歌詞は音楽の一部か
歌詞は音楽の一部だと思います。音楽というフォーマットのなかで言葉が扱われているのです。その言葉は連なり、文章となって意味を持ち得るものです。もちろん、意味の特定が難しくても成立します。それが、ボーカルミュージックの面白さでしょう。
ボブ・ディランの音楽を鑑賞するとき、歌詞:言葉のつらなり、それらが帯びる意味やメッセージが重要だと思います。音楽がシンプルなので、そこに比重が出てくると思います。外国語なので、日本人の私にとってはひとつハードルがありますが……。
外国語の連なりを聴いていると、子音や母音のつらなりが、さまざまな音楽的な刺激にもなります。歯擦音や破裂音がリズムを成します。言葉の抑揚がそのまま感情や思想のバロメーターでもあります。もちろん、抑揚に対して意外な言葉をあてがうフックもあるでしょう。
歌詞:言葉の意味もまた、音楽に干渉するのです。やっぱり、歌詞も含めて音楽一体だと思う理由です。
曲についての概要など
作詞・作曲:Bob Dylan。Bob Dylanのアルバム『The Freewheelin’ Bob Dylan』(1963)に収録、シングルカット。
Blowin’ In the Windを聴く
彼の繰り出す言葉のリズムが揺らめきます。風にゆらめく樹葉のような。樹みたくずっと昔からそこにあるような、風に乗ってふとやってきた言葉のような。
この『Blowin’ In the Wind』の録音を吹き込んだ頃のボブ・ディランは何歳くらいだったのでしょう。彼といえば、登場してからずっとこの声のイメージです。一体いつこのエイジングがなされたのか。私の知見の外で、青々しい時期もあったのでしょうか。
考え、思い、表現を繰り返し、ずっと磨いたような声。生活に疲れ、消耗したような声。国会図書館の本をみんな読んでしまった寂寥のような声。世界を俯瞰したような、いかなるコミュニティからもあぶれたマイノリティのような声。河のようにとめどなく流れる物量のような、背中だけを見せすべてを内側に閉ざすような声。風上のような風下のような声。
“The answer, my friend,is blowin’ in the wind”その答えが聞きたいのに!……などと言っては、自由を投げ出し隷属する愚行でしょうか。てめえの目でみるのです。勝ち取るのです……いえ、誰かを負かす戦ではない。あなたがあなたの中から差し出すもの。あなたが風の中から受け取り、育む心身から抽出するものが、木にも枝葉にもならんことを。
ことばの連なりの間にハーモニカの風が吹きます。ギターは低音と高音の弦を弾き分けてかろやかにバウンドするように、チャカチャカと淡白に歩みを進めていきます。
平常心でいること、恒常でいることこそが、他者への愛であるようにも思います。心を痛める出来事の傍ら平然とする社会に憤る人もあれば、その恒常性に安心する者もいるでしょう。自分がこんなに動揺しているのに、どうして他人はそんなに冷たくいられるのか? 他者から与えられるのを無心に待ち、願う者には変わることを強いるのは厳しい態度かもしれません。自分が与える側になってもいいでしょう。あなたの自尊心は人を救いもしますし、逆にあなたの誠意や素直さが、ほかの誰かの進路に立ちはだかることもあるでしょう。
早熟も晩成も相対のもの
ボブ・ディランは1941年生まれ。『Blowin’ In the Wind』をアルバムに入れてレコードにして出したのは、彼が22歳くらいになる年です。レコード化よりも前からこの曲はあった様子(当然かもしれませんが)で、彼が21歳のときにこの楽曲の歌詞についてのインタビューに答えてもいるようです。……とすると……実年齢がいかようかは、声やその表現や作詞にみる「枯れ具合」「エイジング感」のようなものとは相関が低いのではないかと思えます。ひとえにボブ・ディランが21歳そこそこという実年齢に比べてあまりにも聡明で、達観を持っていたしるしかもしれません。20歳そこそこは「若い!」という私の偏見のもとに話を開陳してしまいましたが、彼にとって『Blowin’ In the Wind』の表現に至るのに自然なタイミングだったのかもしれません。早熟というべきか? それは相対的なものでしかありません。
耳の及ぶところ
“How many ears must one man have, before he can hear people cry?”
(『Blowin’ In the Wind』より、作詞:Bob Dylan)
人間の悲痛を感知するために必要なのは、耳の数なのか? 他人の叫びや泣き声をきくために、「耳」がたくさんあれば聴こえるようになるのか? おそらく耳がいくつあっても、聴こうと努めないものは届かないでしょう。たくさん備えた耳を、もっと私欲を満たすためにつかう人が現れかねません。愚かなものです……などと嘆いているのみでは私も愚か者の一員でしょう。
風は見えません。でも、たとえば都市の路上に残されたビニール袋を舞い上げたとき、そこに風の存在を視ることができます。ビニール袋が飛んで行った、と思うか、強い風が吹いた!と思うか。一連の出来事の、どこをどれだけ、どんな風に認知するかは人それぞれ、さまざまです。答えは限りありません。
淡々と、「どれだけ~~ならば、~~か?」形式の問いを連ね、“The answer is blowin’ in the wind”のレスポンスを置く。シンプルな構造の音楽と言葉のまわりに、風のための余白がたくさんあります。そこに、それぞれの風をみる。あらゆる感性と感情、思想の風を起こすのです。
ひとりの人には、多くて耳が二個。すべてを聴くことはできません。同時に認知できるものは限られているし、聴きとれる範囲も自分の身の周りだけです。
青沼詩郎
参考Wikipedia>風に吹かれて (ボブ・ディランの曲)
参考歌詞掲載サイト 世界の民謡・童謡>風に吹かれて Blowin’ in the Wind キューバ侵攻やベトナム戦争時代にリリースされたボブ・ディランの代表曲
『Blowin’ In the Wind』を収録したBob Dylanのアルバム『The Freewheelin’ Bob Dylan』(1963)
ご寛容ください 拙演(YouTubeへのリンクShiro Aonuma @bandshijin『Blowin’ in the Wind(Bob Dylanの曲)ギター弾き語りとハーモニカ』)