透き通る歌が危うく儚いです。不安定だとかそういう批評ではなく、彼の心のまま、そのままが顕現したようなセンシティブな歌に私はまったく入っていけない。理解できないとか良さがわからないの意味ではなく、心を揺さぶりすぎて畏れ多いという意味です。
甚大な数のファンを魅了したでしょう。たくさんの人に愛され、大事にされ続けている歌で、最も知名度のある素晴らしい楽曲のひとつです。
サビ前の“Woo woo woo”……。サビの“悲しい歌に”……の歌唱。ファルセットというのか、その種の境界を要するわけでもない。「これはこういう歌唱法です」なんて分析が馬鹿げて思えます。どこまでも、尾崎豊さんそれそのものを感じるのです。私がこの楽曲を歌おうものなら、ただの真似事未満。私が稚拙で未熟なだけだと一言、片付けてしまえればそれは楽です。尾崎豊さんの歌は、どこまでも尾崎豊さんの歌なのです。楽曲の存在を含め。
『I LOVE YOU』の楽曲の高い独創性についていうなら、たとえば最近私が鑑賞した楽曲でいうに長渕剛さんの『乾杯』であったり……多くの人に愛され、大衆の唇から唇へと渡る存在であると同時に、どこまでも、彼(長渕さん)自身による、彼が誰かのために歌う絶対領域の歌なのです。私の狭い知見でいえば、たとえば小山田壮平さんや、長澤知之さんといった稀有なシンガー/ソングライターにもこうした圧倒的な近寄りがたさ(遠さ、高さ、儚さ)を感じます。もちろん、こうして列挙するのが愚行に思えるほどに、それぞれに違って多様な方々なのは大前提に。
尾崎豊さんの『I LOVE YOU』の話に戻ります。空間を広げ、抜けていく残響。彼の歌が真ん中にあり、主役であることを確かにしたうえで、空気との接着感・浮遊感の塩梅が心地よいサウンド。
ポルタメントする音は、コーラスのようなモジュールだか残響系のエフェクトをかけたエレキギターをボトルネック奏法などして収録したものなのでしょうか。キーボードなどをトーンベンドして演奏したものでないか……キーボードはキーボードで入っていますからやはりギターでしょう。鳥山雄司さんの演奏でしょうか。
楽曲の印象として甚大な存在のピアノは尾崎さん自身のものでなく、西本明さんの演奏とのこと。
Wikipediaにみる、西本さんが仕事を共にした名前の一覧をみるだけでもめまいがします。ここでいいたい(こうした周辺情報をまじえていいたい)のは、尾崎さんの、尾崎さんのまんまの歌(どこまでも高純度な歌)を、あくまでサウンドとして一級の仕事人との協働によってパッケージし届けてくれた商業音楽界よありがとう(業界のイもロもハも知らない門外漢の私ですが)ということです。尾崎さんという稀有で唯一無二の資源がそれとして存在するだけでは、現在のようなかたち、これから先のかたちで『I LOVE YOU』が知的財産として出回ることはないのだ、という当たり前のこと。
個人の心のかたちはそれぞれで、ぎすぎすしたりどろどろに溶けていて指と指のすきまから流れ落ちてしまったり、そうやすやす他人のあいだで共有して取り扱えるようなものではありません。音楽(楽曲)は、そのある突出したところを中心に掬い取って、かろうじて扱える「形のない形」にできる一縷の望みです。
尾崎豊さんの楽曲、たとえば『I LOVE YOU』の前では、日がな私が音楽の細部に注目して心を躍らせて一喜しているのがちっぽけに思えます。そう言いながら、明日も私はここに帰ってくるのですけれど。
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後記
“それからまた二人は目を閉じるよ 悲しい歌に愛がしらけてしまわぬ様に”
(『I LOVE YOU』より、作詞:尾崎豊)
音楽は雄弁です。その歌詞が訴えるセンシティブな内容に、その場にいる人間は影響を受けてしまいます。たとえばスピーカーを通して音源が再生されている、という程度の場への干渉であっても、そこにいる人間の感情や思考を強く揺さぶるものです。
同時に、いつしか場や環境のテクスチャーに対して鈍感になってしまう私の粗雑さを思います。それを老いというのか、成長というのか。
子供だった私は、ヘンなテレビ番組が、夕食どきの家庭のリビングをしらけさせたり凍り付かせたりするのを感じていました。その場にいた親のほうは、案外平気でいた。でも、私の心はヒヤヒヤしていたのです。
「悲しい歌」が届くあなたの心は、青くて美しい。
青沼詩郎
参考Wikipedia>I LOVE YOU (尾崎豊の曲)
『I LOVE YOU』を収録した尾崎豊のアルバム『十七歳の地図』(1983)
ご寛容ください 拙演(YouTubeへのリンクShiro Aonuma @bandshijin『I LOVE YOU(尾崎豊の曲)ギター弾き語りとハーモニカ』)