『北風小僧の寒太郎』は私の心にずっとありました。
2020年7月中旬から私は毎日1曲、他人の作った歌を自分で演奏・歌唱して学ぶという活動をしています。始めたばかりのときから『北風小僧の寒太郎』を思うことがあったのですが、その頃は夏でしたから季節が合いませんでした。
作品に描かれた季節と現実の季節のズレはさほど気にするほどのこともないのかもしれませんが、なんとなく「待つ」気持ちになりました。
当初は季節がめぐるまで、その活動を続ける見通しもありませんでしたが、暑かった夏はいつのまにか枯葉の季節に変わり…「寒太郎」の季節がやってきたのです。
オープニングの轟く口笛。伴奏もなく寒々しい感じが出ています。ハーモニカがそれを追います。ふたつのキャラクターはなんの象徴でしょうか。北風と寒太郎、ふたつはイコール? それとも微妙に違う存在なのか? バンジョーの音が外国のフォークやカントリーの音楽を思わせます。ポコポコと純な丸っこい音のシンセ? エレクトリック・ピアノの和音のトーンが愛らしさを醸しています。
2番には子どもの合唱。寒さに負けない、たくましい歌。堺正章の合いの手「寒太郎」。堺正章の声、子どもたちの合唱、ハーモニカ、口笛。中心的な音のキャラクターが気になります。北風そのもの。寒太郎という架空のキャラクター。物語の町には子どもも、そして大人もいるはず。
堺正章の声はストーリー・テラー。俳優でもある彼が現実と物語の世界を引き合わせ、境目をカクテルします。
「ござんす」という語尾は、現実ではそう使いません(使います??)。使うとしたら、わざとそういうキャクターを演じるときでしょうか。あるいは、注意を引くための引っかかりを意図的につくるためでしたら使うかもしれません。
「寒いですね」と言われるよりも、「寒うござんす」と言われたほうがより寒い気がします。物心ついてからどこかしらのタイミングで幾度も触れ、気付いたら心の中にこの曲の居場所が築かれていた私の偏見でしょうか。「ござんす」=『北風小僧の寒太郎』…とまで言えるかわかりませんが、そんな気にさせる時点でこの「ござんす」の仕掛けは大成功していると思います。
“ヒュルル”…のところで、曲中の歌メロでいちばん高い音程が出てきます。ファの音です。このアレンジではFメージャー調ですので、主音。一番大事な音ですね。サビ…というか曲の盛り上がりの部分で、北風や寒太郎を思わせる擬音語の歌詞、そして主役の音「ファ」が出てくる。巧いなと思います。やはり、この曲の主役は町の子どもたちではなく北風、あるいはその象徴の架空のキャラクター「寒太郎」なのですね。
ペンタトニック・スケールと擬音語、主音の最高音、ヒラ歌から順次進行で低音が上行して導かれたサブドミナント・コードが相まってエモが決まっています。
この曲は子どもの演歌というコンセプトで生まれたといいます。エモは現代の演歌かもしれません。
【原曲についてのメモ】
1972年作曲。『おかあさんといっしょ』番組内で田中星児が歌い、1974年に『みんなのうた』放送版を堺正章が歌った。 作詞:井出隆夫 作曲:福田和禾子。
青沼詩郎
堺正章が歌った『北風小僧の寒太郎』を収録したアルバム『NHK みんなのうた 50 アニバーサリー・ベスト ~おしりかじり虫~』(2011)
『「童謡の法則」から学ぶ作詞・作曲テクニック』(著:野口義修)『北風小僧の寒太郎』が生まれるいきさつが仔細にわかる、作詞・作曲を志す人にも鑑賞が好きな人にもおすすめの童謡解説&テクニック集です。
ご笑覧ください 拙カバー
青沼詩郎Facebookより
“堺正章のイメージでしたが、彼よりも先に田中星児が歌っていたのですね。「寒いですね」と言われるより「寒うござんす」と言われたほうが猛烈に寒い気がするのはもはや私が先入観を持ってしまっているせいか? 「一番自分の素のことば」を使うとより本気度が増して響くということでしょうか。現実で「ござんす」をつかうのが一番その人の素だ、なんてのはなかなか考えにくい。ふざけているように響いてしまうかもしれませんが、この曲では子供の演歌というコンセプトもあってか私の情緒を揺さぶるのに大成功しています。つめたい風が吹きすさぶ擬音語がエモい。そう、エモは現代の演歌なのか…?”