曲の名義、発表についての概要など
森田童子のシングル、アルバム『マザー・スカイ-きみは悲しみの青い空をひとりで飛べるか-』(1976)に収録。作詞・作曲:森田童子。
1993年の日本テレビドラマ『高校教師』主題歌。なかなか際どい恋愛を扱った内容のようで面白そうです。https://youtu.be/0lT6YSvoM_Q?t=769 森田童子『僕たちの失敗』のテンポを落としたインストアレンジがドラマ中に使われている様子。
『僕たちの失敗』を含んだオリジナル・アルバムの発売から17年ほどを経てドラマ主題歌に。発売から長い時間を経た曲をドラマに使うことは今ではよくある話ですが、それが現在ほど一般的な手法になる以前の抜擢だったように思えますがどうでしょう。
森田童子『僕たちの失敗』を聴く
ピアノのメロディと伴奏。やや高めのポジショニングで、よりどころのない儚いボーカルのあやうい魅力を際立たせています。左寄りにピアノ。2コーラス目から右にアコースティック・ギターのアルペジオ。間奏で口笛、ストリングスと入ってきて豊かな編成に移ろいます。最後のコーラスで最初のコーラスの歌詞の繰り返し。編成も、ふたたびピアノと歌のみに。それまでになかったコード進行があらわれて、アウトロでピアノが独演し終止。
歌詞の鑑賞
“春のこもれ陽の中で 君のやさしさに うもれていたぼくは 弱虫だったんだヨネ”(『僕たちの失敗』より、作詞・作曲:森田童子)
「やさしさにうもれる」は独創的な表現。なんだかイケナイものに甘えているかのようです。人をダメにする種類のやさしさかもしれません。無償の包容力にかえって自分のダメさが強調されて感じることってありそうです。弱虫の自覚は妥当かもしれませんし、相手の献身がかえって過剰に不当な自覚を与えているのかもしれません。
“だヨネ”という語尾にキャラクターが滲み出ます。「だ」でも「だよ」でも「です」でもなく、“だヨネ”。誰かに向かって嘆くようなつぶやくような。ことばをかけるなんらかの対象が主体には見えているのでしょうか。宙に放り投げているようなニュアンスもあるかもしれません。
“君と話し疲れて いつか 黙りこんだ ストーブ代わりの電熱器 赤く燃えていた”(『僕たちの失敗』より、作詞・作曲:森田童子)
話すこともなくなるくらいに長い時間話したのでしょうか。ストーブは燃焼によって暖をとる器具ですが、電熱器は電気で芯線が発熱して暖をとる器具をいっているのでしょう。どこか心許ない状況を演出します。近づきすぎた部分ばかりがやたら熱く感じるのに、空間を満たす冷え切った空気をちっとも温めてはくれないあの感じ、なんなんでしょうね。ないよりはマシですが。
話すこともなくなり、ついには黙ってしまうほど長時間が経過した。社会が目をさましている時間だったら、もっとほかに何かやることがありそうにも思えます。人目を忍んでいる? 夜を明かしている状況なのかもしれません。
“地下のジャズ喫茶 変われないぼくたちがいた 悪い夢のように 時がなぜてゆく”(『僕たちの失敗』より、作詞・作曲:森田童子)
ジャズ喫茶に足を運ぶ人物たち。ジャズ喫茶に足を運ばない人類はたくさんいるわけですから、このワンセンテンスのみでも相当に人柄が出ます。彼らは、ジャズ喫茶に行くのです。音の出る空間は音を求める人には快適ですが、音を嫌う人には疎ましい。こういう商売はそんなわけで地下でやることが多いのかもしれません。商売する人が望んでそうしているのか、やむなくそうなる場合が多いのか……。
そんなジャズ喫茶で過ごす自分たちを“変われない”と表しています。1度や2度でなく、ある長さを持った期間に繰り返しジャス喫茶に足を運んだのでしょう。そんな人たちは、1度ジャズ喫茶に足を運ぶ人よりも2度ジャズ喫茶に足を運ぶ人よりも稀な存在です。“悪い夢のように”とまで言います。
“時がなぜる”の“なぜる”は「撫でる」の意味のようです。「なでる」を「なぜる」と表現する地域がある様子。「何故て」というふうな問いかけのような響きを持ってもいます。「何故て」では用法がおかしいので言わないかもしれませんが、「時が撫でて」と歌うのとは違った響きが“時がなぜて”にはあります。
“悪い夢のように時がなぜてゆく”とは、変われないぼくたちをここに残して、時だけが僕たちのあたまのうえを撫でる(なぜる)ようにして過ぎて行ってしまうといったニュアンスを感じます。それはまるで“悪夢のよう”だというのならば、一体どれだけそのことを嫌悪しているのでしょうか。本当は変わりたいのかな。
“ぼくがひとりになった 部屋にきみの好きな チャーリー・パーカー 見つけたヨ ぼくを忘れたカナ”(『僕たちの失敗』より、作詞・作曲:森田童子)”
ジャズ喫茶に足を運んだ人がチャーリーパーカーを好きである可能性は、そうでない人よりもずっと高そうです。ぼくがひとりになった部屋にきみの好きなチャーリー・パーカーを見つけることと、「ぼくを忘れること」とのつながりがよくわかりません。好きだったはずのチャーリー・パーカーのレコードか何かを、“きみ”は“ぼく”の部屋に残して行ってしまったのでしょうか。きみと2人でいることをやめて、ぼくがひとりになってだいぶ時間が経ってからぼくの部屋できみの好きだったチャーリー・パーカーが見つかった。今頃きみは元気でいるかな。もうぼくのこと、忘れたカナ、と思い出している……というシーンなのでしょうか。
“だめになったぼくを見て 君もびっくりしただろう あの子はまだ元気かい 昔の話だネ”(『僕たちの失敗』より、作詞・作曲:森田童子)
一体何をもって“だめになった”のでしょう。見てわかるようなかたちの「だめになりかた」ってどんなものでしょうか。心の内側の機微のすべてが見た目に表出するわけではないはずです。荒れた部屋の様子なども含めて“だめになったぼく”と言っているのか。容姿を変えるほどの変化が何かあったのか。詳しいことまではわかりませんが、“君もびっくりしただろう”と言っています。びっくりするほどの変貌ぶりとはいかなるものでしょうか。計り知れない部分がこわくもあります。
“あの子”について元気か尋ねるということは、問いかけを受けた人のほうが“あの子”の近況に明るいようです。一体それぞれ、どんな関係にあったのでしょうか。“あの子”が共通の知り合いであることは間違いなさそうです。複雑な(それでいて単純な?)関係を想像します。
“春のこもれ陽の中で 君のやさしさに うもれていたぼくは 弱虫だったんだヨネ”(『僕たちの失敗』より、作詞・作曲:森田童子)
1コーラス目の歌詞をくりかえします。2〜5コーラス目は、1コーラス目の「弱虫だったぼく」を回顧するに至るまでを描いているようです。
感想
メロディとベースの関係が3度や5度にある瞬間が多く、調和する響きを中心にしています。そのため、音楽から感じる明度は高め。明るく、視覚的に昼間を思わせる曲想なのですが、家の中で何もできずに怠惰に過ごす昼間のような雰囲気が漂っています。午後まで寝坊して、起きたら夕方くらいにジャズ喫茶にノソノソと出ていく。やがて喫茶も閉店して行く場所にあぶれ、どこか電熱器に頼ったひもじい場所で夜を明かす。安眠の時間を確保するでもなくだらだらと夜を明かし朝を迎え、また何もできない怠惰な昼間がやってくるのです。そんな主人公の非生産的な営みを思わせる、脆くあやうい美しさをもった稀有な曲。浮世離れしています。
ドラマのために書かれたのでもなく、発表された時期も曲とドラマとでまるで違うのに、高い相乗効果があったようですね。先に存在した曲があまりにもドラマにピッタリだったから用いたのでしょうか。音楽は媒体違いのクリエイターにもインスピレーションを与えます。どんなものも、お互いそうでしょう。
曲の歌詞は特定の登場人物の立場で縛る表現を含んでいません。人物設定の描き込みは控えて、刹那の情景や思念・感覚で全編を紡いだから実現したロング・スパンの名曲かもしれません。
タイトル『僕たちの失敗』が秀逸です。『僕たちの〇〇』の「〇〇」にポジティブな言葉、あるいはいかにも歌になりそうな言葉を置いた曲の例は多そうです。たとえばなんでしょう、明日、夢、愛、希望……などなど? だからこそ、それを置いてしまうと埋もれてしまう(実例があったら申し訳ありません、特定の曲を指す意図はありません)。僕たちの……(後続するポジティブな単語を想像)……え、「失敗?!」「 何それ、一体どんな曲なんだろう」という引っ掛かりをもたらします。
具体的に、この曲が描くどの部分が「失敗」にあたるのかは抽出がむずかしい。抽出前の全体でそれを描いているからです。失敗を帯(オビ)で描いている、といった感じでしょうか。抽出の結果のキラーワードが「失敗」だった。このアイディアだけでも稀有な曲になる予感。タイトルから書いたのか、あとからつけたのかは知りませんが、結果として貴重な1曲がここに実現しました。
青沼詩郎
チャーリー・パーカーの音楽はこんな感じ。このサウンドで満たされた空間に長居してしまう気持ちがあったとしたら、共感です。
『僕たちの失敗』を収録した森田童子のアルバム『マザー・スカイ-きみは悲しみの青い空をひとりで飛べるか-』(1976)
ご笑覧ください 拙演