ないものを伝えるサービス

ないものは無限にある。ないものを網羅するのは不可能である。たとえば、ここが居酒屋だとしよう。ビールはあるし、日本酒もある。魚介類に力を入れているお店ならきっと島ホッケなんてのもあるし、枝豆も唐揚げもおおかた提供している。そういった品物の提供があるのを、客に的確かつ魅力的に伝えるのはお店にとって有効な努力だろう。

さて、この居酒屋で「置いていないもの」をお客様がやたらと要求してくるといけないから、先回りしてPOPなどでお知らせしておこう。……それにしてもまいったな、うちは居酒屋だから、居酒屋にないものはあれもこれもないぞ。

「JR新幹線・特急のチケットはありません」

「エレクトリックギターの弦はございません」

「自転車のメンテナンス用品はございません」

「月曜始まりの来年度の手帳はございません」

……なんと馬鹿馬鹿しいことか。こんな案内は居酒屋には必要ない。

「ないもの」を親切目的で周知するのは、そこにそれがあると予想する人の存在が予想され、それがないことを予めお知らせしておかないと不親切(サービスが悪い、広報努力を怠っている)と思われるリスクがある場合に有効である。

だから、居酒屋に上記のような表示は必要ない。むしろ表示したことで「はぁ?」「この居酒屋は何を主張しているのだろう」と、見た人が疑念を抱くリスクが生じる。

一方、居酒屋にまずありそうなものは多くの人が「あるだろう」と思っているから、たとえばビールがない居酒屋であれば、「当店にはビールはございません」とかは有効な表示かもしれない。ただ、私はビールのない酒場を実例としてあまり知らないが、ビール以外の特定の種類のお酒に全精力を注いでプライドとともに提供しているような専門店があったらば、ビールがないことも十分ありえるだろう。

したがって、そのお店が見るからに、ビールではない特定の種類のお酒に特化した方針である場合、あえて「ビールはない」なんて告知を打つ必要はない。むしろそんな告知は目の毒、邪魔、景観のネガティヴ・ノイズである。

多様な居酒屋さんのイメージ

ときに、親切心からか(それも、実は本質的な親切にはなっていない)「〇〇はありません」なんて文言を広報物に含めているのを見かけることがあるが、私は「○○はありません」は基本、要らないと思っている。

よっぽどのっぴきならない事情があったとき。いつもこの居酒屋ではビールを出しまくり多くのお客さんに楽しみまくっていただいているが、非常事態がいつ社会的におおきな影響をふるうともわからない昨今の世界情勢だとか、きのうの今日で深刻な流通トラブルが起こるだとかして、これまでビールを出してきたし今後も末永くそうするつもりでいるが、今日の今日だけは特別な事情で切らしてしまったのである…なんて場合に、限定的にしかるべき場所に張り紙をしておく、SNSでつぶやいておく、なんてケースであれば、それは景観を損ねる種類の告知には当てはまらないだろう。

でも、多くの場合はそこまでの必然性を感じない。この世には「その告知いらないよ」と私に思わせる「ないこと」を告げる広報が多すぎる。しばしば「※」なんて記号をつけて、「※〇〇はありません」。トルツメしようぜ、その一行。

井上陽水『クレイジーラブ』発表の概要、作詞・作曲・編曲

井上陽水『クレイジーラブ』Spotifyリンク。

轟く歪んだエレクトリックギターが悶絶のカッコよさ。風通しの良いバンドのオケと、井上陽水の歌唱が距離感気持ちよくハマっている。鈴木茂が編曲者でエレクトリックギターも彼によるもの。作詞・作曲:井上陽水。山口百恵のアルバム『This is my trial』(1980)への提供曲で、井上陽水のシングル、アルバム『EVERY NIGHT』(1980)に収録。

井上陽水『クレイジーラブ』常なるものの超越

夏の終わりの夕暮に

消えそうな空に

夢を私がえがくのは

特に意味がないから

風に追われて

ながされている

もっと このままでいれば クレイジーラブ

(『クレイジーラブ』2番より、作詞・作曲:井上陽水)

歌詞ともなれば、限られたスペース(字脚、小節、意味のカンバス)を活かし、ディティールを豊かにする表現を考え抜くべきだろう。が、そこは自由である。音楽の時空をどう埋めようが空白にしようが、表現者の自由である。あえて「埋めない」のも良い。それをする方法のひとつは、「~ない」と末尾に否定を付すこと。それまでに綴ったことをすべてないがしろにする、おそろしい呪文である。

リンリン ランラン ソーセージ

ハーイハイ ハムじゃない

なんてことは

ぜーんぜん 彼女も言ってない”

(西城秀樹『走れ正直者』より、作詞:さくらももこ)

YouTubeで見つかる西城秀樹『走れ正直者』へのリンク

「ない」で否定し、それまでのラインをおじゃんにする傑作の例である。なにもなくなっちゃった約12小節、返してくれへん……? なんて野暮なことは誰も言わない。束の間の夢をありがとう。

先に引用した井上陽水『クレイジーラブ』の2コーラス目の歌詞は『走れ正直者』のサビと、否定によって覆す痛快さにおいて通ずるものがある。

“夏の終りの夕暮れに 消えそうな空に夢を私がえがく”のは“特に意味がないから”と綴って、“風に追われて ながされている”と連ねる。“夏の終りの夕暮れに 消えそうな空に夢を私がえがく”というのは、感傷的というか、ロマンティストっぽくもあり、どこか湿っぽい。微妙にナルシストっぽい目線が含まれている気もする。憐憫に浸る己を自覚したおかしみがあり、詩性や言葉のセンス、叙情豊かな感性、広い視野があるといえば誉め言葉にもなる。けど、それを主人公がするのは“特に意味がない”と否定する。

思想や感性に霧を吹きかけて潤っている場合じゃない。ただ、環境、気候にも似た、人為の及ぶよりもずっと離れたところで漂うのみである……私は無常観を覚える。井上陽水作品の随所にときおり私が感じる死んだ魚のまなざしである。溌剌としていながら聴く者に対してトリモチのような粘性を発揮する歌声とは対照的に、井上陽水の歌詞の世界はときにドライでがらんどうだ。

“もっと このままでいれば クレイジーラブ”という結びの句のロングパットも傑作である。説明不足と切り捨てる前にリテラシーを培おう。飛躍が良い。何が“もっと このままでいれば クレイジーラブ”なのか?“風に追われて ながされている”方針を貫いていけば至るのだろうか、“クレイジーラブ”に。

Loveはそれ自体偏執的なものである。博愛という言葉もあるから矛盾じゃないかという気もするが博愛は博愛でそれも愛だ。多方面にいろんな形で並行して発露する愛もあるのだ。

愛のなかでもいちだん偏執的なやつがたぶんCrazy Loveなのだ。Loveはフツウじゃない。Crazy Loveはもっとフツウじゃない。エモに浸って詩性を発揮するのも愛の才能だけど、ヒトの情事を死んだ魚のまなざしで刺す無常もまた愛の才能である。ハジけた愛だね。

自嘲の趣

粋で悲しいクレイジーラブ

愛されていても

私 ひとりが幸福を

胸に飾るだけなの

夜にゆられて

さまよう先は

もっと真夜中になれば クレイジーラブ

(『クレイジーラブ』1番より、作詞:井上陽水)

先述の項で話題にした2番以外の歌詞も含めて全体を眺めてみると、“特に意味がないから”と唱え、感性の潤いの裏面を匂わせるような2番にもどこか自嘲の趣が漂って感じられる。

粋であること。粋の観念の中に悲しさを見出すのは、なかなかディグるスキルの高い仕業といえる。音楽おたくのなせる粋なラインである。

幸福は愛した人に訪れるだろうか。愛される人はどうか。血となり肉となる幸福があるとしたら、胸に飾る幸福は、いくぶん質量に乏しく表面的に思える。

幸福にもいろいろあるだろう。ブローチみたいな姿形・機能をした幸福だって私は否定しない。もっと身体に近く深く、血や肉になってしまう幸福は自分と一体化しすぎて自覚しにくそうだ。自覚しやすい幸福こそ喜ばしいものとする感性もあやうい。愛がそうであるのと同じように、幸福もさまざまで幅広い。

未知の変態 クレイジーラブ

星にあやしい クレイジーラブ

愛されていても

月が 私を許すなら

後もどりもしたいわ

きらめく星と

とまどう胸が

もっと こなごなになれば クレイジーラブ

もっと 真夜中になれば クレイジーラブ

(『クレイジーラブ』3番より、作詞:井上陽水)

愛も花鳥風月のようなものかもしれない。花鳥風月は自然そのもの、あるいはそれを愛でる趣味・価値観・志向のようなものだと漠然と思っていたけれど、ヒトの趣味のうつろいを表す言葉でもあるのだと私は望月ミネタロウのエッセイ漫画を読んで認識をあらためた。

自然物そのものにしても、ヒトの感性の流動にしても、愛の変容と重なるところがある。向かう先は移ろい、だんだんと博く、距離も遠く、しかし対象の規模は大きなものになっていくのか。

おのれの身の処し方について月の許可が要る“私”は、月に属しているのだろうか。空に浮かぶ地球の衛星も「月」だけど、運の向きや勢いをいう「ツキ」もある。自然物の潮流のなかで漂うように生きる時、主人公の回顧(“後もどり”)はツキ(月)の許可制なのかもしれない。

きらめく星と とまどう胸が もっと こなごなになれば クレイジーラブ(『クレイジーラブ』3番より、作詞:井上陽水)

今の体裁が窮屈に感じるとき、打開は粉砕である。割れたお茶碗が戻らないように、砕いたものはそれっきりだ。破片はかつて茶碗だったモノであり、物質は何も移動していないが、割れた茶碗の総量はまとまり方が変わる。

かたくなに茶碗の形を保ったものも、こなごなにすれば練り直せるだろうか。やっぱり後戻りはできないのだ、月の許可制うんぬんの前に。

目の前にないもの、今の己とちがうものを想像するのは知性である。想像に近づく術は、現状の粉砕である。創作の“創”には、傷をつけるとか、壊すといった意味がそもそもあるとかないとか。未来は創るものであり、未知のひとつはラブに至る。

後記 映画『かもめ食堂』とクレイジーラブの煌めき

映画『かもめ食堂』(公開:2006年)のエンディングテーマが井上陽水『クレイジーラブ』である。『かもめ食堂』の主人公のサチエは、創造的であると同時に建設的だ。サチエ自身が、フィンランドのヘルシンキに投げ込まれた石のような存在でもあるけれど、そこでサチエは食堂を構え、「待ち」の姿勢を基礎に、平常な心と体でじわじわと恩みの循環を大きくしていく。現地の人も、サチエ自身と同じように外から舞い込んだ異分子たるミドリとマサコもみんな巻き込んで、オーブンで熱と香気が高まるみたいに食堂をステキな港に育ててみせる。多様な事情のさなかにある多様な小舟が、束の間の停泊をして生き生きと去っていく。

自分のスキルも料理のレシピ(日本のソウルフード・オニギリ、現地のソウルフード・シナモンロール、訳アリ男のまじないコーヒーなど)も、現地の最新の環境の中で一度こなごなにして混ぜ、そこで新しく練り上げる。

時の流動、希望と想像の狭間を漂い、能動で泳ぎ渡って至る“クレイジーラブ”が『かもめ食堂』の主題に応えてみせる。“誰だ 誰だ 誰だ”“地球はひとつ”と唱える『ガッチャマンの歌』とともに、映画を彩り、奥行きと幅を演出する煌めきだ。

子門真人『ガッチャマンの歌』Spotifyリンク

山口百恵『Crazy Love』(『This is my trial』収録)リスニング・メモ

山口百恵『Crazy Love』Spotifyリンク

しっとりと歌い、歌詞“もっと”“こなごなになれば”などの部分の音程のうつろわせかたがため息をつくように気怠い。妖しい・危うい色めきが映る特徴ある歌唱は山口百恵の個性に数えて良さそう。ちょっとつまらなさげというか、永遠に不満の残る感じ。周囲と己の潰えることなき摩擦、個人を所定のポジションに納めるべくうごめく社会の流れに抗うも、時折嘆きたくなる冗長感、諦観、目の前で現れては消える悲喜こもごもの輪廻。吐息とも嬌声とも処しかねる山口百恵の歌唱は今後も語り種だ。

井上陽水版と比べると歌手とバンドのバッキングの主従関係が明確で、各パートの扱い、比重やバランスも当然のことながら異質。バックグラウンドボーカル、サックスや金管楽器と大所帯の影が映り、夜の有象無象のきらめきを照り返すようなサクソフォン、刹那のエレキギターのチョーク・アップが山口百恵の歌声にドレスを着せ、中央でピン・スポットを浴びせる。編曲は久保田早紀『異邦人』が私の記憶に永遠に残る萩田光雄

久保田早紀『異邦人』へのSpotifyリンク

音楽脚本『クレイジーラブ』からこうも違った世界が抽出される。愛の航路も舳先もさまざまだ。異端の幅は、クレイジー。

青沼詩郎

井上陽水 公式サイトへのリンク

映画『かもめ食堂』 Wikipediaサイトへのリンク

『クレイジーラブ』を収録した井上陽水のアルバム『EVERY NIGHT』(1980)

『Crazy Love』を収録した山口百恵のアルバム『This is my trial』(1980)

映画『かもめ食堂』(公開年:2006)

望月ミネタロウ『没有漫画 没有人生(1)』(小学館・ビッグコミックススペシャル、2023年)。花鳥風月についてのくだりがある。表現者の頭の中と生活者としてのありていな様子が描かれている。娯楽や視聴覚に食傷気味になったときでもそうでなくとも、ふと読むのにおすすめする。ありふれた日々の暮らしから生まれる“クレイジーラブ”の副読本、と無理矢理こじつけさせていただく。

ご笑覧ください 拙演(YouTubeへのリンクShiro Aonuma @bandshijin『クレイジーラブ(井上陽水の曲)ギター弾き語りとハーモニカ』)