格を持つモチーフ。寄せては引く柔和な波のような趣がある。
9小節目から4つ打ちならぬ“3つ打ち”のドラムスが入ってきて3拍子のキャラが前面にあらわれるけれど、依然として6/8のゆらめき感と並走する。パートやそれぞれのフレーズ毎にリズムのキャラクターがあって、それらが合わさって、拍子に複数の層を感じさせる。
※追記:2023年2月27日放送、くるりDJのFRAG RADIO(京都α-STATION)でブラジル音楽を挙げ「数えない聴き方」についてふれつつ「6/8」と語られる(“6つ打ち”……)。この記事では3/4として解釈した。6/8と3/4……さまざまなまとまりの単位を感じたり重ねたりしながら鑑賞したり、すべて忘れてノーガードで鑑賞するのもオススメである。
くるりの多層性ある拍子感のトリック
loveless
『THE PIER』(2014)収録の『loveless』。イントロのギターリフが「トゥン・トゥン・チャ・チャ」のまとまりに聴こえてしょうがない私。しかしタンバリンが入り「おや?」となり、ボーカルとバンドが入ってはっきりと「ああ、やられた」と私は痛感する。
アウフタクトで3拍目裏のストロークから曲がはじまっている。平坦な8分音符のストローク3つで、最初のアクセントに向かう裏拍にはアクセントがないのに、その次からは裏拍から表拍に渡って2つのアクセントが連続するパターンが非常にトリッキー。
半拍(8分音符一個分)ズレた拍子感と、本来の正しい4拍子の位置にハマった拍子感が重ね合わせになっているかのよう。……量子論ですか。
愉快なピーナッツ
くるりのシングル、アルバム『魂のゆくえ』(2009)収録曲。イントロのギターリフが「ザ・ツ・ツ」「ザ・ツ・ツ」「ザ・ツ」という、8分音符「3、3、2」のまとまりを私に感じさせる。
聴き入ると、ライドシンバルが「ツィーン……」と一発。おや?半拍後ろにズラして鳴らしたんですか? 面白いですね……と思いつつドラムが入る。小節のアタマにオープン・ハイハット+キックできっかり入った……かと思いきや、2・4(拍目)のスネアパターンが恒常になり、私の認識する拍子の目盛が盛大にズレていると自覚する。やられました。
冒頭8秒ごろに鳴るライドシンバルは、実際はきっかりアタマである。で、ドラムが入るときのオープン・ハイハット+キックは半拍「食って」いるのだ。ここでも、私は錯覚した目盛と実際の正しい目盛の位置の重ね合わせを味わう。
『愛の太陽』のリフはきっかりアタマから始まっている(強起のフレーズである)ぶん、目盛の始点を誤解しにくい。私に「まとまりの錯覚」とともに曲によって違った味わいを与えつつも、複数の定規の目盛が「重ね合わせ」になったトリック、という共通項でくるりを味わうのも面白い。
ボーカルメロディの丹精
冒頭、強拍から歌い出す音形。いきなり下行の跳躍・分散で主和音のキャラクターを削り出す。緩急をもって滑らかに上下するメロディは波のように力強く・やさしい。
『愛の太陽』のメインボーカルの使用音域において、歌い出しのレは高めのポジション。Aメロの冒頭から比較的高めのポジションでポンと発進していくくるりの歌メロディとしては、『BIRTHDAY』『八月は僕の名前』を思い出す。
『BIRTHDAY』『八月は僕の名前』は上行ではじまる音形だけど、『愛の太陽』はひゅるりと舞い降りるような下行形であり、やはりそれぞれに違った味わいがある。いずれにしても、Aメロからさらりとボーカル使用音域の高めのポジを露出させる、という共通項で思い出すメロディである。
メロディの緩急、細やかな書き分け
『愛の太陽』のボーカルメロディの話にもどる。8分音符や4分音符を中心に付点やタイで緩急をつけたメロディで、かつ歌い出し7小節目(歌詞“どこにある”の部分)で長い音符の末にはらりと16分音符を舞わせる機微が巧い。
Aメロは強拍から入るメロディであるのに対し、サビ(Bメロ)はさらりと8分音符を小節線の前にひっかけた弱起になっているが、場所によって(1サビ折り返し“優しさや”、4サビ“立ち上がれ”)は強起にしていて、歌詞の行きたがるほうへ柔軟に手綱をコントロールして作曲しているのを想像する。細やかで自由な書き分けであると同時に、リズムの跳躍力あるいは爆発力の味わいを大きく左右し、曲のモチーフのキャラを豊かにする。
2Aメロなのか、Cメロなのか
細やかなメロディの書き分けは、曲の構造に干渉しそうなほどに聴き手に違った印象を与える。1サビ後の間奏明けが面白い。
小節線の前に8分音符2個ぶんはみ出した弱起のメロディは、それまでのAともB(サビ)とも明らかに違う。それでいて、歌詞 “……んなこと学んだよ”(図中2段目)のあたりは元のAメロと同音型である。コード進行はAメロと同じなのだけど、メロディの違いで、新たに“C”部分を創出している感じもするのに、後続のモチーフを同型にすることでA→Bの流れに適応している……
のだけれど、音楽の構造(コード進行)にはそれまで通りに乗っかったまま、2サビに向かってメロディの細部でやっぱりまた印象に大きな変化を与える。全般的に滑らかなボーカルメロディのなか、歌詞 “前を向いてよ”の部分は、最も大きく目立った跳躍をみせる。こういった小さな違いが、まるで違う“Cメロ”があらわれたような印象面での動きを私に与える。Aの相似形、“A’(エー・ダッシュ)”といった感じか。
間奏、後奏の(バックグラウンド)ボーカルパート
間奏“ラララ……”
Aメロのボーカルメロディを再現しつつ、要点を抽出したストローク。メロディの骨子があらわになる。
エンディング 英語?
3:12頃、歌詞“立ち上がれ”のあたりから新たなボーカルのカウンター・メロディがあらわれる。英語だろうか。メインボーカルの少し上の音域にポジションしつつ、メインと違う言語・音域、繊細なトーンの歌唱で表現の情報量をピークに導く。不確かだけど、“Don’t cry my……”〜“……Let’s get together”といった断片を私の耳が聞く。このモチーフはメインボーカルがタイトルコール“愛の太陽”と結んだあと、リスナーのセンタースポットの下に残りエンディングまでエスコートしてくれる。共通の曲想・意思からジェントルな人格が派生するみたいな演出である。
追記 ザ・フー愛
間奏の転調
2:04頃からの間奏で、長2度上のAメージャーに転調。オルガンにスポットがあたる。ナチュラルG・ナチュラル・F、ナチュラル・Cなどのブルーノートっぽいトーンを含めて転調先のAメージャー調でリードプレイ。新調に土臭さ、異物感をへばりつかせて緊張を保ち、Gメージャーへの回帰を暗示するよう。2:27頃に向けた16小節を、緩急のある動きで浮遊感を出しつつ、響きの調和・透明感を徐々に上げ、新調(Aメージャー)と元調(Gメージャー)共通のDのコードでGメージャー調に回帰する。ここから先述のAメロボーカルに倣った“ラララ”につながる。直前までの浮遊と緊張の旅が、回帰・再現の安心感を際立たせる。
歌詞の味わいポイント
元風俗嬢のちひろさん
“神様ゆるして お願い教えて 本当の愛はどこにある 心のなか 頭のなか 涙が溢れた 塩っ辛い”(くるり『愛の太陽』より引用、作詞:岸田繁)
映画『ちひろさん』に寄せて作詞した部分があるのか、あるいはそれがどこなのかはわからない。主人公のちひろが経験した風俗嬢という仕事にまつわる、ヒトの愛や欲の実態がいかなるものなのか私にはわかりかねる。元風俗嬢のちひろでなくとも、愛の幅については誰しも思うところがあるはずだ。「愛」のつく熟語をいくらでも思い浮かべて、その一つひとつと己を結びつけて想像と説明をこころみれば、愛の多様さが分かるのでは。そのどれが“本当”なのだろう。
“塩っ辛い”は弁当屋として働くちひろの仕事のことを想像させもする。視聴覚以外の「さわりごこち」「温度」「味」「におい」といったものは、あらゆる角度で作詞による表現を工夫していきたい。ここの“塩っ辛い”が、直後のサビに登場するモチーフ“海”の伏線にも思える。
前にも後ろにも顔が利く
“本当の愛はどこにある”と問うフレーズと、“涙が溢れた”のフレーズを“心のなか 頭のなか”がつなぐ文構が解釈の幅を生む。“心のなか 頭のなか”は本当の愛のありかかもしれないし、涙が溢れる場所のことかもしれない。解釈に多重性のある表現が味わいの幅になる。
“でも少しホッとして飲み干したジンジャーエール 気が抜けて 安心な僕らは旅に出ようぜ”(くるり『ばらの花』より引用、作詞:岸田繁)のラインを見て欲しい。“気が抜けて”のフレーズが、前にも後ろにも効いている。①「ジンジャーエール、気が抜けて」という倒置。②「気が抜けて、安心な僕ら」という係り方。①②の重ね合わせの読み味があることに初めて気づいた時、私は心底衝撃を受けた。
「〜ない」自体の否定が恩恵のはじまり
“そこはかとない 心の隙間 太陽が射してくるだろう 何も見えない 何も感じない そんなことは未だないくせに”(くるり『愛の太陽』より引用、作詞:岸田繁)
行末に付された否定の「〜ない」は、それまでに字脚を割いて描いたものを覆す。
“ない”を基準に考え出せば、私はないものづくしである。「ない、ない」と嘆くうちは、あらゆる幸運や充足のめばえを見落とし、すれ違ってしまうだろう。「ない」自体の否定こそ、恩恵のはじまりである。陽光の射すところに立つこと。身の周り……“心の隙間”に射す陽光に気づくこと。「ある」と思ってアンテナを張ることで、必要なモノ・コト・ヒトに出会える可能性は高まるはずだ。あなたにも私にも、その感性がある。あると言ったら、あるんです!
“リンリン ランラン ソーセージ ハーイハイ ハムじゃない なんてことは ぜーんぜん 彼女も言ってない”(西城秀樹『走れ正直者』より引用、作詞:さくらももこ)
上記の『走れ正直者』の「〜ない」は極端な例かもしれない。みだりに「〜ない」に頼るのは考えものだが、「〜ない」によって曲のディティールをコンパクトに抑えるのも作詞の手法のひとつかもしれない。「〜ない」で否定された物事だって、「そのディティールがない」というディティールになる。ヘリクツ?
命ある言葉の感性
“伝えきれない 言葉の端が 海の底に沈むんだろうな やさしさや思いやりが 息を止めて沈むんだろうか”(くるり『愛の太陽』より引用、作詞:岸田繁)
人外のものがヒトのようにふるまい・仕草をみせる演出も作詞に好ましい。言葉自体がヒトのようにふるまう表現は、それだけ言葉に宿る命や力の重みを浮き彫りにする。
言葉の取捨選択を、今日の私はどれだけしただろうか。思念としては生じた言葉を、いくつ呑み込んだだろうか。この喉を通ることのなかった言葉は“端”であり、意思の本体は別にあるんだろうか。
言葉は力があるから、相手を慮って口にするのを遠慮することがある。海には、そういうものがいっぱい沈んでいるのだろうか。言葉に命があるならば、その海は生命のスープなんだろう。私の頭のなかにも、海があるのかもしれない。溢れそこねた涙の池、くらいのものかもしれない。これが“やさしさや思いやり”なのだと思うと、ありがたい気持ちが湧いてくる。この頭だか心だかにも、それがあるのだ。
すくいあげられ、止めていた息を再び吸ったり吐いたりした言葉こそが、今日のあなたや私が、誰かにあげたりもらったりしたものなのかもしれない。
神様 ≒ 愛の太陽
“立ち上がれ涙ぐむ街 途を造れ 何処までも 途は(※)続く ただそれだけで 歩いて行ける 愛の太陽”(くるり『愛の太陽』より引用、作詞:岸田繁 ※リリース音源の聴感上、「途が」にきこえるかも。)
“街”が涙ぐむ、という擬人表現だろうか。太陽から目線で、街をヒトに見立てるのも良い。『愛の太陽』には鳥から目線(「鶏唐(トリカラ)」目線……)を感じる。スケールが大きく、それこそ「街」が一個の人間に相当するくらいの縮尺である。
歌い出しにもある“神様”との呼びかけは、一個の人間のパーソナルな想いともとれる。観念や抽象事実、神、霊魂、妖怪など想像上のものを「ある」とみなし、認識する知性がヒトにはある。“愛の太陽”は、“神様”に近い存在かもしれない。
楽曲の冒頭と終尾を主題(タイトルコール)で結ぶのは、作詞上も作曲上も最も有効でシンプルな構成のひとつである。たとえば、並木路子が歌った『リンゴの唄』は“赤いリンゴに……”と歌い出し、“リンゴ可愛や 可愛やリンゴ”と歌い終える。冒頭と終尾を、主題の「リンゴ」で結んでいるのだ(歌ネット>リンゴの唄へのリンク)。
もちろん、くるり『愛の太陽』における“神様”≒“愛の太陽”は私の勝手な解釈である。ご容赦いただき、あなたにも自由に想像してもらいたい。「ある」とみなせば“途”が続く。
あとがき 「みち」の様相
よくできた作を評する“ウェルメイド”という言葉があるらしい。
よくできたものは、「不出来な私」を浮き彫りにする。
私がくるりを好きな理由のひとつは、きっとそこにある。丹精(端正)な出来の音楽作品は、「不出来な私」を裏面に含めてくれている。くるりの音楽は私の一部なのだと、おこがましいながら思わせてくれる。
私のような者が言える筋合いがあるかは別にして、くるりメンバーの岸田さんや佐藤さんだって、己の出来・不出来と常にたたかってここまできているはずだ。くるりの作品の一面は、その真相の記録なのだろう。多くの人に響くわけである。
頻繁に通る「みち」は踏み固められる。あらゆる人が通りやすいように最適化されていく。
音楽の出し入れを頻繁にして、交通量があればあるほど「みち」は磨かれ、そこにふさわしい様相に洗練されていく。
この記事でふれた『愛の太陽』『宝探し』『八月は僕の名前』、それから『真夏日』『ポケットの中』新曲『Smile』を収録した『愛の太陽 EP』は、くるりの“ウェルメイド”が詰まった作品になる。
愛の太陽 MV
くるり – 愛の太陽(Quruli – Sun of Love)YouTubeへのリンク
『ちひろさん』登場人物のオカジ外伝的映像。オカジ役の豊嶋花さん。動きが引き締まっていて、この人を中心に空気の方が動かされているのじゃないかと思わせる。それを静謐にとらえる、カメラ、映像が美しい。よい演技を、誠実にとらえれば素晴らしい映像になるシンプルな図式を教えてくれるかのよう(実際の映像制作の現場や過程の複雑さ・煩雑さは、もちろんそれほど単純なものでないと思うけれど)。
MVの監督も『ちひろさん』の今泉力哉さん。鑑賞者が自分の意思で画面に視線をやり、物語を観察することを誘う自然な表現が魅力的。
青沼詩郎
くるり『愛の太陽 EP』(2023年3月1日発売)
『loveless』を収録したくるりのアルバム『THE PIER』(2014)
『愉快なピーナッツ』を収録したくるりのアルバム『魂のゆくえ』(2009)
『BIRTHDAY』を収録したくるりのアルバム『NIKKI』(2005)
『ばらの花』を収録したくるりのアルバム『TEAM ROCK』(2001)