映像
MV
上下に流れる画面。ぴょんぴょんと跳躍する3人。帽子をかぶったり膝丈のパンツを履いたりとカジュアルな軽装です。ここはどこなのか、左右のふたつのスクリーンにはさまれた通路のような場所。ミラーボールがまわっているのか、光のつぶがぐるぐると。公園遊具のような、プラネタリウムの映写機のような球状の格子のようなものが中心でまわるカットがクロスします。
3人がペンのようなものを空中に浮かべては再びつまみあげるカット。メンバーの顔がわかる寄ったカットなどもクロス。球状のものの上半分に寄った構図がまたクロス。3人がぴょんぴょんする映像は終始コピー&ペースト、延々とくりかえされます。気持ちもふわつく不思議映像。
ライブ
Tokyo No.1 Soulsetと
ゆっくりとしたギターのストロークとともに「ナイトクルージング」。高い声の咆哮でバンドがはじまります。バンドメンバーが「らーらーららら……」と歌い、それはやがてシンガロングへ。時間をたっぷりとかけた長い導入。佐藤伸治ボーカルによる歌詞が入るまえにラップボーカルが入ります。オリジナルのラインでしょうか。
そののちにようやくオリジナルのラインが聴けます。キレの短いストリングスシンセのようなトーンが原曲のギターリフを奏でます。それはバトンが渡るようにギターにタッチ(ファ♯シラド♯ーシラシ……というリフです)。
オレンジ色のシャツ、キャップのいでたちの佐藤伸治。非常に高い声を恍惚とした表情で響かせます。佐藤伸治のパートののち、またラップのボーカルのオリジナル・ライン。カメラが寄ったり引いたり、フレームレートが荒くなったりピントがぼけたりするような画面の演出で動きと臨場感を出します。体を伏せこごめるようなキーボディストがピンとしたトーンでリフを奏で……息が止まってしまうかのようなブレイクののち、息を吹き返します。しばし、もうひとまわし……ののちに、エレキギターの主和音でかきまわしてフィニッシュ。
1997年6月7日、日比谷野外音楽堂。『闘魂’97』は公演名か。共演のパートナーはTokyo No.1 Soulsetだったようです。
’98 赤坂BLITZ
ギターのアルペジオのイントロが長くつづきます。らーらーららら……とよりどころないハイトーン。ゆっくりとした展開で、楽曲もステージも映えます。時間をかけてようやくメンバーの姿がみえてきます。その場にいるのかいないのかも判然としないような画面が長くつづきます。揺れたり跳んだりする観客の頭が画面手前で上下します。
「窓はあけておくんだよ」と高い声を出すボーカリストの様子に横からせまる画面。スポットライトが太陽のようにこちらに強い光をはなちます。ほかになにもわからないほどです。青い光がメンバーのシルエットを幻想的に浮かばせます。スタジアムのような大きい空間を思わせるふわふわとした音響。1998年12月28日の赤坂BLITZでの様子のようです。
曲について
Fishmansのシングル(1995)、アルバム『空中キャンプ』(1996)に収録。作詞・作曲:佐藤伸治。
『ナイトクルージング』を聴く
チリチリというアナログノイズ。「ナイトクルージング」とボーカルの発声。「Ah」とハイトーンボイスがディレイ、こだまします。「Up&Down」「Fi Fi Fi…」とフェイク調。クリーントーンのギターがアルペジオでリフレイン。トレモロでゆらめくストロークギター。ピアノも1拍目以下にポーンと寡黙なストローク。淡白かつ湿潤です。ベースは発音と休符の長さのバランスがミソ。ひょっとしたら発音時間の方が短く休符時間のほうが長いのでは。
後半に左側に怪しげなガバガバとわななくギターのようなサウンドが入ってきて低めの音域にはりつきます。右側にボーカル「窓はあけておくんだ」「いい声きこえそうさ」。イントロ付近でも聴いたボーカル「Ah」がときにこだま。
エンディング付近、いつのまにやらピアノのリフレインが存在感を強めます。残響や音量も徐々に上がって感じられるほどです。
やがてドラムスがOFF。ベースも抜け、ウワモノだけに。印象的なギターのリフ、揺らぎ怪しいトーンのストロークギターも脱出。ピアノのみになり、フィードバックするふうのギターが粘りアナログノイズが孤独に残されます。
歌詞の洗われる感じ
“だれのためでもなくて 暮らしてきたはずなのに 大事なこともあるさ あー天からの贈り物”(Fishmans『ナイトクルージング』より、作詞:佐藤伸治)
なるべく自分のいいように、漂うように生きる。佐藤伸治やフィッシュマンズメンバーの実際も、そんな面もあるのでしょうか。この曲が描く主人公も。それなのに、どういったわけか、他人を重んじて生きる自分もいる。1人では生きられないから当たり前といえばそうです。他人を重んじることが、自分の命や生活の質の保持につながるから。だから、誰かを重んじることは、結局まわりまわって自分を重んじることなのです。
誰かを愛しもするし、大事に思う人があらわれもする。そんな予定はなくても、そうなることがある。それは奇跡だし、喜びでもあります。自分以外の人やものごとを、自分のことのように思える。それこそが社会的な生きがいな気もします。つまり、自分ごとに「他人ごと」が含まれるようになったとき、この歌詞が描くみたいに、“だれのためでもなくて 暮らしてきたはずなのに 大事なこともあるさ あー天からの贈り物”って、ほんとうに心から思えるのでは。
この歌詞のラインがうたわれるほんの刹那、ほんの一瞬にそんな感情の波が私に寄せるのです。グっと来る1行。私の貧相な語彙の畑が満たしてやれない感情表現を射抜きます。孤独な私の浄化です。優しさ、自由、尊厳、もろくも儚くも感じるラインです。
感想
ふわっふわに浮いたサウンドに鋭く心を勘所を射抜く言葉がゆらめきます。残響づけ、佐藤伸治の声の高さ、質・キャラクター。余白を活かし、余白に生きるベース。漂流して蒸発してしまいそうなすべてのパートを、大きな海につなぎとめるブイがドラムスでしょうか。タイトでくっきりした輪郭で旋律を、多様な音の漂流を、言葉の連なりを心の真ん中につなぎとめます。
フィッシュマンズを聴くと、自分の語る言葉がすべて未熟に思えて口をつぐむしかなくなる……お手上げなくらい好きなのです。
フィッシュマンの曲のいくつかは、20歳代前半くらいのときの私の神曲的存在ですが、時間を置いて聴き直すと、そんな自分の未熟さが少し遠くに感じもします。
でも、『ナイトクルージング』を筆頭に、海の深みや宇宙の高みをあたまのなかに展開してくれるのは今にも過去にも通じる普遍でもあります。漂うようで、どこかとつながってもいる。ブイみたいですね。
青沼詩郎
『ナイトクルージング』を収録したFishmansのアルバム『空中キャンプ』(1996)
ご笑覧ください 拙演