陳腐な見栄の話

同窓生、すなわちかつての学友みたいなものに気軽に会いたくないみみっちい気持ちが私にはあります。それはつまらない見栄です。何かとてつもなく大きな成功をおさめるでもない自分の現実において、どの面さげて自分の過去に関わった人に会えばよいのかと、そういう陳腐な見栄による気持ちです。

そんな陳腐な見栄は私にこびりついた過去の遺物でもあります。昔はそんなふうに思っている向きもあったけど、今はもうそんな陳腐な意味のない見栄はどうでも良くなっている自分もいます。歳をとったな、私よ。

かつての学友の誰とも会いたくないというわけでもありません。現在に及んで、親しく、なんの気兼ねもなく接せる友人も、幸いなことにわずかではありますが私にはいます。そういう数少ない友人の前では、陳腐な遺物のような見栄はなんの力もなくすぼまり影を潜めるだけです。

自分の過去に接点のある友人が、その後の未来においてなした仕事の功績がなんらかの形で轟いて来ると、その風の便りに衝撃を受けることもあるでしょう。だいたい、なんらかのメディアを通して、ニュースのような形だったり、紹介する記事やコーナーの体だったり、あるいはメディアにそのまま登場してインタビューに応じるとかその場でなんらかのその分野なりのパフォーマンスを発揮する形で出演するとかいったものでしょう。

そういうものをいち末端の視聴者や読者のような形で受け取り、ひとり衝撃を受けるのです。そのことを純粋に喜べれば幸いです。陳腐な見栄がこびりついている若い人(……かつての若い私のような)であれば、ちくしょうやられたとばかりに卑小な悔しさを燃やすでしょうか。

人は人(他人は他人)ですし、自分にしかできないことがあります。自分は自分にやれることをやるのみです。自分にしかできないことは、シビアにいえば、ほとんどが他にも似たようなことをできる人が同様に存在するケースでしょう。ただ、自分なりのバランスで、他にも似たようなことができる人とはちょっとだけその形や分布、手広さの様相が異なるとか、それくらいのものかもしれません。

現状はその程度で、他にも自分と同様のことができる人がいたとしても、地続きにできることを広げ、伸ばしていけばやがて誰も及ばないくらい独創的な手広さや能力の発揮の仕方やスキルの様相を獲得できるかもしれません。「やれることをやるのみ」を肯定的にとらえればそういうこと。「やれること」に全力を注ぎ、現状の最適化や効率化をはかり、生じた余力で新しいことやより高度なことにも手を伸ばし発展・更新を続けることで、より「今やれること」の拡張・拡大を図るのです。

今を、腐らず。なんだか自分への箴言みたいになってしまいました。アリスの『ジョニーの子守唄』は、何かそういう一抹のせつなさや、駆け出したくなる気持ちの動きをくれる素敵な唄です。

ジョニーの子守唄を聴く

作詞:谷村新司、作曲:堀内孝雄、編曲:石川鷹彦。アリスのシングル(1978)。

基本はすごくシンプルで、しっかりと歌のニュアンスとメロディーと歌詞のよさをとどけるのがアリスの気持ちよく潔いアティテュードであり、サウンドの構造だと思います。

プレーンなアコギのストラミングをシャラリとならし、それはベースとドラムスがささえる。間奏や合いの手として、伸びのある鋭いリードギターが要所で轟く。これがアリスのサウンドの典型かもしれません。歌の内容の純朴さからして、こういう奇を衒わない率直な音の意匠が正解なわけです。あまり正解なんて表現をつかうのは大仰ですし、音楽は自由でよいと思いますが、その表現者のよさを、伝えんとすることをありのままに、できれば拡大や増長をほどこして伝えるために然るべき確かな音の意匠は確かに存在する……という意味で「正解」みたいなものは存在するといっていいでしょう。

メロがアコギとドラムスとベースと歌のみ、というくらいにシンプルで、サビでガーンとピアノとリードギターが入ってきて要所をブースト。メインのボーカルも同一パートのオーバーダブの線になりますし、ハーモニーパート(上ハモかしら)も入りますし、繊細で柔和な声のBGVも入ってきて音に広がりを与えます。ストリングスも左右にわかれて音を広げます。

サビとメロの音の華やかさのメリハリづくりが巧みです。Aメロでは引き算をかなりのところまでやる。サビ付近で登場するモチーフがそのことによって、より映えます。然るべき部分では音数をきちんと絞ってコントラスト(フォーカスの合うパート)をはっきりさせるというのは、洋楽の近作……グローバルチャートに登場するような楽曲でもさかんにとられている態度・ポリシーであるようにも思います。アリスの楽曲はイノセント……無垢で率直で、いなたさやイモっぽい身近な魅力を私に感じさせる一方で、大胆なくらいに洗練させたサウンドへの態度も同時に持っているようなのです。

ジョニーに重なる自己

“束の間の淋しさ うずめるために 君の歌声を聞いていた せまいホールの壁にもたれて 君の動きを追いかけていた 飛び散る汗と煙の中に あの頃の俺がいた オーオージョニー 君は今 オージョニー どこにいるのか”

(『ジョニーの子守唄』より、作詞:谷村新司)

どういう主人公像なのでしょう。ややコンテクスト(文脈)の重みがかかっているように思えます。主人公は、“せまいホールの壁にもたれて 君の動きを追いかけていた”とあります。ステージを司る演者でなく、観客なのか、リハーサルを見守るマネージャーなどの関係各位が主人公の人格なのかなと想像させます。

“飛び散る汗と煙の中に あの頃の俺がいた”とあります。かつては自分もステージに上がって、音楽をやる主体だった。でも、いまはホールの壁にもたれている。ステージを司る主体に、自分の過去を重ねている人格を想像させます。過去の自分は、どこにいってしまったのか? ほかでもなく、主人公の胸のなか、あるいは、主人公のその時の姿を記憶に留めた、主人公の身の周りの近親者やその頃のパートナーや第三者のなかにいるはずだとも思います。その、かつて存在した、ステージの上の主体=主人公の写し身こそがジョニーなのかなと思います。

“時間つぶしの店の片隅 ふと聞こえてきた君の唄 コーヒーカップを持つ手がふいに ふるえ出したのが恥ずかしくて”

(『ジョニーの子守唄』より、作詞:谷村新司)

コーヒーを提供する店で時間を潰している主人公。“君の唄”が、ほかの客席にいる君の肉体から直接聞こえてくる状況というのはやや不自然です。喫茶店や何かで、唄をほかの席に聴こえるくらいに歌ってしまう状況は考えにくい。店内のスピーカーから流れる有線放送などのBGMだったり、ラジオや何かのメディアにのって、”君の唄”が主人公のもとに届いたと解釈するのが自然でしょう。

君は、主人公と会わなくなっていくらかの時間が経過している存在なのでしょうか。君の唄が世間に轟いている事実が、主人公を動揺させ、カップを持つ手の保持を乱します。その動揺のあらわれを恥じている。

「君」は、実は主人公自身なのかもしれない……とも想像します。自分の唄がメディアにのって轟くことに恥ずかしさを覚えるというのも、自然ななりゆきに思えるからです。「君」は、主人公とは相容れない高嶺の存在のようにも思える一方で、努力し、理想をつきつめる主人公自身の姿のようにも思えるのです。ふたつの存在は、別であって、しかし同一の肉体を共有する人格でもある……と。

“子供が出来た今でさえ あの頃は忘れない オーオージョニー 君だけが オージョニー 俺の思い出” “風の噂で聞いたけど 君はまだ燃えていると オーオージョニー それだけが オージョニー ただ嬉しくて”

(『ジョニーの子守唄』より、作詞:谷村新司)

自分が主体になって何かに努めていた……その頃と比べて身辺状況の変化があった具体を、“子供が出来た今でさえ”という表現が伝えます。それでも忘れない思い出がジョニーの姿のようです。

風の噂で活躍をきく……そういう距離感に、主人公とジョニーはあるようです。主人公とジョニーは、やっぱり別人。でも、どこか自分と重ねているし、自分のことのように親しみをもって思っている。かれの活躍を、燃える意思を嬉しく思っている主人公。それは、あったかもしれない主人公の未来です。自分も、燃えるジョニーのようにいまも、風に噂を轟かせていたかもしれない。現実の自分は子供ができて、あの頃を回顧している。

ああ、せつなく、心が走り出しそうなもどかしい気持ちになります。

青沼詩郎

参考歌詞サイト 歌ネット>ジョニーの子守唄

参考Wikipedia>ジョニーの子守唄

アリス 公式サイトへのリンク

『ジョニーの子守唄』を収録した『ALL TIME COMPLETE SINGLE COLLECTION 2019』(2019)

ご寛容ください 拙演(YouTubeへのリンクShiro Aonuma @bandshijin『ジョニーの子守唄(アリスの曲)ギター弾き語りとハーモニカ』)