まえがき 今日と夢の話

want to do

明日があるさ 明日がある 若い僕には夢がある いつかきっと いつかきっと わかってくれるだろ 明日がある 明日がある 明日があるさ(坂本九『明日があるさ』より、作詞:青島幸男、作曲:中村八大)

『明日があるさ』はパッと見、恋の歌だ。想いが通じる日を望むが、今すぐにはそうならない日がある。恋は育てるものだ。でも、恋は一瞬だ。恋には裏表がある。もっと多面体かもしれない。どこが面かもわからない、球かもしれない。たぶんそうだ。

今日できないことは、明日に託す。どんなに今日を精一杯生きても、やれることには限りがある。

頭の中の想像に体がついていかない(スピードが追い付かないという意味)。体の動きは、激しい点滅のように進行するイマジネーションにいつも遅れる。一瞬で想像できることを実現するのが大変なのだ。

あれもしたい、これもやらなきゃ。いいことを思いついた、これをすれば少しは私の人生も変わるかもしれない、やりたいことがはかどるかもしれない。今思いついたこともこれまでのto doに加えて、みんなこなしていこう……。

雪玉が斜面を転がるように、私のwant to doは増えていく。実際の雪玉がそんなにきれいに大きくなっていくものか知らないけれど。

一所懸命に今日を生きて、できる限りのことをしていると胸を張って言える人でも、どうしても明日に託すものがあるだろう。今日というポーター:荷物持ちの腕だって、私と同じように二本しかないのだ。抱えきれない物がある。二本すらないのじゃないかと思えることもある。実際、その通りの場合もあるだろう。

今日で、やりたいこともやれることももう尽きた。もう死んでもかまわない。そういう人だっているかもしれない。やりたいことも、やれる限りのことも尽くさずに、急に猛烈につまらなくなって絶望した気持ちになることもある。相反する自分の共存。私の心の表裏。

険しい雪玉転がし

想像と夢は似ている。眠っているときに見る夢でなくて、将来の希望とかそういった意味での夢だ。想像の中に夢は含まれる。拒否・拒絶したい光景もあるだろう。そういうのを悪い夢というのか。最高・最悪、どちらの場面も想像がフォローする。避けたい未来から極力遠ざかるように現実に手を施すこともある。

未来は今日の更新の結果である。毎日、自分の現実に手を加えていく。その成層・蓄積が未来の正体。それって「過去」じゃないか? そう、未来と過去は似ている。

未来を良くしたければ、今日を最高にするのがいい。過去を良くしたければ、今日を最高にするのがいい。選択肢はひとつ。今日のみだ。未来のために今日は我慢をして、つまらない一日をとれというのは間違っている。賢明ではないだろう。今日を最高にするから、いい未来になる。振り返るのに耐える過去になる。

苦労は無駄だとかそういう話じゃない。辛い・苦しい・痛い瞬間の蓄積は、未来に花を咲かせるか? 本当にそうだと思うのなら、その辛い・苦しい・痛いは試練であり栄養だ。もしそうじゃないのなら、どこかが歪んでいるだろう。自分の力の及ばない遠いところにある、馬鹿デカい歪みかもしれない。

大変だけど楽しい瞬間は、ある程度信頼できる。今は大変だけど楽しい。その先は、もっと大変でもっと楽しい。それを望むのなら、雪玉をずっと大きくしていけばいい。険しいところにはその分、野趣や楽しみが詰まっている。雪の上で雪玉を転がすのをやめたら、みるみる雪玉は解けてなくなっていく。温和な場所で雪玉を保とうとすると、余計な煩わしさばかりが生じるだろう。雪玉転がしは険しいものだ。

梓みちよ『メランコリー』

記憶の証言者

人の言葉をしゃべれる鳥が 昔の男(ひと)の 名前を呼んだ にくらしいわね(梓みちよ『メランコリー』より、作詞:喜多條忠、作曲:吉田拓郎)

人は刻々と変化する。人間(人同士)の関係や間柄も刻々と変化する。昨日の利害は今日、ひっくり返るかもしれない。恋仲は常に壊れうる。

話す鳥とは、オウムかインコかキュウカンチョウか。主人やその周囲の人物の関係は常に最新の状態に更新される。話す鳥は、未アップデートなのだ。アップデート前の古さが、主人公は憎い。

主人公のアップデートは、ダウングレードか、マイナーチェンジか。最新の状態(今)と比べて、前の状態のほうが幸せな気持ちだったとする。その頃をいたずらに思い出させるきっかけが、話す鳥の呼んだ名前だったとしたら、それは憎らしいし、恨めしいだろう。あるいは、鳥の呼ぶ名前が思い出させる記憶よりも今の方が幸せな気持ちにあふれている場合、水を差すことにもなりうる。いずれにしても、古い男の名など読んでくれるな、鳥よ。これが主人公の気持ちだと推し量る。

鳥の覚えた言葉(男の名前)は、ある時期における、主人公と男の関係の証言だ。もちろん証言や記録としては弱いかもしれない。男と主人公を映した写真の1枚でもあれば、二人の関係の証明としては、鳥の記憶した言葉よりも雄弁だろう。

何かを残す際に、記録は有益なものだ。反対に、水に流したいものがあるとき、記録はむしろ不都合だ。灰燼に帰したいものごとの物証を隠滅するのも、時に人のとる行動だろう。

入れ子のメランコリー

恋人つれてる あの人に 平気で挨拶しているなんて 淋しい 淋しいもんだね(梓みちよ『メランコリー』より、作詞:喜多條忠、作曲:吉田拓郎)

主人公は乃木坂あたりをうろついているのか。特別な関係のあった相手(男)との生活圏が、依然重なっている。生活圏といっていいかわからない。避けようと思えば避けられるのではないか。その手段も方法もきっとある。だがそこまでしない。そこまでする動機としては不十分なのだろう。寂寥を感じて、繕うことのできる程度の心のほつれ。特別な関係と書いたけれど、それ未満だったのかもしれない。恋なんてものでもなく、もともとあったメランコリーを埋めるために生じた関係。想像が過ぎるだろうか。主人公のみぞ知る心、メランコリー。

都市に生きる人の風情

緑のインクで手紙を書けば それはさよならの合図になると 誰かが言ってた 女は愚かでかわいくて 恋にすべてを賭けられるのに 秋だというのに 恋も出来ない メランコリー メランコリー” “それでも乃木坂あたりでは 私はいい女なんだってね 腕から時計をはずすように 男とさよなら出来るんだって 淋しい 淋しいもんだね(梓みちよ『メランコリー』より、作詞:喜多條忠、作曲:吉田拓郎)

すべてを賭けられるほどの恋があるとして、秋だというのにそれができない理由が男との恋の終わりにあるのだとしたら、主人公の恋はやはり大きなものだったのかもしれない。

主人公はいい女で、ひとつあたりの恋にかけるエネルギーはかろやか。低燃費だからどんどん走れる。それこそ、腕時計をつけはずしする程度の造作のなさで男性と関わっては、それを断つ。これが、乃木坂あたりの連中が主人公に付したレッテルなのだろうか。そんな女性像があるのなら、空虚なものである。

実際の主人公はそれとは違うからこそ、嘆き草足りうるのかもしれない。一所懸命に恋をするのが主人公の実像か。空虚な街の連中が付した華美なレッテルであっても、現実の姿であっても、いずれにしても嘆かわしい。都市の風情があって、おしゃん(オシャレ)である。

『メランコリー』は歌謡曲のようなフォークのような匂い漂う響きだけれど、うつろな街に生きる人らの姿、関係の移ろいや変化を描いている点ではまるでシティ・ポップだ。音楽の分類もレッテルであり、偏見のひとつ。淋しいもんだね。

緑のインクとグリーン・スリーヴス

秘密を知る仲 ハイコンテクストの共有者

改めて、このフレーズ。

緑のインクで手紙を書けば それはさよならの合図になると 誰かが言ってた(梓みちよ『メランコリー』より、作詞:喜多條忠、作曲:吉田拓郎)

緑のインクにそんな意味があると、私は『メランコリー』で知った。検索してみると、縁切りの意味があるなどとした諸説あるのが分かる。

関係を解消する意図を確かに相手に伝える文章であれば、インクの色がなんであろうと問題ないはずだ。なぜわざわざ緑のインクを用いる必要があるのだろう。

あるいは想像する。「あなたと過ごした時間は、私の財産です。」とだけ綴った手紙があるとしよう。これだけでは確かに、相手との時間を筆者が貴んでいる以上の意味は(文の直訳としては含ま)ない。これを緑のインクで記せば「過ごした時間の価値は永久不変だけど、私たちの関係は終わりにしましょう」みたいなニュアンスを示せる……ということだろうか。

いずれにしても、両者の間に、無言の了解があるからこそ伝わる余白。深い文脈の共有のない者のあいだで、第三者から見たら別れを直接伝える意図だと判断しかねる文章を緑のインクで書いたところで、それが別れの意図だと判断してもらうのは難しいだろう。そもそも、そのニュアンス(余白)の共有がかなうほど親密ではない仲において、急に別れを切り出すこと自体がおかしい。

かなり高等なコンテクストを共有している者同士のあいだでのみ伝わる、しゃれた風習だと思う。

不祝儀袋へ名前などを書き込むとき、薄墨でおこなう。涙で墨が薄くなってしまった気持ちの表現だとか。ピン札は不幸を予想し準備して待っていたかのようで失礼だから避ける、といったマナーもあると知っている。つまり弔事のときの薄墨やピン札忌避には、そうした意味があるといえばある。しかしそれ以上に、単に「こういうときはこうする」という程度の習わしに過ぎない。

緑のインクと別れの意図の関係については、認知度の面で、弔事の薄墨やピン札忌避に劣るのではないかと思う。だから、これを知っている者同士はかなり高等な連帯感を共有できるかもしれない。肝心のそのシチュエーションが「別れ」や「縁切り」だなんて、なんだかちょっと捻じ曲がっている。

特別視し合っている者同士だからこそ、日常的に一緒にいることが難しいということも実際にあると思う。「神すぎて推しすぎて失神する」みたいなことか(違うか)。尊すぎて触れづらい存在がある人もいると思う。その思いが、私にはなんとなくわかる気がする。

緑のインクとグリーン・スリーヴス

なぜ緑のインクが縁切りを示すのかについて、私が思い出すのが『Greensleeves』。

これまた由来が深遠な曲で、この曲についての謎も多い。しかし調べるうちにわかったこともいくつかある。中でも緑のインクと縁切りについて最も関わりがありそうに思えるのは、緑には、不吉なイメージがあるということだ。

死者を意味するとか、性に淫らな者を意味するとか、諸説ある。亡くなった人に着せる衣の色だとか、妖精や幽霊(おぞましく、危険で遠ざけたい存在としての)を思わせる色だとかいった説がみられる。西洋ではそういう認識があるのかもしれない。

バリエーションの数多い『Greensleeves』だが、中でも広く認知されているものはつまり悲恋(悲愛?)の歌で、主人公の愛の対象=Greensleeves。それが、性的に淫らな人だったからGreensleevesと呼ぶのか、緑の死に装束をまとっているからGreensleevesと呼ぶのかは定かでない。とにかく、愛の対象=Greensleevesであり、同時にその成就が引き裂かれた悲しみの思念を汲み取るのが、『Greensleeves』鑑賞の一興である。

厳密には、生死が二人を別ったのか、単に相手が主人公の想いを拒んだだけの淫らな人なのかもわからない。言えるのは、その旋律の響きに、もの悲しさや空虚さが澄み渡るということだ。

『メランコリー』と『Greensleeves』

『Greensleeves』における、西洋のものと思われる、緑色にまつわる不吉のイメージをいくらか察していただけただろうか。それが、いつ頃どの地方にかはわからないが、日本にも伝播したのかもしれない。もちろんそれだけでは、日本にも元々あった緑色への認識と、あとからやってきた西洋における緑色のイメージがたまたま同じ方を向いたという可能性を否定する材料にはならない。

『メランコリー』の主人公は、緑のインクにまつわる意味を伝聞で知っただけという程度の様子で、それを自ら活用してきた経験はなさそうだ。自分自身の恋愛にまつわる近況と、人から聞いた話(緑のインクが別れを意味するという話)を重ねているのだ。自分の近況を語るためにこの比喩ができるのはかなりのおしゃん(オシャレ)である。主人公もおしゃんだし、この詞を書いた喜多條忠もおしゃん。

『メランコリー』歌詞をみるに、主人公が最近恋をしたとも失恋したとも書いてあるわけではない。平静に、過去の記憶と現在の自分の様子を対比させている。落ち着きと風情のある大人を想像させる主人公。時計を付け替えるように男と接点を持つ人よりも、私にはずっと魅力的に思える。

そんな人物をさらりと描き出してしまう喜多條忠のインクはいったい何色なのだろう。こうも私を引き寄せるところをみるに、緑色ではなさそうだ。色相環では、緑の反対には赤紫がある。妙に艶っぽい色にも思える。安易だろうか?

梓みちよ『メランコリー』 主題際立つ一本道

色の意味も深遠なテーマだけど、曲の構成がなかなか変わっている。

細かくAメロ・Bメロ……などと曲の進行にしたがって各部分に名前をつけていくと……Fメロに至ってしまう。細分し過ぎかもしれないが、そうとも言い切れない。この曲は、すでに登場させた音型を安易に反復することがない。1コーラスの中で、“淋しいもんだね”の結びの句に向かって一本道なのだ。主題の「メランコリー」が際立つ構成。真実は別として、詞先で作曲したように思える。

歌詞を先に書く場合、音楽のリフレインを想定して、詞にもそうした反復やリズムをあらかじめ与えて書く場合があるだろう。しかし『メランコリー』は違った。作曲の際にも、その構成を汲み取ったはずだ。結果として、こうした一本道展開の独創的な曲が生まれたのではないかと私は思う。

ワンコーラスの構造、ざっくりメモ

※カッコ内は小節数。

イントロ(4)

Aメロ(10) “緑のインクで〜”、2番“人の言葉をしゃべれる鳥が〜”

|Ⅰm||Ⅳm|Ⅴ7|Ⅰm|Ⅳm|Ⅶ7|Ⅲ|Ⅴ7|Ⅰm|

Bメロ(6) “女はおろかでかわいくて〜”、2番“男はどこかへ旅立てば〜”

|Ⅴ7|Ⅰm|Ⅳm|Ⅵ|Ⅴsus4|Ⅴ7|

Cメロ(8) 1・2番“秋だというのに〜” (末尾に(2))

|Ⅰm|Ⅳm|Ⅶ7|Ⅲ|Ⅴ7||Ⅰm||||

Dメロ(8) 1・2番“それでも乃木坂あたりでは〜”

|Ⅲ||Ⅰm||Ⅵ||Ⅶ7||

Eメロ(8) “腕から時計を〜”、2番“恋人連れてる〜”

|Ⅰm|Ⅴm|Ⅴm|Ⅰm|Ⅲ|Ⅰm|Ⅳm|Ⅶ7|

Fメロ(6) 1・2番“淋しい 淋しいもんだね”

|Ⅲ|Ⅰm|Ⅴm||Ⅰm||

間奏(6)

梓みちよはE♭mキーで演奏している。

コード進行の出だしが似ているなどの部分がいくつか見られるも、メロディがそれぞれ独立しているし、出だしは似ていても後続するコード進行が違ってくる。思いの外トリッキー。メランコリーは多様であり、判子で押したような感情ではないことを表現した意匠だと解釈するのも面白い。

各々独立したメロディ

図:『メランコリー』 採譜例 in Em(1頁)

Aメロ、“みどりのインクで”〜”だれかが言ってた”。中央付近に頂上のある山なりのメロディを波状に連ねる。はじめの4小節と5小節目以降ではリズムが異なる。

Bメロ、”おんなはおろかでかわいくって 恋にすべてをかけられるのに”。Ⅴ7で入るモチーフ。同音連打を多用しつつ、高揚感ある音域までスムースに上げていく。“恋にすべてを”……のフレーズは頭を半拍空けてリズムに変化を与える。

Cメロ、“秋だというのに恋もできない メランコリー メランコリー”。初めの4小節は順次と細かな跳躍でなめらかに音域を下げる音形のリフレイン。小節の真ん中(2拍目〜3拍目の間)でタイをして移勢をつくっている。対する5小節目(4小節目の4拍目)以降は、分散和音を感じさせる跳躍を含め、「メラン」と「コリー」に音形のキャラ分けをすることで単語“メランコリー”を印象付ける節回し。

図:『メランコリー』 譜例 in Em(2頁)

Dメロ、“それでも乃木坂あたりでは あたしはいい女なんだってね”。平行長調(譜例ではGメージャー)の響きが開放的。1拍目を空白にし、ノコギリの歯のような跳躍でギザギザを刻む音形。似た音形を音域違いで反復する手法は、各メロに多く見られる共通点。8小節程度のまとまりの繰り返しはない代わりに、2小節程度の音形の反復は積極的に用いているのがわかる。

Eメロ、“腕から時計を”〜“さよならできるんだって”。半拍ぶん食って入る音形。滑らかな下行の波を連ねるも、リズムに変化。2拍3連風のリズムも登場。刻々と変化しつづけるモチーフが、主人公の過ごす一連の時間の経過を思わせる。下行が印象的な前半4小節に対して、後半4小節は上行で印象づけるモチーフ。

Fメロ、“さみしい さみしいもんだね”。各メロディの中で、最もおおらかな音価でつづったフレーズ。4分音符を主体にしている。最初の“さみしい”は平行長調っぽく、後続の“さみしいもんだね”はナチュラルマイナーの風情。いずれもペンタトニックを感じる節回し。

平行長調とのあいだをふわつく局面が数カ所みられる。一定のまとまり(8小節程度)のモチーフの繰り返しもない。そのためか、高い独創性を発揮しつつも感情がきっぱりとせず、心情のグラデーションを聴き手が読み取る余白を感じる。ずばり、メランコリーだと思う。

曲についての概要など

作詞:喜多條忠、作曲:吉田拓郎。梓みちよのシングル(1976)。吉田拓郎のアルバム『ぷらいべえと』(1977)にセルフカバーを収録。

歌ネットサイトの問いに答える喜多條さん

言葉の達人/作詞家:喜多條忠 歌ネットサイトへのリンク

リンク先のサイトの設問に答える形で、“私の好きなあのフレーズ”として“ 緑のインクで手紙を書けば それはサヨナラの合図になると…”を挙げる喜多條さん。

“中世のヨーロッパでは決闘の時、緑のインクで決闘状を書いたというのを聞いたことがあったからです。でも人から聞いた話だったので、その後につづけて「誰かが言ってた」と書きました。”(言葉の達人/作詞家:喜多條忠 歌ネットサイトより引用)

決闘状に緑のインクを用いた中世ヨーロッパの話はともかく、それが“サヨナラの合図になると”という表現になるところがユニークです。伝聞だからと、歌詞の上でも”誰かが言ってた”と書いたといいますが、そのことが、かえって楽曲の主人公が、自分の言葉で思ったり知覚したいきさつを包み隠さずそのまま話している雰囲気の演出を大成功させています。梓みちよが歌の中で演じた主人公像が、実在するかのようにリアルに私に振る舞うのです。

“生きて来たこと、生きていることを書けばいいと思います。
歌を書くために生きているんじゃないから。
書く時に「いいカッコウ」をしないことかな。
人に見せるより自分に見せるつもりで書いて下さい。”(言葉の達人/作詞家:喜多條忠 歌ネットサイトより引用)

作詞を志す人へ向けた喜多條さんのメッセージが私の心に響きます。人(自分)の生が先にあって、それが詞になるのだという本来の順番をおしえてくれます。当たり前のはずなのだけど、「作詞しよう」とするほどに忘れるのが、自分自身の生きてきた/生きていることなのですね。もっともです。

人に見せる意識と、自分に刺さる・自分にこそ言ってやりたいことをありのままに表現することは一見衝突するようにも思うのですが、自分を一番分かっているはずの自分さえグっと来させることができない言葉(自分一個のありのままさえも表さない言葉)に、いったいどこの誰がグっと来るのだろう?ともいえます。

人にみせるべきものと、自分にみせてやりたいビジョン・言ってやりたい言葉、かけてやりたいねぎらいのメッセージは、その純度が高く正直であるほどに、ひとつに重なり合うはずなのだと思えます。

青沼詩郎

吉田拓郎 エイベックス 公式サイトへのリンク

参考Wikipedia>メランコリー (梓みちよの曲)

参考歌詞サイト 歌ネット>メランコリー

梓みちよのシングル『メランコリー』(1976)

『メランコリー』を収録した『梓みちよ ベストアルバム』(2000)

吉田拓郎のカバー(含むセルフカバー)集、『ぷらいべえと』(1977)

ご寛容ください 拙演(YouTubeへのリンクShiro Aonuma @bandshijin『メランコリー(梓みちよの曲)ギター弾き語り』)