君がよければ かぐや姫 曲の名義、発表の概要
作詞・作曲:山田つぐと。かぐや姫のアルバム『三階建の詩』(1974)収録。
かぐや姫 君がよければを聴く
日記のような曲……と言いかけて訂正、ちがいますね、これはまるで手紙のような曲。主人公のとりとめのない日常、近況、身のまわりの平和な様子が綴られているので日記と思わずこぼしてしまいましたが、君へそんな平和な日常を伝えて、そして「おいでよ」の意思を伝える楽曲です。
その思いは至って純粋で平和なもので、私にとって聴き心地のよい言葉であり、主人公の人柄を感じ、頼もしく温かく思えます。
主人公や君の人生には、この楽曲が描くほど平和でない、数多の波乱があったかもしれません。そういうものを乗り越えた事後談に思えるのです。あるいは波乱を乗り越えてしばらくした後、この平和な土地と日常を始まりとする「これから」の物語なのかもしれません。
今でこそ、仔猫が生まれたというのが専らの大ニュース、一大事といえる平和な日常なわけですが……これから何が起こるともわかりません。飼ったことがないので想像でしかありませんが、3匹の仔猫の世話がこれまでの日常のルーティンにそっくりそのまま足し算される労力はひょっとしたら計り知れない大きさであり、それこそ一大事といって相違ないのかもしれません。これは忙しくなるぞ、と。
左サイドにストラミングのアコースティックギター。対になるのは右サイドに振られたハイハット。明瞭なサウンドです。右サイドにはボンゴ(コンガかも?)も振られています。オルガンもやや右寄りの比重です。エレキギターは中央やや奥あたりからのバランス感で、バックグラウンドボーカルが両サイドに広がる印象です。ベースとドラム(スネアとキック)、メインボーカルが真ん中。パート数でいえば右に多く固まっている印象ですがベースとドラムの重心が真ん中なせいか全体のバランスは良好です。ストラミングのアコギはレンジが比較的広いですし、弾き語りで完結できる楽器でもあるので左がアコギだけでも申し分ないバランスが「むしろ」成立しうるのかと思うと音楽を作る身としては大変学びになります。
あんずのジャムが語彙として登場しますが、6〜7月頃はあんずの収穫期だといいます。ひょっとして、私がこのブログ記事を今書いている(2024年7月上旬)時期に、主人公が君に宛てて認めた手紙なのかもなと思うと時候に合ったわびさび、風流さを覚えます。あんずジャムの甘味と酸味を想像するとジトっとした暑さを束の間忘れることができます。「君」はいい友達を持ったものです。
大変な時期を一緒に乗り越えた「戦友」「盟友」のような関係を私は想像するのです。本文の平和さが、そうした大変だった頃をかえって私に暗示するのです。こんな「平和」ですべてが満たされているわけがないのだと……「凪」の前後にはやはり何かあったのだろうと。
私がひねくれているのではありません。何かを描けば、描かれていない部分に想像が及ぶものです。
君の得意な 話をきく季節がくる 毎年1度だけ ひどく気どってさ
『君がよければ』より、作詞:山田つぐと
「君は相変わらず忙しい日々を送っている」ように思えるのですがどうでしょう。君は都市で暮らしていて、主人公は地方で暮らしている設定を思わせます。
「ひどく気どってさ」と淡白に置いているだけなのですが、私の邪推を誘うのは「また今年も君と会って話せば、都市暮らし自慢が始まるぞ」「はいはい、知ってますよ、君は忙しく毎日活躍しているね」という、「辟易」は完全に言い過ぎなのですが、ある種の「おきまり」になっている二人の関係を思わせるのです。
しかしそれを決定的に疎ましがるとかではありません。というか歓迎しているし、二人の関係を今年も、なんならこれからも末長く続けて行こうという友愛を思わせる日記のような手紙の体をした歌詞が素敵なのです。
こうした平和な主旨の本文なのに対して、楽曲のイントロはマイナーコードとエッジのあるリズムになっていて挑戦的・好戦的な雰囲気を感じるのがおかしみです。やっぱり、主人公と君はある時期を共に戦ったり過ごしたりした仲であるのを暗示するデザインの楽曲に思えてしまうのです。
杏子のジャムの甘味が、そうした動乱を越えた末の「結実」なのだと思わせます。
僕も君も、私もあなたも、このために日々を闘ってきている気さえするのです。
青沼詩郎
『君がよければ』を収録したかぐや姫のアルバム『三階建の詩』(1974)
ご寛容ください 拙演(YouTubeへのリンクShiro Aonuma @bandshijin『君がよければ(かぐや姫の曲)ウクレレ弾き語りとハーモニカ』)