南風 レミオロメン 曲の名義、発表の概要
作詞:藤巻亮太、作曲:藤巻亮太、前田啓介。レミオロメンのシングル、アルバム『ether [エーテル]』(2005)に収録。
レミオロメン 南風(『ether [エーテル]』収録)を聴く
爽やかです。南風っていつの季節を示すのでしょう。あたたかそうだし、何か新しいことが到来した感じがあるので春っぽくもあるなと思っていたのですが、レミオロメン『南風』の細部を見るに秋冬の情景を感じます。
“木枯らしと枯葉の舞 かさついた両手の先 クリームを擦り込んで 君が笑う 時が止まればいいなって 真剣に僕は願う 伝えたいと思うけど 少し照れるな”
(レミオロメン『南風』より、作詞:藤巻亮太)
乾燥が強くなる時期の普遍の光景を描いていて微笑ましいです。こういう素直な愛を、元気で勢いのあるサウンドにのせて、明るく歌っています。それってすごく普通のことでなんのひねりもないともいえるかもしれませんが、愛を率直に歌うことこそウン百年でもウン千年でも人類が続けてきたことだと思いますし、書に、石碑に、円盤に刻んできた営みではないでしょうか。
ストリングスアレンジに小林武史さん、四家卯大さん。バンドの実直で元気な演奏にみずみずしさを添えます。シンセのまるっこいトーンがかわいい。個人的にはCharaさんのサウンドを思い出します。『やさしい気持ち』とかですかね。いや、違うな、CharaさんのソロでなくYEN TOWN BANDの『Swallowtail Butterfly 〜あいのうた〜』です。『Swallowtail Butterfly 〜あいのうた〜』の作・編曲は小林武史さん。レミオロメン『南風』のキーボード担当も小林武史さん。サウンドでピンと来ますね。図らずも異なるアーティストにまたがる己の仕事のテイストが出るのは好ましいことだと私は思います。
『南風』の話に戻って、ドラムスのハイハットの質感・キャラクターが感じられます。16ビートのオルタネイトを熾烈に描き込みますが、激しいというより爽やかです。スネアもダカダカと目立ち、キット全体が派手なサウンドですが攻撃的でなく藤巻さんの歌を中心に据えて爽やかなのです。
ベースのオクターブをひたすらにのぼりおりするパターンがはつらつとしています。オクターブ上下をやりながら半音進行で次の和声音に向けて経過していくフレージングが良いですね。良いバンドの演奏を鍵盤ものやストリングスが支える構図です。適正なバランス感が気持ち良い。
ピアノのコンプ感がすごいです。バビョーンと伸びていく。じんじんとアタックもあります。右側に定位を寄せてセパレーションをはかりつつ、バンドにコミットしています。
南風がいつの季語かはさておき、新鮮な息吹を私の肺に通して清涼感と人肌のあたたかみをくれます。元気で明るく爽快なバンドの演奏と歌。いちばんまっすぐでシンプルで、これがあればいいとさえ思いかけて……いやいや音楽は多様でいいんだぞと謎の天邪鬼を発揮しようとする私が横槍。いやいや、レミオロメンって良いですね。
南風ってなに
“南風(みなみかぜ・なんぷう・みなみ・はえ・まぜ・まじ・ぱいかじ) – 南方から来る風。漁師たちはこれが吹いた場合、天候の変化の前兆として警戒する。“(Wikipedia>南風より引用)
風は変化の象徴です。新しいものを運びます。あるいはその場で朽ちた古いものを吹き飛ばすのも風です。代謝をつかさどるのですね。
「南の」と「風」のあいだに形容詞を入れるとなると、「湿った」でしょうか。南の風には海の湿気を携えてやってくるイメージがあります。私個人が関東地方在住なのでそういうイメージなのでしょうか。南といえば、太平洋が無限に思えるほどに広がっている地理なのです。
「南風 季語」などと検索すると、どうも夏をさすようです。4~8月とも出ます。
レミオロメンは楽曲『南風』で枯葉、落ち葉、かさついた手やそこに擦り込むクリームといった寒い季節の到来を思わせる描写をしています。「南風」が本来想起させる季節とずれがある? 「南風」を主題とした意図を想像させます。
“騒ぎ立てる鳥の群れ 傾いた秒針追って 南風はどこだろう? 君は探す 戸惑いなく晴れる空 光咲く水辺は花 ポケットに手を突っ込んで 君と歩く”(レミオロメン『南風』より、作詞:藤巻亮太)
一番の歌詞はこれから夏を迎える時期を思わせます。4月や5月でもおかしくないでしょう。ポケットに手を突っ込むのは一年中いつでもおかしくありませんが、本格的な暑さに向かってふらふらと気温を上下させたり、日が落ちかけるとふと寒くなったり、雨や曇りが数日続くと冬に戻ったような気にさせる4月頃の情景だと思えなくもありません。5月くらいになって暖かさが恒常的になってくると、陽光の質感も厚く、水面のきらめきも強まるように思えます。
愛情の本質
レミオロメン『南風』では、楽曲のなかで時季が移ろっているのでしょう。
楽曲のなかに季節の幅がある場合、そのことをはっきりとした言葉を選びわかりやすく描くのも曲に親しむ人への配慮だと思いますが、自分で歌うための歌を自分で作る、自分やその身の周りや愛情の対象とする限定的な「あなた」に向けて書く場合は、わかりやすさはかえって余計なサービス。品位を下げるものにもなりえます。
枯葉や木枯らしというワードをポンと出して、かさつく指にクリームを塗る「君」とその笑みを描くことで季節の移ろいを鑑賞者に読ませる私小説的なアプローチが楽曲『南風』にはうかがえます。バンドのフォーマットでさわやかなポップチューンに仕立て上げる感性の豊かさとおしゃれさよ。
季節はめぐるものであって、全部で一体のものなのです。たとえば夏がいまこちらに正面を向けて立っていても、視界の中で隠れているだけでどんな季節もそこに一緒にいる、存在しているのです。あなたを正面から見つめるとき、その背中にも人生の起伏豊かな思想・感情が書き込まれているのでしょう。人と関わり、その人を観察し、いまこちらに向けている面の内側を想像することこそ、愛情の本質なのです。
青沼詩郎
『南風』を収録したレミオロメンのアルバム『ether [エーテル]』(2005)
ご寛容ください 拙演(YouTubeへのリンクShiro Aonuma @bandshijin『南風(レミオロメンの曲)ピアノ弾き語り』)