大学生くらいの頃のミュージシャンとしての私は本当、高慢なクソヤローでした。

作曲や作詞を当時からやっていましたが、そうした自作曲の中に、自分がすごく感動するものが含まれていました。「オレ、いい曲書く」みたいな意識がどこかにあるのです。

そうした感動や自作に心が打震えた体験があってか、「オレの音楽、最高」でとまってしまって、ほかの人の作から多くを学ばない。そんな「クソヤロー」の一面があったように当時を顧みています。

特に、「ライブ」のチケットを自分でとって積極的に行く人間でなかったのをかえりみています。音源は、聴いていました。気に入ったものを中心に、好きじゃないものを遠ざける狭い視野ではあるにせよ。

そんな私を、当時付き合っていた人がしばしばチケットをとってライブに誘ってくれたことがありました。

そうして観たものの中のひとつに、安藤裕子の公演がありました。会場が、横浜の大桟橋(なんてロマンティックな立地)。

安藤裕子の歌の完璧さに感服したのを覚えています。セットリストのすみずみにわたって、揺るがない完璧なボーカルだったなぁという印象。声のコントロールに裏打ちされた表現力、ピッチ。私が大学に入って、いくらかの時間が経った頃の公演だったので、時期は2008年前後だったかなぁ(あいまい)。

安藤裕子といば月桂冠のCMソングで有名になった『のうぜんかつら』。私が安藤裕子本人だったら、このヒット曲のことばかり言われて嫌になってしまうとか、その後の活動のすべてをこのヒット曲と比べられてしまって嫌になってしまうとかするのじゃないかしら? と思ってしまうほどに影響力のある曲だと思います。

『のうぜんかつら』は安藤裕子のアルバム『Merry Andrew』(2006)に収録されています。作詞は安藤裕子、作曲は安藤裕子・山本隆二。ひとつのアルバムに2バージョン収録されていて、月桂冠CMで有名になったのは「(リプライズ)」とつくほう。ボーカルとピアノのみのシンプルで美しいアレンジ。「(リプライズ)」とつかないほうは、ハネたビートとせつない曲調がほろ苦くも爽やかなポップチューン。私はどちらもとても好き。

(ここからは歌メロや歌詞が明瞭に読み取りやすい「(リプライズ)」バージョンを基本にお話しします)

歌い出しは強起(1拍目からはじまるフレーズのことです)。“撫でて”というたった3音(3文字)の歌詞で、2小節間。“優しく”と続き、次に”のうぜんかつらの“と歌うところでは、1拍目を休符にした弱起(1拍目以外からはじまるフレーズ)。このふたつの対比が利いています。

曲の前半のほうには、「まったく同じメロディ音形や構成の、完璧に近いかたちでの反復」がほとんどありません。ちょっとメロディがちがったり、順番がちがったりするフレーズと歌詞で紡がれます。

たとえば、歌い出し”撫でて 優しく“の次に、「1拍目の頭を休符にしたフレーズ」の“のうぜんかつらの唄のように”というラインが来ます。つまり、折り返しのラインとして「アタマを1拍空けるフレーズ」が使われているのです。

この少しあとで出てくる歌詞“二人の時間も泡みたいになって”の歌い出しも「アタマを1拍空けるフレーズ」なのですけれど、こちらでは折り返しのラインではなく、その部分のはじまりを思わせるところで使われています。そして、「アタマを1拍空けている」点では冒頭付近の“のうぜんかつらの唄のように”というフレーズと一緒なのですけれど、そのあとのメロディが少し違います。

細かいことを申し上げました。読むのに、理解するのにつらかったかもしれません。ここで私がいいたいのは、とにかく「まったく同じ形での音楽的な要素の反復が曲の前半部にいかに少ないか」です。

それなのに、この曲はとても覚えやすいです。覚えやすいというか、記憶に残る。これはすごいことです。ふつうの音楽家の私だったら、「ほぼ同じ形」での音楽的な要素の反復で印象づけを試みようとしてしまいがちです。こういうのはリフレインといって、作曲の基本技術ですし、遠ざけるよりもむしろ積極的に用いていいことでもあります。でも『のうぜんかつら』はそこから抜きん出ています。類い稀な曲です、本当に。

青沼詩郎

安藤裕子 公式サイトへのリンク

『のうぜんかつら』『同(リプライズ)』を収録した安藤裕子のアルバム『Merry Andrew』(2006)

ご笑覧ください 拙演