「あまり行かない喫茶店」が想像させるもの
行きつけの喫茶店ってあるだろうか。私はコーヒーが好きだが、家でコーヒーを自分で淹れて飲んでしまう。だから、ドリップしたコーヒーを提供する喫茶店などの飲食店よりも、焙煎豆を販売するお店を訪れることのほうが私にとっては日常かもしれない。私は自分で豆の焙煎もするから、焙煎済みの豆を買うために店を訪れる頻度でさえもたかが知れている。
「喫茶店」といってピンとくる種類の飲食店が、現代、都市にどれくらいあるものか。ちょっとおしゃれぶった(わざとこんな言い方をしたが、私はその手のお店が好きである)こだわりを映したコーヒーとスウィーツを提供する「カフェ」的なお店ならば、現代においてもめまぐるしく生まれては消えて行っているとも思う。果たして「喫茶店といえば」で思い浮かぶ店って、現在私の頭の中にどれくらいあるだろう。
疑問を提示しておいてなんだけど、確かに思い浮かぶものはある。それは、たいてい老舗だ。新しく生まれたお店が「喫茶店然」としているケースは稀だと思う(酒を提供せず、お店の設備や業態が定義上「喫茶店」に当てはまるかどうかの話ではない)。
例外はコメダ珈琲店だろうか。新しく出店した「喫茶店」との表現に当てはまるお店が現代において実際にあったら、それはコメダ珈琲店かもしれない。私としてはコメダ珈琲店に抱く印象は「喫茶店」というより「コーヒーチェーン」がより近い。星乃珈琲店なども「喫茶店」というのにいくぶん近いイキフンを持っている。そうしたコーヒーチェーンはさておいて、とにかく「喫茶店」というキーワードで私が思い出すのは、やはり地域の老舗である。
私にとってそんな(どんな)駄文を誘うイメージのある「喫茶店」だけど、そうした「喫茶店」の中でも、「あまり行かない」とはどういう存在の喫茶店だろう。住んでいる町にあるお店だったら「たまに行く」といった表現の方が引き出されやすいのではないか(人によるだろうが)。喫茶店のイメージとして私は「その地域の老舗」と先ほど表現した。喫茶店と、その地域の関係は密接だ。
つまり、その喫茶店にあまり行かないのであれば、その喫茶店がある町もあまり行かない町である可能性があると思う。だから、私は「あまり行かない喫茶店」と聞くに、そこが「あまり行かない町」であることを同時に想像する。
never young beach『あまり行かない喫茶店で』発表の概要、作詞者・作曲者
never young beachのシングル、アルバム『YASHINOKI HOUSE』(2015)に収録。作詞・作曲はバンドのボーカル・ギターの安部勇磨。
never young beach『あまり行かない喫茶店で』が描くもの
“あなたと二人 街を出ようか 小さな家を買って 部屋にはピンクのペンキを塗って 庭には犬を走らせよう”(never young beach『あまり行かない喫茶店で』より、作詞:安部勇磨)
主人公が今住んでいる街とは別の土地に家を買う。「あなた」と一緒に、新しい生活をはじめる。家族には犬もいる。このビジョンを受けて、「あまり行かない喫茶店」と聞くと、私は、新しい生活を始めるための街(と物件)の下見をしている主人公の近況を想像する。生活が変化する混沌の予感と共にわくわくがこみ上げ、未来を向く。下見した物件や土地柄、現在の自分の環境など現実のディティールの向こうに理想を透かし見る。実直でシンプルなバンドのサウンドはさながら度の合った眼鏡だ。主人公のビジョンに適切にピントする。
ピンクのペンキを内装に用いる趣味はなかなか奇抜だと思う。「私(筆者)の趣味とは違うな」と直感する。「ピンク」は生活における、華やかさや変革への志向だろうか。どんな「二人」なのだろう。
“あなたと二人 川沿いを歩いて 小さな家を買って 何てことのない 絵を飾って 何てことのないレコードをかけて 部屋にはピンクの ペンキを塗って 庭には犬を 走らせよう”(never young beach『あまり行かない喫茶店で』より、作詞:安部勇磨)
自宅で絵を鑑賞する趣味や感性の持ち主。レコードで音楽を味わうのだろう。この歌の主人公らの時代はいつか。大衆が音楽を鑑賞するソースとしてレコードが主流だった時代を描いているのか、あるいはあくまで現代なのか。
レコードも喫茶店も、現代においても楽しんでいる人がたくさんいる。(「あまり行かない」風なことを冒頭付近に書いたかもしれないが)私自身もその一人である。
never young beachの表現するものを味わう際、あくまで現代における「ある一定の幅を持った時代や文化の再解釈」として受け取るのも一興だと思う。もちろん味わい方はリスナーの自由だ。人によるし、時による(明日には私も違うことを言っているだろう、きっと)。
どんな時代の、どんな様式を持った文化や娯楽や芸術を好むのか。現代のあなたや私には、ある程度それを選ぶ自由があるはずだ。そのうえで、never young beach『あまり行かない喫茶店で』は、レコードで音楽を聴いたり、喫茶店に行ったり、家やペットを所有する生活の様式美やその様式に宿る審美観を提示して思える。私は歴史にも文化にも明るくないが、日本の1970年代前後くらいが当てはまるだろうか。そういった様式の周辺をたしなむのは私自身好きである。
冒頭付近で述べたように、「喫茶店」と表現して然るべき飲食店が新しく生まれるのを(コーヒーチェーンを除いて)稀に感じている私がいる。「喫茶店」に親和性のありそうな種類の「音楽」だったらどうか?
「喫茶店」が背景に見えてきそうな音楽をやるのは、ある土地で実際に喫茶店を長く営業することよりはいくぶん低いハードルに思える。音楽には情報の側面がある。ハードにそこまで囚われることはない。音楽そのものが家賃の支払いを必要とすることもないのだ(音楽に関連するコストにはここではあえて目をつぶろう)。
どんな時代の音楽であっても、かなり低いハードルでその作品に触れることのできる環境がいまの私やあなたにはあるだろう。でも、「かつてあの時代のあの街に存在したあの名喫茶に、いつでもどこでもタイムリープですっ飛んで行って、お店での滞在を実際に楽しむ」ということはかなわない。
大衆歌は、作品が映した主人公を擁する社会背景を疑似体験させてくれる。現代、1970年代前後くらいに生まれた作品を鑑賞すればそれはかなうだろう。サブスクで味見するのはいとも簡単だ。
never young beach『あまり行かない喫茶店で』は、現代の立ち位置からその文化やスタイルに視線をやる提案だと受け取ることもできる。私にとても気持ちの良いサウンドである。
後記
これまで私が「ネバヤン」ことnever young beachの名前を聞く機会は多かった。私が一番認知を大きくしたのは、細野晴臣が出演するラジオ番組『Daisy Holiday!』(Inter FM)にnever young beachの安部勇磨が出演したときだった。ちょうど彼のソロ作品の発表があった時期で、放送で安部勇磨ソロ名義の楽曲が流れたのを記憶している。放送された『おまえも』(安部勇磨の2021年のシングル、アルバム『ファンタジア』に収録)が私好みで、バンド・never young beachや安部勇磨への認知を私はいっそう大きくした。
曲が変わるけど、アルバム『YASHINOKI HOUSE』の1曲目『どうでもいいけど』の歌詞には“年をとった犬を撫でる”という表現が出てくる(作詞:安部勇磨)。こちらの「犬」は、今は実家を出ている主人公が帰省せんとする、その実家にいる犬であるのを想像させる。主人公が実家で過ごした時代からの仲だろうか。主人公が『あまり行かない喫茶店で』でつくろうとする希望の「持ち家」に、彼の育った環境が投映されて思える。
『あまり行かない喫茶店で』や『どうでもいいけど』の描く世界は、ある時代の匂いを含んだ「おとぎ」にもリアルにも思える。というか、ある時代、ある社会において大衆に強く薫った「匂い」は、今もそこここに漂っているのだ。いずれにしても、日向に余白をみつけて心を浸しながら生きるみたいな心地良さを感じる。
結びに、刹那の輝き(局所における瞬間的な出来事や光景)が大衆の記憶に強く残る普遍を描いた印象的な段を引用しておく。雨上がりは街の匂いを引き立てるものだと共感する。
“お店を出れば 雨が上がって 商店街がいい匂い”(never young beach『あまり行かない喫茶店で』より、作詞:安部勇磨)
青沼詩郎
『あまり行かない喫茶店で』『どうでもいいけど』を収録したnever young beachのアルバム『YASHINOKI HOUSE』(2015)
『おまえも』を収録した安部勇磨のアルバム『ファンタジア』(2021)
ご笑覧ください 拙演(YouTubeへのリンクShiro Aonuma @bandshijin『あまり行かない喫茶店で(never young beachの曲)ギター弾き語りとハーモニカ』)