春はいつ
松任谷由実さんの傑作『春よ、来い』はなんとなく「いまが春」のときに思い出したり聴きたくなったりする歌のように思うのですが、あらためて歌詞をながめてみると、まだどこかでうずくまっている春、記憶のなかにある美しかった春、これからやってくるべき春を思わせます。
つまり、「いま春まっしぐら」の歌というよりは、それを待ち望んだり、心のなかで愛(め)で、わびしく恋しく思ったりする、実際の春とはいくらか距離のある歌に思えるのがなんとも風情のある傑作なのです。
ところで、年賀はがきに「賀春」と書いたり、メディアや広告界隈が世に打ち出す、年が明けたばかりの時期の特別企画などには「新春●●」などと銘打たれるなどしがちです。
春ってソメイヨシノが咲くなどする時期を思うのがいち東京都民の私の観念なのですが、正月とかそのあたりも春と呼ぶ向きがある。秋から本格的にしんどい寒さがやってきて年明けを迎えた頃から、ずっと先のソメイヨシノの花が散って若葉がモリモリ茂ってくる頃くらいまで、もう全部春なのじゃないかと思えます。
春は前段にも述べましたが、心のなかにある美しい記憶のようなものを指す向きもあります。恋愛の成就を春と呼ぶなどしますね。今目の前に来ていたり、胸のなかにずっとしまってあったり春はいろいろです。
春よ、来い 松任谷由実 曲の名義
作詞・作曲:松任谷由実。松任谷由実のシングル、アルバム『THE DANCING SUN』(1994)に収録。
松任谷由実 春よ、来いを聴く
ピアノリフの恒常な16分割のリズム。こんこんと降り注ぐような華のある右手で演奏する音域は根音に対してシックスの音程を用いるなど翳り・くすみやわびさびに満ちた響きを呈します。16分割の単位で移勢の効いた、リズム性も高いピアノリフです。左手で演奏するあたりの音域は8分割。
ピアノだけでもリズムとハーモニーがじゅうぶんに出ています。ドラムスやベースがズガンと鉄路を敷き、アクセントを爆発させて屋台骨をつくるような音楽も世にはありますが、『春よ、来い』のように記憶のなかの時間が悠久に続いているみたいな曲想にはこのピアノリフが不可欠だったのかもしれません。ドラムスやベースのほうが、音楽を豊かに色付ける役割にまわっているような印象をうけます。この点について独創性がまず高いです。
シェーカーは名脇役大賞をあげたいですね。右のほうにずっと張り付いて、長い時間にわたって粛々と鳴りつづけています。このシェーカーの音がふと止むと、心の中に束縛して留め置いた記憶の手綱をふわっと放ってあげるような儚さが漂います。トライアングルやベルもチンと鳴るなど打楽器小物で彩(いろどり)を出します。
中間部、2分20秒頃の“夢よ 浅き夢よ”あたりの残響、こだまの漂い方が美しい。本体のユーミンの歌唱の輪郭を濁すことなく、ふわっと私の脳がブレたのかと思わせるような刹那の残像をみせるディレイ感が美麗きわまります。
ユーミンの歌唱はときおり、「ノンビブラート」と形容されることがあるようです。『春よ、来い』の歌唱は、持ち前の芯のまっすぐさはもちろん保ったままに、ここちよい揺らぎがあらわれているようにも思えます。これを「ビブラート」といっていいのかわかりません。まっすぐの線に、均整のとれた美しい波線が絡むような、やわらかくも神々しい歌唱です。バッキングのボーカルトラックのハーモニーがまっすぐで敬虔な響きを描きこみ、寺社仏閣か世界遺産かわかりませんが壁面に歴史画がならんだ天井の高い空間にぽつりと封じられてしまったような感覚がするほどです。
カンと鳴る印象的な太鼓の音はなんでしょう。ボンゴの音色にも似ていますが、和物の「つづみ」の類なのかなんなのか。これみよがしに和楽器をフィーチャーしているわけでもないのに、これほどに和や風流、わびさびを感じさせる音、メロディ、言葉の感性。傑作ばかりで傑作の定義が崩壊してしまいそうな松任谷由実さんですが、ソングライティング面でも録音作品の面でも傑出したひとつに数えます。
あらあらしく、人間のブレや揺れを生かした音楽の録音作品も私は大好きですが、『春よ、来い』はそうした人間の意図しないブレや揺らぎをとりのぞいて、肉体が朽ちても歴史の潮流の頭ひとつ上を流れる尊い思念だけを抽出したような洗練された美しさを感じます(私に最も足りないものよ……)。
やっぱり、「距離のある春」を歌っている気がする所以かもしれません。永遠に思えて儚いです。
青沼詩郎
Yumi Matsutoya Official Site 松任谷由実 オフィシャルサイトへのリンク
『春よ、来い』を収録した松任谷由実のアルバム『THE DANCING SUN』(1994)
ご寛容ください 拙演(YouTubeへのリンクShiro Aonuma @bandshijin『春よ、来い(松任谷由実の曲)ギター弾き語り』)