アルバム向きの曲
1曲でコンセプトが完結しているといいますか、それが伝わりやすい楽曲があります。それでいて、1曲単体でどこか華がある。そういうものは、シングル向きの楽曲といえるのかもしれません。シングルとして出すには、それだけでジャケット写真(図画)がいります。1曲(実際の収録は2曲以上だったりもするけど)でも、ビジュアルイメージ、視覚を喚起する曲想の強さがあるものがシングル向きの楽曲かもしれません。もちろん、どんな楽曲であっても視覚の喚起は多かれ少なかれあるとは思います。
1曲では、華やかさを備えかつ視覚を強く喚起する性質が弱い楽曲もあるでしょう。あるいは、あえてジャケットイメージによって視覚をユーザーに植え付けたくない、作り手として潜ませたい・隠したい楽曲というのもあるでしょう。ユーザーにその価値を能動的に発見させたいとも言えそうです。
自分で積極的に見つけたものって、楽曲に限らず、そのユーザーの中で価値が高まる傾向にあると私は思います。「うわ!こんな良いものがあったなんて。目立つ場所に置かれてないけど、見つけものをしちゃった!」という感動があります。ちょっと違いますが、「お得感」みたいなものと似たところもありそうです。
もちろん商業音楽として発表するからには「隠したい・潜らせたい」は本来、ちょっとおかしい、歪な意図なのかもしれません。単曲でシングルとして発売するには、それだけコストもかかるでしょうから、単に経済的な問題によってその楽曲がシングルとなるかどうかが決まる側面もあるのかもしれません。シングルをある期間のうちに複数発表しながら、それらのシングル曲を含めたアルバムの発表につなげるというのがある時期の(あるいは現在に至る)日本の商業音楽にありがちな活動スタイル・ペースでもあるように思います。
洋楽だと逆で、シングル化するとコストの回収が望めそうな楽曲を、アルバムの発表後にシングルとして出す、という慣例があるように私の目には見えますが業界の内側みたいなものを知らずユーザーとしての目線のみによって言っているので私の観察の正しさも果たしてどうかわかりません。
アルバムにのみ収録される(っぽい)曲には、あそびがあります。挑戦がある、ともいえます。あるいは、そのアーティスト・ミュージシャンの、表現の重心のもっとも置かれた部分から遠く離れた、突出したバランス感をもつ楽曲も多いです。また、ヒットしたり人気が出たり広く認知されるバランスを備えた楽曲が、そのアーティストなりミュージシャンなりの表現の重心と一致するとは限りません。その表現者自身としては、あまり重心を置いていない突出したバランス感の楽曲のみがヒットしてしまう、そしてそうしたバランスを備えた楽曲をその後においてユーザーから求められがちになり、そのことと実際の自分(表現者としての)自身の持つ表現の重心のバランス感とのギャップに苦しんだり悩んだりということもありえるのかもしれません。
アルバムのみに用いられるようなクセがあったりアクがあったり、個性が突出していたり、万人には好かれなさそうな特徴が何かしらあったり、あそびがあったり、楽曲の演奏時間とほぼ同等の作曲時間しか割いてなさそうなスピード感をもって生まれていそうな良くも悪くもテキトーそうな曲が私は好きです。
もちろん、作曲時間に割いた時間が曲の演奏時間とほぼ同等(即興で作った)みたいな曲こそ、広くヒットする曲になるということもかなりあるようです。
アルバム曲とB面曲はちょっと似てもいますが、B面曲は、ほんとうにシングルのB面として「ジャケットイメージを代表する」存在からある程度切り離され、かつ、ある程度曲数がまとまることでそのアーティストの重心感を表現する作品群からもある程度切り離された状態で発表されてそれで終わり!ということもあるように思います。そういう意味で、アルバム曲よりもさらに「捨て曲」感が強いこともありそうに思います。
もちろん、B面曲(あるいはアルバム曲)こそそのアーティストを雄弁に語ることもあり、実際B面集なんてコンセプトアルバム(コンピ)をあとで曲数を集めて発表しなおすなんてケースも頻繁にみられます。
ひと昔前(1950〜1970年代くらいとか)の歌手などは、アルバムよりもシングルのみの発表に圧倒的に活動の比重を割いていて、アルバムとして何かをまとめるとなると、そもそもがAB面曲集、つまりシングル集(B面あるいはカップリング含む)、ベストアルバムの様相がアルバムの基本(というか、複数曲でひとつの作品という性格のアルバムをつくるということをそもそもあまりしない)、みたいになる歌手も多数いるように思います。
長々かきましたが、アルバムのみに用いられる曲とか、B面曲を私は好きなることが多いです。
かぐや姫 僕は何をやってもだめな男ですを聴く
コミックソングというのかノベルティ・ソングといっていいのかわかりませんが、盛大に遊んでいる曲想です。途中で入るセリフが印象的。男を象徴するモノを、対象者を囲って露出させているみたいな演出。モノを認め「私の負けです」とまで。ハラスメントやいじめかどうかあやういくらいのバランスも現代目線でみるとありうると思いますが、……まあ時代が違います。そのひとことで片付けてよいわけでもないでしょうが、たとえば男女に関するものの見方や価値観、ステレオタイプな歌詞表現なども、昔の年代の楽曲には非常に頻繁に登場します。世相の、社会のあたりまえが、それをなんとも思わない時代だったのでしょう。やはり、そういう時代だった、という感慨は、よくも悪くも一理あると言わざるをえないでしょう。
間奏の細かい演出に話がいってしまいました。
冒頭から、ウラ声をつかったみたいなコミカルな歌唱です。器用で、声をコントロールする技量がある程度ないとこういう歌唱は案外むずかしく、かぐや姫の面々が純然たるミュージシャンである側面を私に印象づけます。
左でアコギのストラミングがリズム。真ん中あるいは左寄り?くらいにベース、2拍目裏のストロークに特徴のあるパターンです。右で、この遊んだ楽曲に不釣り合いにも思えかねないリードトーンの歪んだエレキギターのオブリガード。同じく右よりに、カッココカッココ……とウッドブロックのような打楽器小物がリズムを印象づけます。可愛らしいというか、ちょっとすっとぼけた柔らかい印象を与える音色です。
まんなか付近では、フォーンとアタックが消えて立ち上がる独特のトーンが和声感を出します。エレキギターのボリュームノブを、弦をストロークしたあとにゼロから上げていくヴァイオリン奏法でしょうか。コミカルな曲調を彩るユニークな奏法です。
メインボーカルに上の字ハモを的確に加えるなど、やはりボーカルグループとしてもかぐや姫は聴きどころに満ちています。
エンディングには笑い声。このアルバム『はじめまして』には、曲のはじまりや終わりに、こういう非楽音としての声などがしばしばみられます。アルバムとして、脱力してメリハリのある作品をスピード感をもってぽんぽんとひねり出すような反射神経のよさやリラックス感が伝わってきます。
作曲は吉田拓郎さんで、たとえば楽曲『加川良の手紙』にみるような、言葉が音楽にのって開陳される「そのまんま感」みたいなものに独特の特徴を見出します。
そんなことってある?!
“僕は何をやってもだめな男です 昨日歩いてて犬におしっこをかけられました ガムをかんでも舌をかんでしまうし トイレに入ってチャックがしまらず オロオロしたこともありました”
(『僕は何をやってもだめな男です』より、作詞:伊勢正三)
この主人公のすごいのは、歩いていたのに犬におしっこをかけられたことです。ぼうっと立ち止まっていたのではありません。歩いていたのに、です。もはや奇跡といいますか、犬に人間の人格が憑依して、いたずらの意図を強固に持って主人公に向けておこなったとしか思えないほどです。
犬のうんちを踏んでしまうことならば、犬におしっこをかけられることよりはありふれたトラブルに思えます。百歩ゆずって、立ち止まってぼうっとしていれ犬におしっこをかけられることもあるでしょうか。その経験がある人がいたら教えてほしいくらいです。
ほっぺたの内側を一度噛んでしまって、腫れて膨れてしまって、そこをその後なんども繰り返し噛んでしまってよりいっそう腫れ上がってしまう、ということならたまにある気がしますが、ガムを噛んで舌を噛んでしまうとは、どれほど舌が油断して脱力しているのか?と思います。もちろん、個人によって舌の噛みやすさは違うでしょうから、主人公としてはついやってしまう、ハードルの低い失敗なのかもしれません。
電話口の相手をろくに確認もせず、意中の人の相手の母親に愛を告白してしまう。機動隊というのは、学生運動なんかが盛んだった時代性を思わせます。その機微までは当時をしらない私にはわかりかねますが、とばっちりを受ける目にあっている主人公の様子がとにかくノンビリと開陳されるのに終止する楽曲。これを遊んでいるといわずどういいましょう……紛れもなく、アルバム向きの曲といえそうに思います。私のお気に入りです。
粘着コロコロシートみたいに、失敗やトラブルを寄せ付ける星のもとの主人公よ。コミカルです。
青沼詩郎
参考Wikipedia>はじめまして (かぐや姫のアルバム)
『僕は何をやってもだめな男です』を収録したかぐや姫のアルバム『はじめまして』(1972)
ご寛容ください 拙演(YouTubeへのリンクShiro Aonuma @bandshijin『僕は何をやってもだめな男です(かぐや姫の曲)ギター弾き語りとハーモニカ』)