八王子papabeatとスタッフのお題作曲企画

東京・八王子にpapabeat(パパビート)というライブハウスがある。高野さんという、伝説の多い、

業界の知る人ぞ知るありがたく尊いひょうひょうとしたアニキがオーナーを務めるライブハウス。その高野さんは2022年12月31日に亡くなった。(八王子papabeatサイトへのリンク

papabeatのスタッフには私と世代の近いムラキさん・ナカムラさんというのがいて、彼らが店を走らせている。オーナー・高野さんのもと、店を実際に開ける・動かすのはこれまでも彼らだったようだから、彼らがいれば今後もpapabeatは歩んでいくのを想像するしそれを私は望みもする。

八王子papabeat ステージ付近とフロア

スタッフの彼らがしばしば、設定したテーマのもと各演者が作詞作曲したものを持ち寄って対バン形式で発表するイベントを企画しては私に声をかけてくれる。これは私のモチベーションにはたらきかけてくれるというか、設定された期日に生演奏で新作を演るというイベントなのでモチベがどうとかいう以前の次元でソングライティングの機会・きっかけを100%の打率でもたらしてくれる。このイベントの類で近年、“カップラーメン”ほか数ワードを歌詞に含めるというお題の回があったのが私の記憶に新しい。

八王子papabeat出演時の私(青沼詩郎)
bandshijin(筆者のひとり音楽ユニット)『魔鴨通り』。八王子papabeatお題作曲企画テーマ“帰り道に聴きたい曲”で生まれた。
bandshijin(筆者のひとり音楽ユニット)『窓の外のヒカリ』。八王子papabeatお題作曲企画水曜日のエンドロール時をかける少女(アニメ映画)をテーマに作曲する回で生まれた。

カップラーメンと生理現象

私は割と健康オタクなところがある。昔からヘボボーカリストで、風邪をひいてはすぐ喉を壊す。花粉症でもすぐに喉が逝ってしまう。ボーカルが歌えないんじゃ商売あがったりだ。そのせいか商売じゃないところで人生のほとんどをボーカルしているのがこれまでの私であるがそれは別の問題として横に置いておこう。

ヘボなりに健康に気をつかう、すなわち食べるもの・飲むものや生活習慣で少しでも喉、あるいは音楽に臨むために有用なあらゆる面でのコンディションに対して出来る努力を励行することで、少しでもヘボボーカルから遠ざかるようにしている。

だから、カップラーメンと積極的にねんごろな関係になるのはできれば避けたい。食べたら美味しいし、食べることだってある。カップラーメンの味は好きだ。でも、食後に及ぶ影響が軽視し難い。胃が鈍い悲鳴をあげ、胸がやけ、喉は渇く。身体が見せる生理現象のどこからどこまでがカップラーメンのせいなのか特定はできないけれど、カップラーメンを食べた事実と近いタイミングでそういった生理現象が起こる頻度から築かれた私の経験則だ。それ以上でも以下でもない。なるべく、食べることで少しでも体が良くなりそうなものを食べていたいし、そういう食事が私は好きだ。具体的にいえば、野菜や肉をたくさん使った自炊である。

図:あの柄のイメージ。カップヌードルの誕生日は1971年9月18日、“世界初のカップ麺として誕生”とのこと。参照サイト:カップヌードルの裏側

嫌っている・遠ざけている有象無象は創意の種

ところで作詞において、すでに自分の好きなもの・自分と結びつきの深いものばかりを描きたい・表現したいというのは、いくぶん狭い了見である。

というのも案外、己が排除しがちなもの、嫌っているもの・遠ざけているものにこそ創作のヒントがある。これは作詞・作曲に限らない。編集者・作家の川﨑昌平さんの言葉の数々に、私はこうしたヒントを拾う(川﨑さんご本人のXアカウントをリンクしておく)。己の偏愛や嗜好の外側に視線を向けること。豊かな知見を築き、己の生活を意匠と創造に満ちたものにするヒントは嫌いなものにある。好きなもの・快いものを手繰り寄せて、自分の身の周りをそれでいっぱいにして生きるのは確かにひとつの処世術かもしれない。それに尽くす人がいたっていい。その生き方も快適だろう。

私は社会、自分と自分を含めたこの世の有象無象を知りたい、知って動いたり、動かないでうずくまったりしたいと思っている人間で、自分の関心の薄かったものへの扉が開けることは、私に一種の快感をもたらす。ちょっとヘンタイっぽい気もする。光栄である。

カップラーメンのくだりに話を戻す。papabeatのことがあって、カップラーメンというモチーフと向き合う体験は私に思考と想像をくれた。関心の薄かった事物と私を結びつけてくれた。

私の中のカップラーメンと古井戸『インスタントラーメン』

仲井戸麗市と加奈崎芳太郎のデュオ・古井戸の曲が好きでこれまでも私はありがたく聴いてきた。先段で述べた私の意識の表層に来た「カップラーメン」のキーワードが、古井戸の持ち歌『インスタントラーメン』と共鳴する。

ところでカップラーメンとインスタントラーメンはかなり重なる。インスタントラーメンが使い捨ての容器に封入されたものがカップラーメン、ともいえそうだ。でもインスタントラーメンは鍋や食器、調理にガスや電気の設えが必要で、カップラーメンはお湯さえ得られれば食べられるという違いがある。お湯を注ぐだけで済む製造者側の工夫・設計がカップラーメンにはより求められるし、それは味にも作用するたろうだから厳密にはカップラーメンとインスタントラーメンは全然違うのだ。

インスタントラーメンの元祖、“チキンラーメン”の発売は1958年8月25日とのこと(参照:一般社団法人 日本即席食品工業協会 インスタントラーメンナビ>インスタントラーメンの誕生)。カップ麺の元祖:カップヌードルが発売となる13年後までの時差が、「カップに入れて売る」「お湯を注いで食べる」といった一見シンプルに思えることの実現のハードルを思わせる。

その性質の違いから、カップラーメンとインスタントラーメンが連れてくるイメージ、想像させるシーン(場面)も違ってくる。

インスタントラーメンが想像させるシーンは火(加熱の設え)が要るから、圧倒的に部屋(自宅)である。それも、珍しい客人を招くような状況でなく、自分ひとりもしくは、もてなしを省いて然るべき相手がおおむねだ。人生のハイライトの反対側に位置していそうな、ひっそりと息をひそめるすきまのような空間に似合う……なんていったら、インスタントラーメンに人生を賭している人に失礼かもしれない。インスタントラーメンが関わる人生も多様だろう。バーベキューの宴たけなわの頃、残り火でシメに湯がいて食べるインスタントラーメンの味は格別である。

カップラーメンが私に想像させるシーンの中心は外出先だ。コンビニのレジ付近の電気ポット周りの風景が思い浮かぶ。お湯さえ得られればいいので登山中などのシーンもあるだろう(これはバーベキューのシメに近い別格の味わいがある)。食器や調理器具がないとか梱包されてしまっているとかいった引っ越し直前・直後のガランとした状況の部屋もカップラーメン・ライクである。工事現場の従事員が市街の路上に腰を下ろして食べる状況も浮かぶ。調理にかける手間も設備もないが温かいモノが食べたい……ということであればオフィスの内外など、場所を選ばず様々なシーンが成立しそうだ。

インスタントラーメンでもカップラーメンでも、そのアイテムの性質から、そのヒトの状況や身の周りのディテール、登場に至るストーリーの想像が可能である。アイテムから発想して、ひとつの劇を書くように作詞をするのも良い。そのアイテムは、別にオシャレである必要もないし、健康的であったりナチュラル志向である必要もない。むしろ目を奪われがちなハイライトの裏面にこそ、語るべきドラマの発想を導く題材が転がっていそうだ。

輝いているヒト・モノ・コトが好きな人は多いだろう。何かに光が当たれば、どこかに影が落ちる。影の落ちた路面の質感を写し取るソングライティングには、演出された華々しさはなくとも日常の真実味がありそうだ。私はそういうものをもっと見てみたい。やっぱりインスタントラーメンやカップラーメンにも、作詞の題材としての美味しさがふんだんに含まれていそうである。

古井戸『インスタントラーメン』の味

古井戸『インスタントラーメン』鑑賞メモ

古井戸『インスタントラーメン』へのSpotifyリンク

“インスタントラーメン

もう食べあきた

インスタントコーヒー

もう飲みあきた

誰か来て なんか作って

とっても 暖かなものね

インスタントラーメン

もう食べあきた

インスタントコーヒー

もう飲みあきた

おもてに食べに行くのも

何となく めんどくさいの

だから

インスタントラーメン”

(古井戸『インスタントラーメン』より、作詞・作曲:仲井戸麗市)

「インスタントラーメン」は字脚の数が10。字脚が4つの“ラーメン”が“コーヒー”に置き換わるラインが“食べあきた”のあとに来る。ラーメンを食べあきた、とくればコーヒーは“飲みあきた”である。

このまま「インスタント××」と、××の部分を入れ替えて綴る発展もあるかもしれないがそれをしない。あるいは字脚、単語のアクセントや抑揚が限りなく「インスタント××」に似ている単語をあてはめて韻や響きの気持ちよさで導いていくのだろうか? と思いきや私の浅はかな予見は覆される。

“誰か来て なんか作って とっても 暖かなものね”と、場面が少し動く。音楽の構造はそのまんまなのに、単語のあてはめかたと単語のキャラクターがガラリと変わる。単語のキャラクターが変われば、言葉が醸す映像もまるで変わる。

“インスタントラーメン もう食べあきた インスタントコーヒー もう飲みあきた”は、主人公の些末な日常の雑感である。対して、続く“誰か来て なんか作って とっても 暖かなものね”ではヒトが動いで出来事(イベント)が起きているのがうかがえる。それがたとえ些末なイベントだとしても。

ここのラインの読み筋について、いくつかの可能性が残るのが面白い。私には、「誰か(が自分のところにやって)来て、『なんか作って。とっても暖かなもの(を)ね』(と自分に向かっておねだりしてきた)」といった意味に響いた。

他方の読み筋を考えると、単に「誰か来た」→「なんか作った」→「こんな場面、過ごした時間、体験、記憶は、なんて暖かなものなんだろうね」というのもあり得る。

A.「なんか暖かなものを作って」と、やって来た誰かと主人公の間でおねだりが交わされる

B. 単に「誰かが来て、なんか作った」その場面・出来事を“暖かなものね”と評している

こういった筋(すじ)が浮かぶ。どっちもそう違わない気もする。口語、というか日常のことばづかいは、主語など重要な語句がしばしば省略される。そのスタイルでそのまま歌い、歌詞として認めた日記のような趣があるところが古井戸『インスタントラーメン』のかわいらしさ、愛嬌と魅力である。

歌い出しのラインと同一のくだり“インスタントラーメン~(中略)~飲みあきた”を反復したのちは、“おもてに食べに行くのも 何となく めんどくさいの だから インスタントラーメン”と、主人公の日常におけるインスタントラーメンのポジショニングが素朴に明かされる。

結びの“だから インスタントラーメン”は、ボーカルメロディがそれまでにない音型をしている。音楽的にも歌詞的にもオチの部分で変化とともに主題のコール(呼びかけ、提唱)で曲をシメる。

そのままでは字足らずになる音楽的な余白を“Ah ha, ha, Ah Ha”と嘆きが埋める。ものぐさでいる惰性を肯定・助長してしまう「インスタントラーメン」の魔性を嘆いているのか、魔性に屈してしまうおのれの“ものぐさ”を嘆いているのか、あるいはその両方なのか。

リスニング・メモ

ふたり組の編成を活かすかのように、メインボーカルに折り重なるようにサイドボーカルが“インスタントラーメン”のラインでレスポンスする。そのままやはり折り重なるようにメインボーカルがラインに復帰する。

木魚…ウッドブロックがリズムのアクセント。0:46頃で「ポクッ」というアタックに連ねて“シュッ”という子音のボーカルフェイク。The Beatles『Come Together』を思わせるリスペクトネタだろうか。はっぴいえんど『抱きしめたい』2:25頃など、邦ロックの随所に顔を見せる有名な被・模倣モチーフ?といえる。楽曲『インスタントラーメン』のコンパクトな舞台に住む主人公が胸に秘めた豊かな音楽が、ものぐさな生活スペースに滲み出た表現に思える。この主人公の部屋にはThe Beatlesの『Abbey Road』のレコードが置いてあるのかもしれない。

イントロを経て歌い出しの前にも“ポクッ”とウッドブロックが鳴り、続くボーカルフェイクはここでは“アッ”となんとも無防備なうめきである。火にかけたままのインスタントラーメンを吹きこぼしてしまったような情けないような悲哀が漂う一瞬のうめきが曲に質素ながら豊かなディティールを与える。

古井戸『インスタントラーメン – Live』へのSpotifyリンク。イントロと歌い出しのあいだで早速“シュッ”とのフェイクに笑いがこぼれる。和気藹々とした雰囲気の会場と演奏内容、MC。カジュアルなシチュエーションを描いた楽曲が演者と観客の距離を縮める。

後記 チキンラーメンを食べてみた

ローソンでチキンラーメンを買ってみた。袋を開けて乾燥した麺を丼に出す。砕けた細かい麺を拾って食べてみる。パリパリ。うまい。

“たまごポケット”なる窪みがあって、割り落とした生卵が麺の面から滑り落ちにくい工夫が反映されている。

“卵、ねぎなど”、自前の具材の食べ合わせを奨める旨の文がパッケージにある。野菜や肉を炒めてとろみをつけたり醤油やバターなどで香り高く仕上げたりした具をたっぷり載せたら栄養面が充実しそうだ。

お鍋レスで、直接お湯を注いで3分待ってみた。パッケージ写真のように白身に熱を行き渡らすにはお鍋が向いているのかもしれない。

インスタントラーメンやカップラーメンを食べるときって、その調理のハードルの低さゆえに、心身や時間に余裕がなく過労・多忙気味など負荷の大きい厳しい状況である場合も多いのではないか。食べたモノがインスタントラーメンじゃなくても、そもそもあまり元気がなかったり好調じゃなかったりしている場合がありそうだ。

インスタントラーメンほかさまざまな加工食品を食べたあとの体調不良の感覚は、プラセボ(偽薬)効果の逆バージョンというか、「よくない」と思って食べるバイアスがかかっている可能性もあるかもと思った。ただのバイアスならまだよくて、仮病していたら本当に病気になったみたいな、本物の逆プラセボ効果というか“偽毒効果”みたいなのがあってもおかしくない。あんまり健康とインスタントラーメンなどの加工食品を結びつけた話を音楽ブログ上でするのも場違いであるし私は完全に門外漢である。

私の興味は人の営みにあり、生活のなかにインスタントラーメンやインスタントコーヒーやさまざまな雑貨の影があり、それらが歌を構成するピースになりうること、それらが人の営みを映すモチーフとなることが関心の的である。

うちの食卓にインスタントラーメンがあがることが稀なせいか、おやつに披露してみたらうちの子らの食いつきが凄かった。珍しかったのかもしれないし、おいしいと言っていた。お湯を注いで待っていただけで廊下まで香りが届いた様子で、“なんかいい匂いがする”との声が聴こえた。

日常感あるというか生活臭のするアイテムに思えるインスタントラーメンだけど、我が家においてはむしろ非日常的なアミューズメントになるようだ。インスタントラーメンも夢を売る商売というか、歌手とかアイドルにも似た存在なのかもしれない。

青沼詩郎

古井戸 Wikipediaサイトへのリンク

一般音楽社団法人日本音楽制作者連盟『記憶の記録』>古井戸

ソニーミュージックサイト>古井戸>酔醒

『インスタントラーメン』を収録した古井戸のアルバム『古井戸の世界』(1972)。

『インスタントラーメン』のライブ演奏を収録した古井戸のアルバム『古井戸ライブ』(1974)。演奏内容は1973年のもの。

日清食品のカップヌードル(1971年〜)。“謎肉”の独特のフレーバーが私の記憶に刷り込まれている。

日清食品のチキンラーメン(1958年〜)。「インスタントラーメン」と聞くと私は鍋と火が必須のイメージだったけどチキンラーメンはお湯だけでもOK。

ご笑覧ください 拙演(YouTubeへのリンクShiro Aonuma @bandshijin『インスタントラーメン(古井戸の曲)ギター弾き語りとハーモニカ』)