心をゆする『流星』

最近、吉田拓郎の『流星』に心を持っていかれました。私の身のまわりで心をぐらつかせる出来事が個人的にあったので、そのことが重なり、鼻がつんとして、肺や心臓がきゅぅっと身をこごめ、涙がおちそうになるのです。“静けさにまさる 強さは無くて”(『流星』より、作詞:吉田拓郎)。「静けさ」とは、時間が心をいやすさまを描いているように思えるのです。それはときに、どんな言葉にもまさる優しさ・慈しみではないでしょうか。

ウルフルズが好きで、『バンザイ 〜好きでよかった〜』は私が高校生の頃からの級友たちとの間のアンセムでもあるのですが、ウルフルズのボーカリストでソングライティングを担うトータス松本が吉田拓郎に提供したのが『僕の人生の今は何章目ぐらいだろう』。かつてから認知していた曲ですが、この歌の存在をいま改めて強く自覚したのは、『流星』を鑑賞した最近の体験があったからでした。『流星』の鑑賞に続いてまたしても強く心を揺さぶられたことが、『流星』『僕の人生の今は何章目ぐらいだろう』の2曲を私に強く印象づけました。1970年代くらいの音楽が私は大変好きで日頃聴き漁っており、芸名がひらがなで「よしだたくろう」だった頃の彼の作品にもよく親しんでいますが、70年代の半ばに漢字でつづる芸名に改めて以降の吉田拓郎作品への関心を強めてもくれました。

吉田拓郎『僕の人生の今は何章目ぐらいだろう』リスンング・メモ

吉田拓郎のアルバム『Hawaiian Rhapsody』(1998)に収録。作詞・作曲:トータス松本。「ド、ドド、チ」のリズムのイントロにThe Ronettes『Be My Baby』のパターンを思い出します。エレクトリック・ギター、ドラムスのエイト・ビートなどバンドの骨子を感じる実直な演奏の味わいが好印象なアレンジメント。編曲は吉田建。間奏のハーモニカで孤独な風が吹き、エンディングでシンガロングの輪が降臨。
私の心のアンセム『バンザイ ~好きでよかった~』

また、高校生や大学生の頃にウルフルズの『暴れだす』『笑えれば』などの傑作に心を揺さぶられていた私ですが、その頃から15年や20年近くが経って(執筆時:2023年)、今日に至ってもなおウルフルズ並びにトータス松本作品に感動しているのを自覚し、感服を強めています。

公人と私人

1970年代前半くらいまでの作品で特に印象の強いよしだたくろう作品のひとつに、アルバム『元気です。』があります。アコギをジャカジャカやったりポロポロつま弾いたりしながら、狭い部屋で「歌を吐く」ように作られていそうな、鬱屈とした私情がここに留まることを許さずに溢れ出たようなこれまた傑作で、自身で作詞作曲したものと、岡本おさみを中心に複数の作家による作詞を含んだアルバムなのですが、これはいい意味で、先ほども申しました通り、至極、歌の主人公(これが現実の“よしだたくろう”と重なる部分もあれば、あくまで創造された人格である部分もあるでしょう)の私情、個人の生の言葉であるのを思わせるのです。

対して、自身で作詞・作曲した『流星』や、トータス松本から提供を受けた『僕の人生の今は何章目ぐらいだろう』には、冒頭で述べましたように、私を含む個人の総合たる大衆が、おのおのの感情を乗せやすい普遍性を持っているのです。私のようなものが申すのもおこがましいですが、「私人」としてすばらしい才能を持ったソングライター・よしだたくろうが、自分からも他者からも信じ・頼られる「公人」・吉田拓郎に進化したような印象を受けるのです。ひらがなでつづったかつての芸名に対して漢字でつづる本名のほうこそ「私的」なはずなのですが、かえってそのことが、現実的な個人である吉田拓郎に対してより親近感を抱かせる気もします。自覚的にそうした・その意図のもとにそうしたかどうかは別として、本名で活動することによって、歌を受け取るユーザーと同じ地平に立った観念を私は思います。フラットな「人間」の土俵で相撲をとる。その事実が『流星』を書かせ、また他からの提供曲の歌唱における濁り・驕りのない実直な響きを裏付けているのかもしれません。

物事は「名前の通りになる」かどうか分かりませんが、名称に属することで育まれる「自覚」もあるでしょう。真っ裸の本名になることで逃げも隠れもせずに望む態度が表出させるものと「表現するもの」を一致させる方針も、私があこがれる生き方のひとつです。

偶像と愛

余談ですが、反対に、創出する偶像を「公人」として演じきるのもまた誠心誠意であり、貴い生き方のひとつでしょう。最近私は『推しの子』の漫画とアニメをイッキ見してしまいました。第一話において、作中の登場人物でアイドル(グループ名:B小町)を生業とするアイは、嘘をつき通すことも愛である旨を鑑賞者の私に自覚させます(実際のキャラクターのせりふの細部は、作品のほうで味わってください)。なるほど、ほんとうに歌を届ける対象:リスナー・ユーザー・ファンのことを至上に思うからこそ、徹底して嘘をつき通す……演じ切る、魅了し切るのが誠実(愛の一形態)であるとする振り切った覚悟が伝わってきます。

確かにそうでありましょう。これは、歌を届けるすべてのものについてまわる命題であるともいえます。芸名をひらがなでつづろうが漢字でつづろうがにかかわらず、吉田拓郎とてその例外ではないでしょう。彼もまた、ステージに立つ者としての矜持によってあらゆる歌を発し、それを受け取った私が勝手に、私情を感じたり大衆の普遍を感じたりして感動しているのに過ぎないのです。

アニメ『推しの子』

雑味と真実味 ノイズと音楽

実際、そこの方針は案外些事なのかもしれません。人は誰しも、己だけの真実を見出すからです。真実は人の数だけあるというように(『ミステリと言う勿れ』著:田村由美、で読んだのだったか)、己がどういうつもりで振舞おうと、吉田拓郎なりB小町のアイなりのことを観察した人の中に、その人にとっての吉田拓郎なりB小町のアイなりの「像」が焦点を結ぶからです。

真実の像は、嘘とホントの調合の結果に過ぎないのです。秘伝の割合に正解もないでしょう。どちらか100%に振り切れば調合の苦しみはないかわり、途轍もない完璧さが求められます。それに徹しきるハードルは、想像を絶する高さに違いありません(『推しの子』を楽しむ観点のひとつでもあります)。
結果、多くの人が、雑味と付き合って生きていくことになります。雑味の混じる成果に至るせめぎあいや葛藤、実らない努力の過程のディティールも私にとっては感動の千種です。これは雑味だらけの私の自己擁護かもしれません。

自己擁護を連ねますが、徹底して雑味を取り除くと必ずしも「最も美味いもの」になるかといえばそうでもありません。コーヒーやラーメンのスープなどを想像してもらえれば良いでしょうか。どこまでも透き通り、クリアで混じりけのないベクトルのものばかりが決して「至上のもの」ではないのは、理解してもらいやすいかと思います。“ノイズも音楽(のうち)”みたいな言葉を、山下達郎の言葉を勝手につぶやくTwitterアカウントか何かで読んで「ほんそれ」と思った記憶があります。

決して自己擁護を連ねる意味でなく、雑味も真実味のうちなのです。アイドルにそれを求めるかは別ですけれど。時代によってもかなり価値観が異なりそうです。私が1970年代くらいの音楽を好んで聴き漁ることとも、インネンが深そうにも思います。

ウルフルズ『僕の人生の今は何章目ぐらいだろう』 リスニング・メモ

ウルフルズのラブソング・ベスト『Stupid & honest』(1999)に収録。トータス松本の声の倍音なのかなんなのか。琴線にびんびん響く歌唱です。エレキギターのジャミジャミと鳴るストラミング、デシデシと歩調を保つドラムス。エレキギターとドラムが響くのはベースがいるからで……バンドっていいなと思わせます。エンディングはギターのリードとハーモニカが競演し、フェードせずにバンドがシメ。一発録音のイキの投合を感じる、吉田拓郎への提供曲のセルフカバーです。

青沼詩郎

ウルフルズ 公式サイトへのリンク

吉田拓郎 フォーライフミュージックエンタテイメントサイトへのリンク

参考Wikipedia>Hawaiian Rhapsody

吉田拓郎の『僕の人生の今は何章目ぐらいだろう』を収録した『Hawaiian Rhapsody』(1998)

ウルフルズの『僕の人生の今は何章目ぐらいだろう』を収録したラブソング・ベスト『Stupid & honest』(1999)

『推しの子』コミックス(2020年、集英社、著:赤坂アカ・横槍メンゴ)