続・夏の歌の入り用

このブログサイトの昨日の記事で書いたようないきさつで夏の歌を漁っています。漁る、という喩えが適切かわかりませんが……

言葉の質感がいくぶん古めかしいと、メロディの節回しや抑揚のハマり方の個性の要素も相まって、言葉の意味がわかりにくいといったことが起きがちなのも、古い唱歌や黎明期の童謡の鑑賞や演奏において起こりちな問題です。

ですがかえってそこを乗り越えると、いっそう愛着が深まるのも古くからある童謡や唱歌の鑑賞や演奏における楽しみでしょう。

言葉は生き物です。日々刻々と変化します。なかった表現が生み出されます。淘汰される言葉もあれば、生き残り、さらに新たなる表現へと変化していく言葉もあるでしょう。

淘汰、と一度は書きましたが厳密には、淘汰される言葉はみな、その後継となる言葉にバトンを渡すことで消えていくのかもしれません。淘汰された、あるいは死語となったととらえうるかもしれませんが、そういう言葉こそ実は脈々と、あらゆる言葉の間を風のように渡っているのかもしれません。

今日この場で私が吐く言葉を、100年、150年あとの人がもしも読んだら、いったいどれくらい「わかる」ものなのでしょう。

未来の人が私のことを「わかる」ために必要な一歩を踏み出す積極性を供出してくれた日にはどんなに私は嬉しいものか。その頃、もちろん私の肉体は朽ち果てて原型をとどめていないでしょうが……人ひとりも、言葉のように世界を風のように渡っているのかもしれません。ひとつの例外もなくそうに違いない。

夏は来ぬ 曲の名義、発表の概要

作詞:佐佐木信綱、作曲:小山作之助。日本唱歌。”1896年5月、『新編教育唱歌集(第五集)』にて発表”(出典:Wikipedia>夏は来ぬ)。

夏は来ぬを聴く

合唱団 京都エコー

配信で手軽に聴けるなかで見つけた京都エコーの演奏を気に入りました。

モチーフを転々と展開するしゃれたピアノ伴奏。

1番は女声、2番は男声と歌いわけます。3番以降はメインとオブリガードを各パートで分かち合い、入れ替わっていきます。ときにルン、ルンルン……と歌詞でない合いの手も渡っていきます。

男声と女声でそれぞれ2声部にわかれるところがあるようです。男声と女声が同時に鳴るところではあまりやたらに声部内で分けている様子はないようでしょうか。

後半のほうではピアノがやさしげなトリルでトーンを保続するなど表情豊かな伴奏が確かです。歌唱のダイナミクスも練磨されています。ひゅっと引っ込むようなダイナミクスを発露するところでも歌詞が埋没しません。

ピアノのアレンジなど含め、『夏は来ぬ』に現代的な解釈をほどこし生きいきと凛とした風を吹かせています。それでいて、原曲を「魔改造」してしまったような印象はなく、あくまでもともとこういう曲であったような潔さを持ち合わせていて好感です。

ずっと昔からあるものを「今のもの」として提示する。言葉が代謝されても、ずっと昔のエッセンスがずっとどこかの世界をめぐっている観念を想い起こします。今年も、夏は来ぬ。

青沼詩郎

参考歌詞サイト 歌ネット>夏は来ぬ

京都エコーが歌う『夏は来ぬ』を収録した『心のふるさと 抒情歌ベスト』(2010)