ボカロ沼

「沼る」という言葉がある。ある分野、あるいはもっと狭いジャンル、あるいはその中でも特定の対象に入れ込むこととしておこう。「ハマる」もニュアンスが近いが、「沼る」にはもっと、支障を来す(あるいはその一歩手前か先か)くらいに入れ込むイメージがある。

ところでボーカロイドの音楽は、沼りやすい。サウンドが均質で安定しているためか平たい印象に感じる傾向があり、たとえばサブスクでボカロ曲を延々とランダム再生すると、ずっと聴いていられる。良くも悪くも、似たようなサウンドの、似たような質感のものが多いから、慣れるとそのままでい続けるのが楽なのだ。これが「沼」の本質か。沼よりもぬるめの温泉、「冷泉」のようなイメージにも思えるけれど、ここは「沼推し」しておこう。

沼リビリティ(Numaribility……沼りやすさ。私の造語)はもちろんボカロ曲に限ったことではない。ほかでもそういった傾向を見出せる範囲、群、房は種々あるだろう。そういう均質さが、結果的に「ジャンル」をつくるのかもしれない。

私にボカロ曲に対して心を開き始めるきっかけをくれたのはballoonこと須田景凪の音楽だった。
ボカロ沼あたりの話に紐づいて思い出すのはもちろん言わずと知れたハチこと米津玄師でもある。

GS沼

ボカロ沼があれば、GS沼もある。GSはグループ・サウンズのことである。これも、音楽の質感が似たものが多く存在する。

ボカロ曲とちがうのは、ヒトが楽器を鳴らし、ヒトが歌っていることである。スタジオかどこかの空気を実際に震わせた、その瞬間・場所に鳴りひびいた楽器の音やヒトの声をマイクで収録した音を中心に構築した音楽だ。べつにGS曲じゃなくても生演奏を主体にした音楽は限りなくある。私が好む種類の音楽はそういうものが多い。そうやってつくられた音楽の群れも、巡回するに心地よく、ついつい沼ってしまう。「つい沼る」ははたして然るべき表現か。沼は何気ない生活道路にも口を開けている……みたいな感じ。

YouTube上にあるザ・スパイダースの『バン・バン・バン』。私の最も好きなGSバンドのひとつ、ザ・スパイダースの最もお気に入りの曲のひとつ。)

ザ・スパイダースのメンバーで私が最も敬愛するミュージシャンの一人・かまやつひろしによる『バン バン バン』。コーラスがかったエレキギターのリズムストロークが印象的な弾き語り。アクセントの付け方の「アク」感がまた良いソロ演奏。

愛だの恋だのグループ・サウンズ

GS曲は、愛だの恋だのをテーマにしているものが多い。これを外すともはやGSでなくなる気さえするほどだ。もちろん、GSでなくとも愛や恋を主題にしたものは大衆音楽の大部分かもしれない。

それにしてもGS曲は、愛や恋の扱い方がかなり一辺倒なジャンルにも思える。一辺倒というか、当たり障りがない。大衆が聴く音楽として生産され、おそらく実際に大衆が喜んで聴いた音楽だと思う(当時を知らないので想像)から、あまりに恋や愛に関わる表現がディティールに富んで具体的すぎると、聴く人を選んでしまうのかもしれない。抽象的で、「みんながみんな、恋や愛をするものだ」という前提のもとに消費されて楽しまれていたのを想像する。恋や愛はもちろん普遍の一部だろうけど、すべてでは決してない。

「恋や愛に関わるディティールに富む表現を含む音楽は大衆に受け入れられ難い」という間違った仮説を暗に感じさせてしまったかもしれないけど、はっきり「間違い」と述べたくらいに、世にはディティールに富み、具体的でフォーカスがシャープな描写でもって恋や愛を題材にしている楽曲は絶対存在していて、たとえば松本隆が作詞した作品にそうした秀作を見つけるのはたやすいはずだ。

……といいつつ、いざ、ではどの作品かといわれるとたじろぐ私の記憶の引き出しが頼りない。たとえば感電死などと、身体や精神の感覚の表現のユニークさで魅せるのも一法だろう。参照:イモ欽トリオ『ハイスクールララバイ』

私に知識が足りないだけで、GSが流行する以前にも、ディティールに富む描写の具体的な優れたラブソングは存在したと思う。また、おそらくGS全盛期にも、多くのGS曲が唱えた恋や愛といった題材の当たり障りのない抽象的な表現を嘆いた人も当時から多かれ少なかれいたに違いない。

GSが流行したからこそ、これにカウンターするかたちで、恋愛の機微や多様性、そのディティールを解像度高く描く大衆音楽が生まれていく側面もあったかもしれない。何かが広く受け入れられることは強い光のようで、同時に影を生む。影だった場所に光があたると、また別のところが影になる。これがたまに「流行は××年周期で繰り返す」とか言われる所以かもしれない。

アウト・キャスト『気ままなシェリー』

YouTube上にあるアウト・キャスト『気ままなシェリー』へのリンク

妙に気になる曲である。

“どこへいくのさ気ままなシェリ― みんな振り向くいかした子 いつもふわふわシェリーの心 たまにふたりのデートがしたい にくい子だけど好きなんだ 僕のそばから離したくない どこへ行くのさ気ままなシェリー みんなのハートうばうのさ”(※アウト・キャスト『気ままなシェリー』より聴き取りのため歌詞の正しい表記は未確認、作詞:藤田浩一)

モテそうで、移り気をしやすそうなシェリーという人格が歌われている。主人公もこれに翻弄される一人なのかもしれない。

「ふわふわ」がいろいろに思える。恋愛のみのことに関わらず、意志のあいまいさを「ふわふわ」と形容できる。

たとえば他人の思考や感情のように、はっきりとしないものをはっきりと確認するまで執拗に観察したくなる心情は分かる気もする。白黒つけないと気持ちが落ち着かない心理を逆手にとって、あいまいな態度をとることで対象の注意を自分に向けさせ続ける効果が得られるかもしれない。

打算的にあいまいな態度をとっていることがばれると、対象は去るか、逆に答えを急いて迫るかもしれない。本当に気持ちがあいまいだから正直にあいまいな態度を取る人こそ、末長くおモテになるのだろうか。あるいは軍配が上がるのは、打算を悟られない完璧な技術だろうか。

はっきりとした態度で、包み隠すことなく(そこそこ円満に)複数と同時進行で恋愛する人もどこかにいるだろう。多くはない例だと思う。そう思うと、極端な例を描写しつつも大衆の同調を得ようとする試みのひとつかもしれない。

みんなのハートを奪うシェリーのような人は、決してたくさんいるわけじゃない。クラスや学年に一人かそこらいるかもしれないが、シェリーのような人は間違いなく稀少なのだ。稀少なのに、普遍なのである。お隣に都合よく住んでいるというほどにありふれてはいないが、多くの人が一度くらいは見たことのあるような人格なのである。

ポップソングは、自分の近くに必ずしもいるかといえば否だけど、記憶に残る象徴的な存在、偶像を映す。

アウト・キャスト『気ままなシェリー』サウンドリスニング・メモ

リズムギターがジャンジャカとストロークが多く・細かく、グルーヴィ―で軽やか。そのぶんオルガンやオブリガードのギター、そしてバックグラウンドボーカルの存在感が際立つ。「ウーウー」と母音を伸ばすパート、歌詞ハモするパートで変化を与える。メインボーカルは基本ダブっている。ドラムの印象はリズムギターにも似てグルーヴィで軽やか、アクセントを気味良く描き込み、エンディングのフィルインは豪快。ベースが低音の比重を持ち、ノリの勘所を射る。

間奏のソロはオルガンが滑らかな8分音符主体の短二度の解決を含んだ旋律、跳躍を含む細やかな16分音符を織り交ぜた華麗な軌道を描き込む。

音の量やパートの数・演奏の情緒の余白に、シェリーが主人公だけに夢中になってはくれない、えもいわれぬ寂しさが漂う。

アウト・キャストと、藤田浩一というひと

『気ままなシェリー』はアウト・キャストというグループ・サウンズ・バンドのデビューシングル『友達になろう』(1967)のB面曲である。作詞・作曲はメンバーの藤田浩一。バンド「アウト・キャスト」についてはこのサイト(団塊世代の思い出>グループサウンズ>アウト・キャスト ~GSデビューから解散まで~)が端的に記述している。Wikipediaもリンクしておく。

上記サイトをみるに、作詞・作曲の藤田浩一はバンドが結成した後にバンドに加入し、バンドが解散する前に去ったメンバーのようである。バンドの寿命(主な活動期間)は2年かそこらといったところだろうか。太く短く活動するにはじゅうぶんな気もするが短命でもある。

藤田浩一は「オメガトライブ」のプロデューサーで、核心人物として強いリーダーシップを発揮していたように読める。藤田浩一のオフィシャルファンサイトがあり、プロフィールの項に“かまやつひろしの、マネージメント&プロモーションを手掛ける”とある。かまやつひろし、私の敬愛するその人じゃないか。

1986オメガトライブ『君は1000%』。日本テレビ系列のドラマ『新・熱中時代宣言』(1986)主題歌とのことで、時代と紐づけて記憶している人も多そうなヒット曲。ボーカルはカルロス・トシキ。繊細でニュアンスに富んだ澄んだ歌声がせつなげ、ちょっと影のある感じが魅惑。

ベイ・シティ・ローラーズを日本でヒットさせるきっかけをつくったのも藤田浩一の仕事のようである。

単語のアルファベットを一文字ずつ唱えるアイディアの「お初」かどうかは知らないが、ベイ・シティ・ローラーズのヒットソング的な遺伝子が後世に渡って受け継がれているように思う。

児童・生徒向けの歌本に長期に渡り掲載されるヒットソング『WAになっておどろう』作者の角松敏生を早い時期のうちに見出したのも藤田浩一のようである。

V6で認知した人も多そう(私もその一人)なAGHARTA(アガルタ)の『ILE AIYE 〜WAになっておどろう〜』。作詞・作曲の長万部太郎は角松敏生の筆名。

バンド「アウト・キャスト」での活動は藤田浩一のその後の活躍のほんとうに前日譚に過ぎないようだ。

A面曲、アウト・キャスト『友達になろう』

YouTube上にあるアウト・キャスト『友達になろう』へのリンク

中庸な曲調と曲名を思うと、軽快な『気ままなシェリー』がA面っぽいキャラクターな気がしてしまう私の感覚は的外れか。『友達になろう』の方が、せつない感情や情緒の質量があり、それが歌(歌詞)にはっきり表れているので、一般大衆に通じやすいと判断するのだろうか。

感情の質量がはっきりしているものが理解・浸透しやすいと判断するのが大衆の娯楽作品の作り手が持つべき感覚なのだろうか。私はB面好きなのか。ちなみに、オルガン・ソロのしゃくりあげる装飾のつけ方が凄すぎて心の中でちょっとニヤけてしまった。『見上げてごらん夜の星を』を思い出させる歌い出しのボーカルメロディである。しっとりと語りかける情緒を持った旋律だ。

坂本九『見上げてごらん夜の星を』。歌手のバックに豪華な楽団。GSバンドブーム以前には、ヒットした大衆歌の伴奏はこうした編成が目立っていたと察する。スター歌手の絶対数は現代よりもずっと限られていて、大衆が共通の歌手の表現を楽しんでいた社会を思う。その意味でも、自ら楽器を持って4人とかそこらのコンパクトな人数で自演してしまうバンドのスタイルは大衆の目に革新的に映ったのかもしれない。

冒頭を印象づける和音は増五度、Ⅴのオーグメント(aug)の和音。私の中で南佳孝『スローなブギにしてくれ(I want you)』が重なって想起されるオープニング。

南佳孝『スローなブギにしてくれ(I want you)』。作詞:松本隆、作曲:南佳孝。松本隆の作品群の中では観念的な表現を中心にした作詞といえるかもしれない。「マッチ」「強いジン」といった単語がキラリと光を添える。ねっとりとした魂の粘度を感じさせる南佳孝のボーカル、ソングライティングは私の中の恒久。

後記 Cまで回って、もはやA

Bっぽいものが好きだ。B級グルメもそうだし、B面曲もそう。なんならCくらいでもいいが、それじゃあレコードが3面体になってしまう……じゃなくて2枚組か? そしたらもはや2枚目のA面?

Bっぽいのが私にとってのAなのだ。AだかBだかのニュアンスが反転を繰り返して崩壊しかかっているのが私の感性である。

B匂が魅力的な『気ままなシェリー』の周囲を知っていくと藤田浩一に行き当たり、私ですら知っている、おそらく世間的にも「A」っぽいメジャーな曲やアーティストとの関わりが色々出てくるのが興味深い。B好きな感覚も、どこかでAっぽさと交わることがあるのだと自分を鼓舞して今後も邁進したい。

B沼落ちの駄文に最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

青沼詩郎

大人のMusic Calendar> [recommend]音楽業界の重鎮たちを輩出した“必殺仕事人GS”アウト・キャストのすべて!

アウト・キャストのメンバーらの活躍はむしろバンドのキャリアの後にめざましいことが端的にうかがえる記事。

芝ちゃんのブログ>B級グループサウンズ ⑮ アウトキャスト

当時の貴重な一次的体験が綴られており興味深いブログ。GSという表現はなくフォークロックと紹介されたこと。『友達になろう』のような曲のほうがいかにA面っぽいものだったかの当時の風潮の証言といえそうで、そうした曲調の作品をまずリリースするグループが多かった様子か。また、グループサウンズのような音楽を好むことは当時においてもマイノリティ的だったのではないかと想像させる記事冒頭部分が印象的で興味深い。

『友達になろう』を収録したアウト・キャストのアルバム『君も僕も友達になろう』(1967)。生産限定盤に『気ままなシェリー』をボーナス・トラックとして収録。

ご笑覧ください 拙演(YouTubeへのリンクShiro Aonuma @bandshijin『気ままなシェリー(アウト・キャストの曲)ピアノ弾き語り』)