襟裳岬 曲の名義、発表の概要

作詞:岡本おさみ、作曲:吉田拓郎。森進一のシングル(1974)。吉田拓郎のアルバム『今はまだ人生を語らず』(1974)にセルフカバーを収録。

森進一 襟裳岬を聴く

「凄味が凄い」などとおかしな語彙を使いたくなる森進一さんの声の存在感。ドラムスもエレキギターも静謐に刻み、森さんの声が空気を割って出てくる緊張感を演出します。北海道の雲間から漏れる光、たなびくオーロラ(見たことありませんが)を思わせる森進一さんの歌唱です。

ギチギチとギロでしょうか、打楽器小物がアクセント。イントロやエンディングのトランペットは朗々として雄弁。金管楽器の和声が燃えるよう、あたたかな暁の空のようです。声のハーモニーが「アー」「フー」と奥ゆかしい遠さとともに景色のスケール感を表現します。

森進一さんの歌い方には音符ひとつひとつのお尻をきゅっとシメる独特の粘度を感じるのですが、儚く壊れてしまいそうな強い哀愁も匂います。貧乏な借家に寒風が吹きすさぶような厳しさ、冬の厳かさを私の胸に連れて来ます。人情の裏返しでしょうか。

吉田拓郎 襟裳岬を聴く

吉田拓郎さんが歌うとこれまた彼自身の歌(ソング、楽曲)になるから、つくづく歌唱とはその人そのものだと思います。また、オケ(バンド)が良いグループだなと思わせます。エレクトリックピアノやオルガン、ドラムスのライドシンバルなど、場所によって目立ってくるモチーフが入れ替わっていき景色の移ろいを見せてくれて情緒的です。

編成がコンパクトで、森進一さんバージョンの管も弦もコーラスも全部入りの大所帯、というのとは違って各パートを追跡しやすいコンパクトさがあります。グルーヴが凄くいいですね。怒涛のアウフタクト(移勢)のフィルインが華やかです。フェードの長いエンディングで、雄大な景観が広がるシームレスなセッションを思わせます。

歌詞 寛い心

“北の街ではもう 悲しみを暖炉で燃やしはじめてるらしい 理由(わけ)のわからないことで 悩んでいるうち 老いぼれてしまうから 黙りとおした 歳月(としつき)を ひろい集めて 暖めあおう 襟裳の春は 何もない春です”(『襟裳岬』より、作詞:岡本おさみ)

参考Wikipediaを読むに、「何もない」は地元の人が、作詞者の岡本さんに向けて実際にかけた言葉が映り込んだもののようです。実際に何もないといえるかどうかわかりませんが、その土地の12か月があり、暮らしがあります。「何もない」はずもないのですが、へりくだって、謙遜して、その土地にあるもので訪問する人をもてなし、寛く受け入れる人情が背景に映っているのかもしれません。

悲しみは人を暖める糧になるのでしょうか。ものは燃えれば熱を発し人を暖めるのです。悲しみを乗り越えた人は、他人に優しくできるであろうことの比喩でしょうか。乗り越えるというよりも、その胸に連れて一生一緒に歩くことこそが、悲しみの本質かもしれません。その人の胸に悲しみがあるから、その人と接する人は温もりや慈愛を覚えるのです。悲しみは熱源である、と。

“通りすぎた 夏の匂い 想い出して 懐かしいね 襟裳の春は 何もない春です”(『襟裳岬』より、作詞:岡本おさみ)

描かれている季節はいつなのでしょう。幅のある描写ですし、回顧している趣もあります。襟裳岬は、本州など南の地域と比べれば当然寒い季節がずっと続く、「冬が長い」地域なのかもしれません。それでも現地の人には察知できるあきらかな四季の兆候というのもきっとあるでしょう。「何もない」といいつつ、やっぱりそこに豊かな人の心の存在を思わせるのです。その心には、大きな悲しみを宿しているかもしれない。それは、訪れる人をきっと暖めるのです。

“寒い友だちが 訪ねてきたよ 遠慮はいらないから 暖まってゆきなよ”(『襟裳岬』より、作詞:岡本おさみ)

「寒い友だち」は、繰り返す冬の象徴なのかもしれません。あるいはちょっと言葉の足りない口語が詩的な余韻を生じさせたのか、「寒そうにしている、もっと温暖な地域からやってきたその時限りの訪問者」のことをいっているのかもしれません。「暖まってゆきなよ」とは、悲しみを迎え入れる人の心を象徴する言葉であり、連綿と続く暮らしを言外に携えています。北の大地のように寛い心です。

青沼詩郎

参考Wikipedia>襟裳岬 (森進一の曲)

参考歌詞サイト 歌ネット>襟裳岬

『襟裳岬』を収録した『森進一スペシャルベスト~希望の明日へ!~』(2011)

『襟裳岬』を収録した吉田拓郎のアルバム『今はまだ人生を語らず』(1974)

ご寛容ください 拙演(YouTubeへのリンクShiro Aonuma @bandshijin『襟裳岬(森進一の曲)ギター弾き語りとハーモニカ』)