ライブ映像

キレッキレのエレキギター・カッティング。アップストロークがいいですね。華やかなブラスセクション。ステージに低い姿勢ではいつくばるような忌野清志郎のパフォーマンス。キランキランとキーボードがコードのダウンスウィープ。サビで仲井戸麗市のコーラス・ボーカル。そしてギターソロ。右手でピックと中指〜小指をあやつります。非常に緻密でリズムカルです。歪みとコーラスの両方効いたエフェクテッドなサウンドは時代を思わせると同時にRCのアイデンティティの一部にも思えます。ギターソロはそのままサックスにタッチ。まっすぐな楽器です。ソプラノ・サックスでしょうか。からだをゆらし、前後させながらはなやかに奏でます。派手な間奏を明けるキメはユニゾン。

2コーラス目の入りはオトします。ドラムスはリムショット。ゆうれいみたいにポルタメントする音が絡みます。スライド・ギターもこの編成にいましたか? シンセのポルタメントかな? 忌野清志郎を下から見上げるカメラアングル。彼のTシャツの柄は、大写しに寄りまくったマリリン・モンローでしょうか。エンディングの「わかっていてくれる」は忌野清志郎と仲井戸麗市のかけあいです。発表音源ではフェードアウトしますがライブではⅡm→Ⅴ→Ⅳでキメてフィニッシュ。お茶目にあげた右足を右手で持って離す忌野清志郎の挙動。

動画概要欄に「1987.06.04」とありますね。

牧場でセッション

この動画が素敵で何度も見ました。のっぱらでギターを弾き歌うふたり。チョウが横切るのが見えた気が。オープンエアーにしては忌野清志郎の歌声が非常に明瞭です。ショート・ディレイがかかっているみたい。忌野清志郎のロングヘアが帽子のしたで揺れます。自毛? サビで仲井戸麗市と歌でもかけあいます。ギターソロは非常に達者で高度なカントリーのようなフレージングも感じます。画面におしりをむけて、チャボ(仲井戸麗市)のほうへ向いて歌う忌野清志郎、ふたりの姿。白樺から垂れ下がった枝葉が風にゆらめきます。遠くに淡い緑の地平線。切り株を加工したようないすに座っておおらかなストロークをみせる仲井戸麗市。エンディングでジャー……ジャカジャカジャッ! とキメて感慨のこもった忌野清志郎の「Yeah…」。ふたりの姿やミュージシャンシップは本当にこの世で最ものぞましい人間の姿に思えます。

動画概要欄に「1994年」「北海道」「とある牧場」とありますね。これ、確か同じ機会に収録したであろう生演奏動画がYouTube上にいくつもあって、それらの動画や概要欄のヒントによると「テレビ愛知」というテロップがあったような。収録場所は北海道・旭川のようです。

曲について

作詞・作曲:忌野清志郎。RCサクセションのシングル『雨あがりの夜空に』カップリング(1980)。シングル曲やB面曲のセレクション『EPLP』(1981)、ほかベストにも収録。

RCサクセション『君が僕を知ってる』を聴く

左右からアコギがきこえます。やや右奥にドライなエレキのカッティング。フアーっとオルガン。カンカンとティンバレスのような打楽器。右にはラテンパーカス。ボンゴかな? アゴゴの音もきこえます。「カカンココ……」あるいはチンチンと金属質な音を発する打楽器小物です。小物類や打楽器が豊かで楽しく開放的な雰囲気をつくっています。エレキは左奥にもいました。左のほうがクリーンで右のほうが歪んでいる感じですね。サビで右と左両方からバックグラウンドボーカルがきこえます。個人を識別できそうなはっきりとした定位とい音像をもったバックグラウンドボーカルです。サビを出るときのアコギのリフにこれでもかと潤いの残響がかかっており印象的。左右にダブってあるアコギのギターソロ。奥のほうからテルミンのようなギターのバイオリン奏法のようなポルタメント音がします。

間奏が済むと忌野清志郎のボーカルもとても繊細になります。愛をもって「コーヒーをぼくにいれておくれよ」。右のほうから、低い音域でもまるでチェロのようなトーンで音の立ち上がりのダイナミクスを変化させる合いの手がきこえるのはなんのパートでしょう。エレキギターのバイオリン奏法なのか? サビに入る前から「きみがぼくをしってる」を左右からバックグラウンド・ボーカルが歌います。サビでもまんなか、左右それぞれからボーカル。忌野清志郎をフォローする「わかっていてくれる」のフレーズ。忌野清志郎は喉をカパカパならすみたいな、しぼりだすようなトーンで歌います。この音域、メチャクチャ高いんですよね。

歌詞

「悪い事」とは何か

“今までして来た悪い事だけで 僕が明日 有名になっても どうって事ないぜ まるで気にしない 君が僕を知ってる”(RCサクセション『君が僕を知ってる』より、作詞:忌野清志郎)

誰しも、人の目のないところで小さな悪いことをしていると思いませんか。いえ、あなたは違うかもしれない。いつでも規範的で正しく生きているかもしれない。けれど私は違います。人の目のないところで、なんにも誰かの迷惑にはならなそうなところでだったら、小さなずるとか、小さなラクとか、小さな利己的なおこないをひっきりなしに起こしています。あるいはそれは「風が吹けば桶屋が儲かる」ふうに巡り巡って、どこかのだれかを著しくおとしめているかもしれない。生きることは搾取です。多かれ少なかれ、誰かが生きられたかもしれない資源をもらうことでのみ私は生きることができるのです。

それを「悪い事」とはいえないかもしれない。ここでは「悪い事」と歌詞で言い表していることを、「善い行い」と読み換えても面白いかもしれません。

「悪い事」と、つぐなうべきこと

世間から見て、悪い事をした結果、有名になってしまった。そんな友達がいたとします。

私がその人のことをほんとうに友達だと思っていたとしたら、その、有名になるきっかけとなった「悪い事」の有無で、私は友達をやめはしません。

「そういう事をした(らしい)」という一面がその人にあるというだけです。表には露わにしきれないほどに、誰しもが「面」を持っている。だから、「悪い事」ひとつがその人の全否定になりうるはずもないのです。

もちろん、どんな「悪い事」かにもよるというのは鑑みるところ。

私は美談を言っているとあなたは思うでしょうか。「そんなこと言っておいて、友達が、ちょっとありえないくらいの残忍な大犯罪しちゃったら、あなただって友達ヤメるでしょ?」そうあなたは思うかもしれません。

それは、どういう残忍な大犯罪かにもよりますが、確かにきっと残念です。被害にあったのが私の親しい人だったら? それは憎悪になるかもしれません。でも、たとえば、私や私の家族を手にかける人をそもそも私は友達とは思わない可能性があります。つまり、私が「友達だ」と思っている人は、絶対にそんなことしない。そんなことしなそうな人だからこそ、友達になれるのです。屁理屈でしょうか。

「お前だったら、悪い事しちゃうかもね。でも、そんなところも含めてお前のこと友達だと思ってるよ」と言えるような人を、私は友達だと考えます。ここでいう「悪い事」って、そんなに「悪い事」じゃないのです。少なくとも、誰か(ときに私の親しい人)の命を故意におびやかすようなことは、「悪い事」のうちに入らない。もっと別の何か……許すことのできない「罪」のようなもの。真につぐなうべきことは、「悪い事」の外側にある。

どこでもまかりとおる価値観はない

忌野清志郎も、おそらく、『君が僕を知ってる』で歌っている「悪い事」って、「ちょっとマユをひそめちゃうような人も世間にはいるかもしれないけれど、だからって何?」くらいのことを想像して歌っているんじゃないかな。勝手に私はそう思っています。『「だからって何?」程度の悪い事って、いったいどんな事よ?』とあなたは思うでしょうか。それは具体的には断じがたいし、任意に想像してほしいところですけれど……

たとえば、法律だってなんだって、どんな場合においてもいつでも最新の事情に最もふさわしく、人間のために理想的に機能する形になっているか? と言われれば、そうではありません。前から今も続く「ある規範」や「あるルール」にしたって、それって、古今東西いつでもどこでもどんな状況でも適切なのかと言われたら否です。

極端な話、無駄死にすることが尊ばれた価値観だって、歴史上、戦時下にあったはず。それは局所的で極端。現在は存在しない価値観だとはいえませんが、どこでもまかりとおる価値観ではないというのはご理解いただけると思います。否定する誰かがいるのは、あたりまえ。

「君」と「僕」

話が『君が僕を知ってる』の歌詞からそれましたが、ここで歌われる「君」「僕」の関係を説くうえで関係があると思ったからあえてしました。

忌野清志郎と仲井戸麗市の仲には、ここで歌われる「君」「僕」にあてはまるものがありそうに思います。

あえて的を絞って言います。これを読んでいるあなたがミュージシャンで、大好きなミュージシャンの友達、いませんか?(あるいは直接の友達でなくてもかまいません。) その人が、とるに足らない個人的なことを週刊雑誌だかネットメディアで騒ぎたてられて、社会で「悪い人」風に仕立てられた、なんてことありませんか? 「とるに足らない個人的なこと」で済ませるには複雑な事情があるかもしれませんが、とにかく、世間がなんと騒ごうと、自分はその「ミュージシャン」のことが好きだし、「友達」だと思っている(実際に友達)、もしくは「友達のように支持している」ことには変わりがない。そんな経験、ありませんか。なくてもかまいません。なんとなく、私の言っていること、わかっていただけますか。これはたとえ話です。

『君が僕を知ってる』から、私はそういう人間関係を頭の中に展開するのです。

「友達かどうか」に規範は及ばない

誰かと誰かの仲は不変なのです。私が私であることと、あなたがあなたであることには、どんな時にも、変わりがない。私とあなたが、仮に友達であったとしたら、私とあなたが友達であることには変わりがないのです。

もし、「友達だと思ってたのに見損なった。もう絶交だ」という経験があなたにあったのならば、その経験は、あなたに「友達とは何か」を考えるきっかけを与えたのではないでしょうか(偉そうにすみません)。

楽曲『君が僕を知っている』の具体的なアイデンティティを置き去りにしてこんな話ばかりをするのは、それだけ、この曲が純朴で普遍的なテーマを有し、リスナーに思考を与え、豊かにする規範だということです。

そう、規範を否定するための規範。私には、この曲がそんな宝石に思えてなりません。

光をどんなふうに当てるかで、あなただけの見え方で輝くのではないでしょうか。

青沼詩郎

RCサクセション(ユニバーサル・ミュージック)

忌野清志郎 公式サイト 地味変

『君が僕を知ってる』を収録したRCサクセションの『EPLP』(1981)

『君が僕を知ってる』を収録したRCサクセションの45周年記念ベスト『KING OF BEST』(2015)

ご笑覧ください 拙演