作詞・作曲:小椋佳。編曲:若草恵。美空ひばりのシングル(1986)。
弦も管もメインボーカルさえも差し置いての、イントロ・エンディングのクロマティック・ハーモニカ。こんなに雄弁なのに、こんなにも孤独で寂しい。この楽器を使い熟すことで、これほどまでに稀有な表現が可能なのですね。見事な演奏です。
私個人の嗜好でついメインボーカルを差し置いてハーモニカにまなざしを向けましたが、美空ひばりのボーカルこそ心をぐらぐらと揺さぶり、視界を滲ませます。むせび泣かせるというよりは、黙って聴き入らせるのです。声色が言葉の情景を逐一映し、風光明媚な思い出を見せます。脳内カメラを旅に連れて行ってもらっているような気になるのです。リスナーのイマジネーションを高め、引き出す至宝のような歌唱。この世でたった一人にのみ「歌姫」の称号を与えることを許されるのであれば、私はこの人・美空ひばりにそれを捧げたいと思います。
リズムを掌握するのは三連符のリズムを連ね続ける12弦?のギターでしょうか。コーラスがかかったようなワイドな響きで、楽曲の基調となる分割の単位を提示しつづけます。優しく、厳かです。ドラムスもいないので、この12弦?のアコースティックギターのピッキングこそがリズムの「刻み」の要です。
絢爛なハープ(ハーモニカでなく、ハープ)、ウィンドチャイムがここぞというドンピシャのところで虹のように橋を渡り、感情を揺さぶります。震え、歌い、おどけ、茶目ってみせるストリングスの豊かな響き・ふるまいに、すかさず管楽器が入れ替わり、黄金色の空を思わせます。こんなにも質量と壁面の多い優雅なアレンジで、ハーモニカが出てくる。このさびしさ、哀愁と気品の幅の広さ、懐の深さに私は完全にやられてしまいます。真ん中には歌姫。一体どこを向けば涙がばれないで済むのでしょうか。
歌詞
作詞・作曲は小椋佳さんですね。楽曲から、小椋さんの歌声が重なって聴こえてきそうです。
“雨 潸々と この身に落ちて
わずかばかりの運の悪さを
恨んだりして
人は哀しい 哀しいものですね
それでも過去達は 優しく睫毛に憩う 人生って 不思議なものですね”
(『愛燦燦』より、作詞:小椋佳)
はじめのコーラスは「潸々(さんさん)と」。おなじ「さんさんと」でも、「燦燦と」とは、まるで違った情景を連れてくる、それぞれの「さんさんと」。
一方は雨や涙が舞い、降り、注ぎ、身を包むさま。一方は陽光に満ちてすべてから祝福を受けるような輝かしい情景を想像します。
運は残酷なもので、その匙加減でひとりの人間の運命がどうにでも転ぶ観念。かといって、すべてを運の悪さにするのはどうか。己の運命を握るのは己であり、自分の行動が未来を決めるのもまた真実でしょう。
それは百も承知で、誰しもが、己の望む未来に向かって、日々何かの努力を積み重ねてもいるはずです。それなのに、それなのに。どうしてか、あとちょっと、あとちょっと、望む方に風が背中を押して、近づいてくれれば良いのに。そっちに向かって加速してくれれば良いのに。「風向き」ひとつで変わりうる、運の向き。所詮は風、されど風。大きくも小さくもある。その程度の、己の努力のわずかに外側をいく条件。気象や環境みたいなものの、まぐれや振れ幅の類。それが「わずかばかりの運の悪さ」ではないでしょうか。
それを、歌に込めて、そっと嘆くことくらいは、気象の神様も見逃してくれるはず。……分かっています。「嘆き」は、何も解決しません。だから、「哀しい」? 哀しんだところで何になるのか? ……それも分かっています。でも、哀しみはそれとして、存在するのです。テントウムシが、ヒトが、スズメが、ニジマスが、存在するのに理由を問う必要があるのか? というのと同じ次元で、ヒトには喜びが、哀しみがあるのです。横暴な論理でしょうか?
「過去達が」、「睫毛に憩う」。この世にも奇妙で美麗な表現に、ほかで触れたことがありますか? そうそう思いつくものではない、奇跡じみた、やわらくて色味のある表現ではありませんか? 私は淡い紫色を想像します。
まなざしは、多くを語ります。その目線。目の開きかた。眼球の光の反映。その周りに生える、「睫毛」。いまあなたがとっているその視線の角度は、連綿とあなたが生きてきた先の最たる更新状態を示すものなのです。そこは、過去の憩いの場として、世にも儚く、華奢で心もとなく、温かな場所ではありませんか?
気圧の高低じみた運命にきっかけをもらい、凪いでは吹いてを続ける自己問答の風。どんな色をしていますか。
青沼詩郎
美空ひばりの『愛燦燦』を収録した『美空ひばりベスト 1964〜1989』(2011)。通称“紅(赤)盤”。