『感覚は道標』くるりの14番目のアルバム。2023年10月4日発売。先行配信曲『In Your Life』(6月28日)『California coconuts』(8月9日)を収録。

アルバムを通して聴いたのち、一曲ずつ聴き返す。何か書く。この記事の趣旨です。あなたもくるり『感覚は道標』を聴きながら、お読みいただければ幸いです。

happy turn

霊界につながった「ひも」

“ある日のジャム・セッション。ストーンズ風のギターリフを冗談半分で弾いていたら、ザ・フーのようなリズムが入ってきた。

私は即座にメロディを作り、初期ビートルズ風のブリッジをしたためながら、シンプルなギター・ソロを弾いた。”

(くるり official (note)>『感覚は道標』セルフライナーノーツより引用)

シンプルなギター・ソロ……私は『Baby I Love You』(2005)を思い出します。

『Baby I Love You』は独特の壮麗な音響がチャーミングで、愛らしい気風を感じる私のなかで「ポップソング」然とした存在なのですが……『happy turn』はどうでしょう。ロック好きの集落で音楽の麻酔がキマった風のやんちゃな喜びに溢れてみえます。

旋律がはっきりとしたトーンのギターソロが印象的なものとして『Baby I Love You』を並列して唱えたくなるのですが、その性格はだいぶ違います。もちろん、同一人物の振れ幅だと思えなくもありません。『Baby I Love You』も存分にロック・ミュージック・フリークしているのは確かです。

『Bus To Finsbury』(2005年『NIKKI』収録)、『LV45』(2009年『魂のゆくえ』収録)、『ミリオン・バブルズ・イン・マイ・マインド MILLION BUBBLES IN MY MIND』(2007年『ワルツを踊れ Tanz Walzer』収録)。これらは、ボーカルメロディにセブンスの音が印象的に用いられている私の好きなくるり曲。『happy turn』では、このスパイシーなスケール感がギターソロに現れているのが私の目のつけた点です。

「よし、あつまって、このプロジェクトをいっちょやったるか!」(たとえば、アルバムをつくろう)というとき、くるりが手繰り寄せる、音楽の霊界につながった「ひも」。歴代のアルバムに収録されてきたくるりレパートリーに、セブンスの「うまみ」だか「しぶみ」だか「えぐみ」だかがことごとく顔を出しており、それが今作でも炸裂している様子から、くるりの面々の心の原野にはやっぱりエレキギターやらアンプやらドラムが転がってうわんぅわん鳴っているのであろう2分半の壮烈な遊び。ロック花火が煙をあげてじりじりと光彩を散らします。

RPGなどで、主人公らと敵陣が順番に行動して戦うシステムをターン制などといいますね。オレらの番、あなたたちの番。ターンがめぐる様子。運や健康面……バイオグラフィの起伏も、あっちを向いたりこっちを向いたり。スタジオや打ち合わせの場の卓上に、あの有名なお菓子が置いてあったのでしょうか。森さんを含んだくるりのターンの到来です。タムの手数の多いこと!やんちゃなベテランは最強。

ライブでこの曲をやるなら、こよりを使って「くしゃみの出待ち」で始まるのでしょうか。

参考歌詞サイト 歌ネット>happy turn

『Bus To Finsbury』(2005年『NIKKI』収録)
『LV45』(2009年『魂のゆくえ』収録)
『ミリオン・バブルズ・イン・マイ・マインド MILLION BUBBLES IN MY MIND』(2007年『ワルツを踊れ Tanz Walzer』収録)

I’m really sleepy

ほんまに眠いん?!

喉についた異物に憤怒しているみたいなボーカルの歌唱のニュアンスに、くさやのような旨味を覚えます。

歌詞の語尾が色々です。人格の統率がカオス……人間は生来矛盾していて、あっちいったりこっちいったりするもの。むしろこれがリアルなのであり、感情や意思のふらふらが、ひとつに肉体におさまっているのが不思議なくらいなのです。

そんなふらふらを汲み取ってか、コヨコヨとミュージカル・ソウ(音楽につかう楽器としてのノコギリ)にも似た「お化けチック」な音が部屋をチラチラ覗いているみたい(『お化けのピーナッツ』の伏線でしょうか)。

憂い気に伏し目がちに疲れ果てながらボソっと唇の先でつぶやくような訥々とした趣あるリリックなのですが、これがどうして音楽に乗るとスウィング感あるダウンビート。うきうきしながら観光地のさびれかかったお天気の坂道をおりて行きたくなるようなハッピーターン……じゃなくて、“ほんまに眠たい”。眠気と疲労の緞帳をかき分けた先の御来光といいますか、相反する趣、対比になる観念が同居することで作品が成立する音楽の定石がここにあるのを教えてくれます。

ベーシックを録りながらダイナミックマイクで歌もバーンと入れたような気勢(実際はどうかわかりません)。埋もれてたまるか!的な気概。『I’m really sleepy』というタイトルを忘れてしまいそう。ほんまに眠いん?!……とつっこみを誘います。曲調とタイトルの振れ幅に、曲名をつい二度見・三度見。『happy turn』と『I’m really sleepy』の曲名が真逆になっていたとしても信じてしまいます。

“リリックは、『happy turn』と地続きというか、友達なのにイライラしたり、身近な人なのに酷い態度をとってしまったりとかして、何を言っても話が通じないと怒りを通り越して眠たくなるよね、といったモチーフ。”

(くるり official (note)>『感覚は道標』セルフライナーノーツより引用)

あまりにも感動すると言葉がなんにも出なくなったりとか……信じられないような裏切り行為だったり常識を欠いた行動に出くわすと、怒りがわくよりもむしろ冷静にさせられたりだとか……「極端」に出くわした感覚を抽出して演奏とアレンジメントで昇華・浄化を図ったような、楽しげな雰囲気なのに楽しさ一辺倒では決してない……人間汁の混沌に筆が躍った独特の個性を感じる楽曲です。

ダウンビートののどかさ、拍の躍動感でThe Beatles『Penny Lane』(1967年、シングル曲)を思い出します。音楽の説得力は言葉の奥行きと通じている。くるりを聴いてThe Beatlesに通ずるアティテュードを覚える瞬間もしばしばです。

“佐藤さんによるリズム編集のあと、鍵盤類やハーモニーなどのダビングを施したが、ビートルズやビートルズ・フォロワーであるジェフ・リン、あるいはXTC的な方向に行かないように、ジョージ・マーティンならどうするかな、クラシックやジャズのコンポーザーならどうするかな、という感じで作っていった。”

(くるり official (note)>『感覚は道標』セルフライナーノーツより引用)

バンドの勢い(魔法)、反射神経で屋台骨を叩き上げる痛快さと、衣装選びやお化粧のプロセスの二重性がこの楽曲の独特な、一種の偏屈な感じ(うまくいえない)をブローアップしているのかもしれません。振れ幅のある魂を宿したひとつの肉体のリアル。伊豆生まれの『オー・シャンゼリゼ』感といいますか(うまくいえない……)。

参考歌詞サイト 歌ネット>I’m really sleepy

 Joe Dassin『Les Champs-Élysées』(1969)

朝顔

今、ここで起こる創作

360度から音が聴こえます。なんだこれは。凄い、傑作ではないか。この場所に立てるのは、くるり以外に誰がいるでしょうか。3人の足の裏を受け止める面積くらいしかない、伊豆の海岸の溶岩質(?)の切り立った絶壁のただ一点のような鋭い独創性。

“3人のなかで「禁じ手」のひとつだった、『ばらの花』的な何か、を即座に解禁し、瞬きする間に良い感じのトラックとメロディが出来上がった。”

(くるり official (note)>『感覚は道標』セルフライナーノーツより引用)

連なっていく幾何学模様のようなピアノのモチーフはまさに『ばらの花』。3分30秒頃、歌詞“氷を溶かすほどの痛みも”あたりの減音程系の不穏な響きに唐突に真正面からぶちあたるあたり。細部は違いますが、『ばらの花』の中間部、歌詞“暗がりを走る”のあたりの展開を思い出します。

それでいて焼き直しともリバイバルとも一線を画します。あくまで、自分たちの足跡もモチーフ(素材)のひとつとして扱い、承認はしつつもその視線もほどほどに新しい構造物を打ち立てます。創造、創作とはスクラップ・アンド・ビルド、元あるものをこわして異なる体裁の新しい内容にすること。『ばらの花』だったかもしれないものが随所にみえるのに、まったくの別物。顔面の骨格に面影があるのは、ただの偶然に思えるほどに別の人。

匂いがわきたつみたいに、プログラミングの音がたちのぼります。これがすごい。定位感が不思議で、立体が「視える」のです。アタックの落ちた柔和なフレンチホルンみたいな音が頭の後ろのほうから対岸に向かって茶を点てるみたい。右にも左にも、低いところから高いところまでいろんな音域に豊かな音がいるのでしょうか……残響づけや定位のオートメーションなのかわかりかねますが、音が全方位から、いわゆるアニメ界隈の人が「ぬるぬる」とでも表現するように、なまめかしく芽吹きます。

ドラムスのスネアの音もゲートがかったような際立つ存在感。SF的に思えるほどの輪郭です。収録した生音の扱いでこれを実現しているのでしょうか。『ばらの花』もがっつりしたコンプ感がありましたが、『朝顔』はより太くいっそうの深み。未来の知性体かと見まがう、ドラムのカッコいいサウンドの新提案に思えます。

ストリングスの音色など、うるうるのみずみずしさ。アタックが引っ込んでいてフワァッと立ち上がる。プログラミングだの生演奏だのの議論があほらしくなるほどに、オリジナリティのあるサウンドです。人工的に演出したダイナミクス感なのかわかりませんが、生来そういう音であったかのような扱いに成功していて、いっそう私にSF感をもたらします。『ばらの花』を超えて行っている。『朝顔』になってむしろ若返ったか。時間が進んだのか戻ったのか分からなくなります。

質感も何もかも違うのですが、私のお気に入りのひとつ、『How To Go』(シングル:2003年、アルバム『アンテナ』収録:2004年)を思い出す時空超越感です。瞬間瞬間の些細な感情の振れ幅とか、個別のモチーフや具体物の細部はそれとして、その頭の上の宙を行く達観、浮遊感・俯瞰。

感情への直訴とは別に、種々のピースを組み合せ構築した音の響きの新しさ・鮮やかさにこれほど感動したのは、これ以前にいつだったか思い当たるものに窮します(唐突に紹介させてもらえば、Radioheadの『Sit Down. Stand Up』。「音」に嗚咽するほど感動した覚えがあります)。

Radioheadの『Sit Down. Stand Up』を収録した『Hail to the Thief』(2003)

暗がりを走り抜けた「先」の朝なのか、前日譚なのか。己の足跡をネタにするも、ただ「きっかけ」(モチーフ)にしたに過ぎず、やっていることは「今、ここで起こる創作」。引用元(たとえば『ばらの花』)から経過した期間のくるりの歩みが香り立ちます。

『How To Go』(アルバム『アンテナ』収録:2004年)
『ばらの花』(『TEAM ROCK』収録:2001年)

California coconuts

再現と対比の両立

メロディ、和声、リズムの構造がシンプルかつ豊かに響いてきます。本当にイイ歌。聴くたびに泣けます。

ボーカルの表現の機微の豊かなこと。先行でシングル配信されており、初めて聴いたときから心をとらえるのはこのボーカルでした。Aパートではふわふわと豊かな残響が。歪んだギターが入ってくるコーラス(サビ)ではハーモニーが入ってきます。深く長い印象のヴァースの残響と対比をつけて、緻密に描き分けているでしょうか。3人の演奏を実直に、かつ豊潤に魅せる制作の手技が私の感知の外でも数多施されていることを思います。

1分35秒頃〜、歌詞“朝日はそこら中のかけらを払い除けて”以降のところ。2分43頃〜、歌詞“暖かい南の島から”以降あたり。いずれも、気持ちよくドライブしたエレキギターが両耳に電気を走らせます。この熱量感あるサウンドについていえば再現性・共通点があるのですが、音楽上の語彙……メロディやらコード進行がちがう、つまりサウンド的には「再現」を試みつつも新しいモチーフを登場させて、楽曲をずっと動かしていっている印象です。

“朝日は”……のところの最初の熱量あるところはボーカルも和音・低音も動きが多く、あとにやってくるハイライト:2分51秒頃〜“君の夢叶えるため”……あたりは低音が保続し響きが上声でうつろっていきます。「再現」と、「対比(性質のちがうものの提示・並列など)」の両立が図られており「ただのイイ歌」であることに甘んじない……聴くたびに新鮮な感動がある所以の一つでしょう。

後半の盛り上がりはボーカルの長めの音価が魅せます。Aメロではあんなにしおらしく繊細だったのに……岸田さんの素材としての声と、魅せる演奏としての歌唱が存分に出た、くるりの「歌もの」新決定版。歌ものは、曲のクオリティ(アレンジも演奏も全部……)やキャラクター(曲想、主人公像……)とボーカリストの個性がバチっとはまって素晴らしい作品が顕現します。シンプルで当たり前ですが、真理の図式に改めて頭が下がります。

『朝顔』はアルバムのボディ、この曲がどかっといてくれてアルバムの骨身・装いがしっかりする手応えを感じます。その次にこのシングルに相応しい抜きん出た歌が来る。Yes、感覚は道標。

MV くるり – California coconuts YouTube

window

半覚醒の響き

“スタジオは広くて旧い。スタジオの2階は大きな空間になっていて、そこに音を流し込むと天然のリヴァーブを録音することができる。”

(くるり official (note)>『感覚は道標』セルフライナーノーツより引用)

この気持ち良いショートディレイ感といいますか……やさしくて自然に輪郭のぶれた、淡く暖かい響き。スタジオの2階をエコー・チャンバーにしたようです(収録済みの音源をスピーカーで再生してその空間の響きをマイクで収録して利用する。別のアーティストの作品の話ですが、某スタジオのトイレの部屋鳴り:エコーチャンバーを利用した名作もあると聞きます)。引用元のセルフライナーをみるに、「残響のある場所で歌う」のでなく、“音を流し込む”とあるので私の想像している手法だと思って良いでしょう。

ゆったりと進行し、反復するシンプルなトニック-サブドミナント。曲が進み、ちょっとくせのある響きがときたま乗る、薫る。低いギターの響きが特異です。オープンDチューニングでしょうか。心拍数が低い……ゆったりとした血の巡りを思わせます。窓辺の温度感、豊かな光の量、色味。それをまどろみながら映しとる。半分スリープ、半分覚醒で、明瞭さと輪郭のぼけた質感が同居した気持ちよさ。『window』のタイトルが『I’m really sleepy』でも信じます。

私のお気に入り、『真夏の雨』(シングル『BIRTHDAY』収録:2005年)。日向っぽい光量感、温度感、ゆっくりと時間が進む感じ。ぴちゃん、と空間に伸びやかに王冠を描いて跳ねるみたいなピアノのエバーグリーン感が『window』と通じて思えます。

窓って、「通じている」。出入り口なのですね。風とか光とか。閉鎖空間になりがちなスタジオに、エネルギーの通り道がある。至上の創作環境です。伊豆スタジオはまるで子宮ですね。

1:46頃〜、クリーントーンのアルペジオの重音のギターソロ(っぽくないけど)が新しい。夢の中で思いついた音楽の忠実なスケッチに成功したみたい。記憶にあるあの音やらこの音やらが転がった窓辺を思います。

“そろそろ会えれば そもそも会えるかな まぁ 良いさ”

(くるり『window』より、作詞:岸田繁)

希望と現実、窓辺の偶然とおのれのバイオリズムの抽出。「響きのある音楽」について、いつだったかFrag Radio出演時に言及していた岸田さん。『window』を聴いて、その伏線がつながった気がします。

LV69

仙人のハニータイム

笑いました。このアルバムで一番、この曲で。プログレ? 教会音楽? ドラクエ(ゲーム音楽)のようなロックン・ロール。ヒーリング、瞑想?

ラヴドラムという珍しい楽器をいつだったか音楽をやっている友達に触らせてもらったことがありますが……あれとも違うのでしょうが、イントロからガムラン音楽につかうようなパーカッション。続いてすかさずバグパイプ。ガムランかと思ったらイギリスあたりに……地域が右往左往(“Panpipes”:笙(しょう)も入っているそう)。歪んだ低いギターが唸る。最低音でDが出るチューニングでしょうか。雑食……といいますか、広く幅のある地域や文化、歴史にまたがって自分たちの体温を移ろわせるロックの鑑。

The Who『Who Are You』(1978)を思い出すボーカルの描き込みです。The Whoもほとほと奇天烈な個性のあつまりといいますか、くるりの心の原野にいる人たちでしょう。

“バンドやるなら音大出て勉強しなさいよ”(くるり『LV69』より、作詞:岸田繁)

誰から誰への言葉でしょう。本心のようなハッタリ(冗談)半分のような。音大出るだけじゃなく、そこからが勉強の始まりです。

正直、バンドとかそういう質感・様式を含む音楽を志しているのが明らかでありながら、勉強のために音大のクラシック系の学窓を出た経験のある私として他人事と思えません。まさかのニッチな背中を射抜かれた気分です。とはいえ、世の中広し。いるところには、似た境遇や経験を持つ人はいるでしょう。遠回りしているように見えて、レベルを上げているのです(自己弁護……)。LV30、LV45、LV69……(お次は?)

一心不乱に突き抜けるビートに乗って先述のリリック、本心?のような唐突な箴言。歌詞が非常に洋楽的な響き。日本語でも英語みたいにバー(小節線)にまたがり、ひっかかり、勢いにぐらぐらと緩急をつけてリズム感を錬金。悪く言っているとの勘違いのないよう前置きしますが、意味やメッセージを拾うべく「ウィットの足りない脳」みたいなので応じようとすると「何言ってんだ?(笑)」感があります。良い意味です!期待を裏切るというか、超えていく。意味界隈に不干渉の一瞥をやったふうの言葉遊び……と片づけるのも私としては不本意。奥田民生さんの楽曲の多くにみるような、達筆な墨色の仙人芸を思わせるロックのリリックです。

高尚なんだけど、足元に転がってもいる。孤独なんだけど、地べたで車座。なぜだか、宗教音楽や多声音楽を想起します。神がかっているものとの特別なアクセスでもあるんだけど、日々の「祈り」であり、日常的な行動。

歌詞のある本編(?)を終えると、ベースも動きをみせはじめ、ベーシックにどんどん描き込みがなされ……笑いの呪文にかかる私。ゲームオーバーになったかな? と錯覚させるようにベーシックが止み……ですが仙人のハニータイムはまだ終わりません。呪文の効力はコンテニュー。呪文覚え過ぎなLV69。これでまだ69なの? ロックだから?

スキルもステータスも装備も人脈も充実するばかりの様相のくるり。魔法、かかってます。

doraneco

“ごめんね”の奥の愛とブルース

“『感覚は道標』サウンド面において特徴的なトリクソン・ドラムの荒っぽい音色が、これでもかと大胆に響き渡るトラックになっている。

ブリッジも、コーラス(サビ)も無い構成。ヴァースのモチーフだけで、ここまで説得力を持たせることができるとは。いがいが根のパワースポットっぷりはすごい(中並)。”

(くるり official (note)>『感覚は道標』セルフライナーノーツより引用)

ⅠとⅥm6を繰り返す感じのヴァース。ごくシンプルですが、Ⅵm6……シックスの音がスパイス……というかこのアイディアも本体のアイデンティティのひとつになっています。ヴァースのモチーフ、あるいは楽曲の主題(doraneco)がドカドカしたドラムスと響きあい。猫との転々とした思い出を勝手に想像。

1コードに4小節ずつかける繰り返しかと思いきや、0:55あたり(“目の上のたんこぶ 別に何が”……)をお聴きいただくと、Ⅵm6を2小節で切り上げて、次の流れ(Ⅳ)に進行します。

“別になにが”(Ⅳ)=2小節。“あったってこ”(Ⅱm)=1小節。“とはないけれども”(Ⅴ)=1小節。

どんどん1コードにかける時間を短くしていき、響きの動きに勾配をつけています。

“別になにがあったってことはないけれども”のラインを言い終えたあと、1:02あたりでは1小節のⅠ(トニック)の間をもうけたのみで、すぐさま次のヴァースライン“そんな風に”……に入ります。

出口付近に向かうにつれて動きに勾配がついた印象。このブロックの再現が1:04あたり以降の流れになりますが、次ブロックのおしりのライン、“会話もするけど中身はない”の末尾、“ない”の部分(1:37頃)がさっきとは違ってハミ出しています。小違いが巧妙です。

これ以降はオープニングのように1コードに4小節かけてⅠとⅥm6を繰り返す流れ。勾配を抜けて、また平坦な道でリスナーの息を整える猶予をくれます。

こうしたヴァースの幕間にも、いかにもドラネコを思わせる、喉に引っかかったようなフックのあるサウンドほか、にぎやかなトーンたちがミャウミャウ、ゥワーォと猫の息吹の表現のよう。16分割で同音連打するデジデジした音がリズムを描き込むなど、ゲーム音楽っぽいアティテュードが覗いていたり、『朝顔』や『ばらの花』の残り香のようなピアノのモチーフが背中を伸ばす猫よろしく何気なくフロアを闊歩。

平坦な道で息が整ったら、2:06以降でヴァースの流れがまた来ます。BGVが柔和なハミングっぽい声色でモチーフを描きこみます。ドラネコへの、優しさとか愛情とか、あるいは優しさや愛を注ぎきれなかったやるせなさ、後ろめたさ、後悔や憐れみ……想像が過ぎるかもしれませんが、猫と飼い主サイド両者の共存関係、足跡をありのままに認める様相に感動を覚えます。

ドラネコ=主人公が飼った猫であると同時に、主人公側でもあり、人間たち一人ひとりであって、私やあなたの分身。コピーといったらドラネコに失礼かもしれません。私やあなたの方こそ、あちらさん(ドラネコ)にとっての分身かもしれない。私たちみんな、ドラネコなんだと。私たちリスナー、くるりの面々一人ひとりのテーマソングにも思えます。

最後のヴァースはおしりにⅡm(2小節)・ Ⅴ(2小節)の尾ひれがついて“なんとなくやっぱり気になるいつもごめんね”と素直な心情が吐露されます。アルバム『感覚は道標』収録曲においては、意思や感情を伝えるべく率直に表現した言葉は比較的、稀有な存在に思えます。たまにこういうホロっとした言葉が垣間見えるのが、『感覚は道標』に限らず、くるりの楽曲群のわびさびであり魅力であることに同意してくれる人はきっと私以外にも多いはずです。

直接的な愛情や親しみの感情のようなものを奥に宿しつつも、表にあらわれるのは「ごめんね」と、ちょっと俯きがちなメッセージ。こういうやるせなさって私の思う「ブルース」の本質だと思うのです(音楽ジャンルとしてのブルースへの精通、ブルースの具体的な知見や体系的な学は私にはまるで足りませんが)。根底は「悲哀」とか、愛と抱き合わせの憐れみ、みたいなもの。私自身も音楽をやる者のはしくれであり、そのアイデンティティ、源泉たる感情のひとつが悲哀であると思い当たるふしがあります。私が『doraneco』を、自分を含めたみんなのテーマソングであるように感じる理由。

“レコーディング・セッションの舞台、伊豆スタジオから歩いて10分くらいのところに、「いがいが根」と呼ばれる断崖絶壁がある。その近辺は、太平洋に傾れ込んだ溶岩が冷え固まった台地で、海の際に荒々しい溶岩流の痕跡を遺している。

その辺りを散歩している時、どうにも頭のなかにメロディと、ハーモニー、そしてシンプルなリズムが鳴り止まなくなった。”

(くるり official (note)>『感覚は道標』セルフライナーノーツより引用)

パワースポットがもたらす霊感が何者かを憑依させ、時に岸田さんは楽曲のモチーフをこの世に顕現させるのかもしれませんが……憑依するのは何者かといえば、私やあなたや、いなくなってしまったどこぞの猫やらの一部だったりするのでしょう。ひとりよがりが過ぎる解釈でしょうか……

1分間を超えるエンディング。2拍目に、主和音に対してシックスの音で猫の声を思わせるモチーフが鳴き続けます。会わなくなっても、会えなくなっても、君の存在はずっといる。

参考歌詞サイト 歌ネット>doraneco

蛇足ですが、ヴァースの小節数のコントロールの巧妙さで思い出すのは、シンプルなコード進行で聴かせる達人、ジョン・レノン氏。くるり『doraneco』を聴きながらたとえば『パワー・トゥ・ザ・ピープル』を思い出しました。こちらも、質感はまったく異なりますがみんなのアンセム(テーマソング)として私の中でつながります(無理ある?)。

『Power to the People』。ジョン・レノン、プラスティック・オノ・バンド のシングルとして発表(1971年)。ヴァースが6小節でヒョイとコーラスへいきます。

馬鹿な脳

闇とのお付き合い

“くるり、や、私のことを「変態」と揶揄する声もあるが、それはこういうリズムのものを複雑やハーモニーで演奏するからだと思う。メロディは普通だと思う。”

(くるり official (note)>『感覚は道標』セルフライナーノーツより引用)

どあたまからⅤの第1転回形を半音ずつ下行させ、サブドミ/サブドミマイナーの第1転回形を経由してⅠの第2転回形に着地しそうになりながら変則チューニングのLow Dの怪しい響きに接続。すかさずスライドギターのリフっぽいオブリ。ポルタメントでずり上げる、地鳴りがしそうな金属質なトーンが火を噴きます。なんだか魔術的。

ウォーキングベースを聞くと大概ご機嫌でウキウキした感じになるものですが、『馬鹿な脳』では凶悪で粗忽なエネルギーが爆発しています。外からは見えない、ニンゲンの最も重要な機密。そこから溢れ出るヤバい汁を、黒装束着て嬉々として採取し秘薬を錬成しているみたいな……(妄想)。

森さんを含めた3人のセッションでなければ生まれえない、『感覚は道標』のコンセプトがストレートに顕現した強みを思います(もちろん全曲そうでしょうが)。

コーラス部分、ベースがⅲ→ⅳ→ⅴ→ⅳと動くパターンに浮遊感と爽快感を覚えます。この点もいかにも「くるり」らしく、響きがどんどん動いている印象なのは転回形をフラフラしているためで、和音の機能面で見たらトニック→サブドミ→トニック→サブドミを繰り返しているシンプルなロックンロール・ブギーの様相なのです。

ヴァースもコーラスもドアタマが転回形になっているのですね。見え透いた帰結感や予定調和をブン投げてからコトをおっぱじめるアティテュードを感じます。1:56頃では長2度下に転調(D調→C調へ)。ガチャガチャしたウワモノを抜いてオルガンに譲り、熱量を間引きます。元調に戻る動きも不穏極まりなく、フラット・ファイブやオーグメントの響きを渡り安寧にグラグラと脅しをかけ、先述のアタマから転回形のコーラスに再び接続。元のD調に戻ります。

ガチャガチャした音量・熱量のリズムと、流れ続けていくハーモニー。ラフティング(川下り)しながら防水のブルートゥースイヤフォンで聴きたい(やったことないですけど)。ライブで聴きたい。そのためにあるような曲といったら録音作品としての『馬鹿な脳』に失礼かもしれません。ギターやサスティンするトーンの構築の手厚さよ。スライドギターのリヴァース音のコラージュとか……3人で勢いでガチャっとやっただけでは簡単にこのアレンジには至らないでしょう。

きついコーラスエフェクトをかけて揺らしたような「コヨコヨ」いっているトーン。似ている音がほかの収録曲にも見られます。ノヴェルティ・ソングっぽいイロモノ感といいますか、ファッションでいったら着崩しの塩梅がスタイルの確立した音楽を自分たち色に染めます。着崩しなのか、着こなしなのか……。

アルバム『The Beatles』(1968)収録、『Wild Honey Pie』のすごいコヨコヨ感を参照しておきます。

“たまたま読んでいた『脳の闇(著・中野信子)』という本から着想を得て、脳、そして気分についてのモチーフを広げながら書いた。”

(くるり official (note)>『感覚は道標』セルフライナーノーツより引用)

“お前の悩みは誰も触らない 知ったところで窮屈になるから そんなお前の気持ちを知っても 迷って悩んで 決めかねて間違うから 涙止まらない”

(くるり『馬鹿な脳』より、作詞:岸田繁)

転調した中間部の歌詞あたりに、セルフライナーノーツで述べられている中野信子さんの著書『脳の闇』の影響を感じます。読み筋が絞りづらいラインで、扱いが難しくもあります。「ひとの悩みなんか知ったら、窮屈になるのはどんなに承知のうえであっても、知っちゃったら迷って悩んで決めかねて間違うことに抗えない。だから、涙。」といった解釈を立ててみましたが……

「お前」に自分自身を代入するのが分かり良い気がします。このリリックの語り手は、自分自身に向かって言っている。そう解釈すると、「涙を流す人」と「悩みを持つ人」の人格が一致し、感情に臨場感が出てきます。“涙止まらない”を含む前後、転調部分からコーラスにかけて文脈がまたがっているのも音楽上の「ブリッジ」的な機能を感じます。『馬鹿な脳』以外にも、『感覚は道標』各曲のリリックはところどころ、単語や文章のまたがり方が独特です。

参考歌詞サイト 歌ネット>馬鹿な脳

世界はこのまま変わらない

君が居れば世界は変わる

(2:44頃、“ちょっちゅね”って言ってます? 笑いました。)

『馬鹿な脳』と同窓生で地元が一緒といいますか、言語感覚を共有したようなつながりを感じます。しょっぱなから、スライドのアコギをずり上げてブルースの市井。

図:くるり『世界はこのまま変わらない』リフ採譜例。

マイナー・ペンタトニックスケールに半音進行を絡めた感じの、苦み冴えわたるリフレイン。オルガンでしょうか、ピチョピチョしたトーンとエレキギターがこのリフレインに集います。はじめはミュートを利かせて、だんだんオープンに歪みトーンの味わいが刃を抜きます。ベースもこれに半分くらい付き合いつつ、ポジションが高くなりすぎないところで下のほうに戻る。こういう、地元のヤンチャボーイとの付き合い方が上手いクレバーな人が学年に一人か二人いたりしますよね。

ドラムスのパターン、タッタッタ、タッタ……ギターやスネアの移勢のリズムと4つの強拍の恒常性。ずりあがるリフ、ミュートしたリズムギターのカッティング。リリック・歌唱も一体になってリズムを際立たせます。

図:世界はこのまま変わらない リズムのアクセントのイメージ。

ボーカルメロディもマイナーペンタトニックのはしごを用いて小躍りするヴァース。ブリッジというのかBメロのところで、Ⅲ→Ⅳが明るい響きへの兆し。コーラスは同主長調へ。暗雲が吹き飛び晴天に変わる気分です。

3:01頃〜の生ギターが目立つ静かなコーラス、低音位が転回形をとり和声も複雑に変化する音楽的語彙の運び方がとても『馬鹿な脳』とシンパシーで、ここらへんが楽曲の根底に同級や同門の関係を感じさせるゆえんですが、バンドで音量を出す「通常運転」のコーラスはどうでしょう。複雑な和声を拒むように、あえて下行していくベースに従って、省略の効いたシンプルなパワーコードでマイルドにドライヴしたギターを感じませんか。マーク・ボランズ・ブギの血縁かと思わせる骨ばったサウンドです。

T.Rex『Electric Warrior』(1971)

『馬鹿な脳』のほうには、中野信子さんの『脳の闇』という特定の発想元がありますし、最初から何もかも蜜月という感じではもちろんありません。高校生くらいの頃に出会って仲良くなった話の通じる友達……くらいが、『馬鹿な脳』と『世界はこのまま変わらない』の関係やシンパシーを喩えるのに適当な塩梅か。

印象的な謎の呪文(といったら原語に失礼?)は南アフリカ共和国国歌、コサ語・ソト語?のあたりに参照元を見出します(参考リンク・世界の国歌・国旗研究協会サイト。“Maluphakanyisw’ uphondo lwayo/Morena boloka setjhaba sa heso”……原語の正しいニュアンスや機微のディティールはともかく、観念的にとらえるに運命共同体の栄光や平和を願うことばに思えます。

“コサ語による対旋律も、陰謀論や増税、不定愁訴を愚痴るリリックも、勢いから感覚的に出てきた適当の産物。”

(くるり official (note)>『感覚は道標』セルフライナーノーツより引用)

世の中に物申してやる、みたいな鼻息を荒げる姿勢から来た表現ではないことは、くるり作品の前例からも、上に引用したセルフライナーノーツからも明らかであるのを念押ししておきます。もちろん、世界のありのままの様相は、客観的な観察によって拾える素材であることに変わりはありません。”Invoice”などという時事を思わせる単語も採用している。音楽や歌詞上の多様な語彙と社会のまじわりを偏見なく、かつ偏愛的に柔軟に扱う姿勢がみてとれます。

3:01〜3:21頃、バードコールの音色。ほか、多種多様な躯体の鳥を思わせるにぎやかな「鳴き声」。『Across the Universe』のバードバージョンを思い出します。熱帯雨林で朝を迎えた気分です。

The Beatles『パスト・マスターズ Vol.2』(1988)

歌詞“世界はこのまま変わらない 君が居なければ”の解釈

hello my friend世界はこのまま変わらない、君がいなければ。

このリリックは流れてしまうと、はぁそうですか、て感じだと思うので補足すると…。

①あなたは友達。あなたがそばに居るだけで、世界が違って見える。

とか、

②オマエと友達になれそうかも。多分オマエはこの世界を変えるくらい凄い。

とか、

③やっぱりあんたが居ないと締まらねぇわ。自分で気付いてる?

とか。

色んな解釈してみてね。

(くるり official (note)>『感覚は道標』セルフライナーノーツより引用)

“I just refrain cause lose my faith in you 世界はこのまま変わらない Hello my friend and brother! Can you hear me? 世界はこのまま変わらない 君が居なければ”

(くるり『世界はこのまま変わらない』より、作詞:岸田繁)

世界が、誰にとっても絶対的に望ましい姿になることはありえない……希望を肯定する立場からしたら、そんな冷たい言葉を投げるのはひどいかもしれません。けれど、「こうだったらいいな」という姿の世界と、現実の世界にはギャップがあります。個人が望むその世界の姿は、誰にとっても最上の姿ではありえない。みんなの集合的な望みのホドホドのところに落ち着くのが、夢のない言い方かもしれませんが「現実」という奴です。そいつと、私やあなたは、ものぐさでも蜜月でもなんでもとにかく「お付き合い」せざるをえない。この世界で生きることは、現実と共存すること。ちょっと希望を冷視した酸っぱい言い方をすれば、「折り合う」ことかもしれません。

それにくらべれば、私個人とあなた個人の、個人同士の付き合いというものは、かなりコントロールのきくものだし、理想に近づけるお互いの努力で、相当に良い関係が築けるし保てると思うのです。『世界はこのまま変わらない』の語り部と「君」は、そのシンボルだと思います。

現実の世界は、「集合のなかに含まれた私の希望」くらいなら映してくれるかもしれませんが、私の個人の希望に忠実な姿にはそうそうならないと思うのです(「私個人の望み」の精度を高める努力をすることで、近づく可能性はあるでしょう)。

そうした意味で、なかなか世界は変わっちゃくれない。“世界はこのまま変わらない”。だけど、それよりは、「君」と私の関係は手を伸ばせば届くところにある事象で、コントロールが効くし、お互いの努力が比較的確実に結び、快適で良好な成果を映してくれるはずです。どうせ変わっちゃくれねぇ世界なんだから、ちゃんと変わっていける関係を築ける“君が居なければ”すなわち、「世界は頑固だけれど、柔軟に関係を築ける君がいて良かった/君がいてくれたことがせめてもの救いだ」「”世界はこのまま変わらない”という厳しい現実において、君の存在は必須である・君が居なければならない!」という読み筋を私は見出します。

もっとシンプルに、「基本、“世界はこのまま変わらない”のだが、君がいればその限りではない!(変わる可能性がある)」というのが素直な解釈です。コーラスの開放的なサウンドと、イントロやヴァースにみるビターなスケールやリズムテイストの対立構造が素直に映り込むのはこっちの解釈でしょう。

現実の酸っぱさや頑固さ……といいますか、非情なまでの「思い通りにならなさ」を象徴するのは、3:48の瞬間に一発、着実に積み上げた人生の足跡に波乱や転機をもたらす不測の事態をお見舞いする、D7#9のコード……いわゆるジミヘン・コード(革新だ!)。

イントロのパターンの再現がエンディングでなされつつ、なんだかみんなで「ハァハァ」いってたり「ウー!」と唸るのか気合いを入れるのかして気勢を上げ、バー(小節線)の一番端までをリズムで埋めてテープが止まる……さぁ、世界はどうなる?

参考歌詞サイト 歌ネット>世界はこのまま変わらない

お化けのピーナッツ

理想とコンプレックスのサンバ

ゆらめくオルガントーンがお化け感。天井から吊る下がってヒュードロドロ……的な冷感あるトーンでリズムを添えます。なんだかスプリングリバーブ?がピチョンピチョンいいまくりなのはギターアンプでしょうか。冷やっこいのだけど、音楽のスタイルは南国、サンバの様相。アゴゴベルが音頭をとります。

コントラバスのトーンのなんと深みあること。16分の装飾を引っ掛けたようなグルーヴィなストローク。1小節に4拍を強調します。イントロは音を短く止めてタイトなプレイ。佐藤さんの器量に楽器が応えているみたいです。

ディープな音色のベースに対してスネアはパツパツとテンション高くハリのあるトーンです。『感覚は道標』はドラムス類のサウンドが多彩で、そこに着目しても1周2周と楽しめます(「もっくんのアルバム」、とでも称賛したい)。

短調のニオイがいっぱい。歌謡曲に通ずるような、7インチのシングルレコードをばら撒くように売り捌いてほしいような。良い意味での「インスタント」さ、「ハイ、できました!」的な粒の良さ、テキパキ感。昔の歌謡曲とかって、職人の分業で、演奏もプロのスタジオミュージシャンがやって、歌手も譜読みが早くて(想像、脚色込み)表現技巧が卓越していて、ポンっとシングル曲がどんどん出ていくみたいなイメージ。

サンバ的なもろもろのエキゾチックをわかりやすく憑依させているところも、歌謡曲が世界の音楽のいいところをサっと取り入れて歌手の魅力にコミットする柔軟さ、反射の速さと通ずるものを感じます。くるりも、職人集団な一面……どころか多方面に職人だと思います。ヴァースとコーラスがシンプルに入れ替わっって構成される形のよさ。カオスなテクスチャもふんだんに放り込まれているこのアルバムで『お化けのピーナッツ』が良い意味での光……いえ、光を吸い込む闇のような引力。

“サンバは勿論、というよりはラティーノ……カリプソ、サルサ、メレンゲのビート。ブラジルやキューバ音楽のテクスチュア。かつての日本歌謡にも、素晴らしい作編曲家や演奏家たちによって、それらのビートを馴染ませ取り入れられた。そしてそれらは現代のJPOPに至るまで、日本のポップス史を語るに外せない、重要なビートの要素になっていると私は考える。”

(くるり official (note)>『感覚は道標』セルフライナーノーツより引用)

陽気なサンバ……でなく、これを短調で形のよいウタモノに仕上げたところ。モチーフもお化けだという点でユニーク。ピーナッツはくるりの既出レパートリーのコスプレ的モチーフでしょうか。果敢な雑食性と趣味の広さで拾う異国の匂いと、わが国の歌謡っぽい臭みに、自分たちの足跡にあるモチーフや「お化け」といった規格外なモチーフをかけあわせたゴールデン・ドリップ。私のツボにはまる形のよいピーナッツ……と思ったらピーマンに化けている。プリっとしていて苦い。

短2度でウジウジしてみせたり、ポーンと景気よくオクターブ上がったり、リズム的にも緩急豊かなボーカルのメロディラインが愛嬌たっぷり。1970年代くらいに時間旅行して、当時の歌手にこれ歌って!と渡してみたい。歌謡歌謡と私が騒ぎ立てていますが、ボーカルのリズムやピッチの粘り気にブラジル音楽もろもろへの表敬を感じます。あるいはさらりとしてはがれの良い繊細さよ。

図:くるり『お化けのピーナッツ』ヴァースのボーカルモチーフのイメージ。

“そばにいてほしいな ひとりじゃ寂しいな 誰も彼も何も言わないし”

(中略)

“お化けになりそうなおれたちは 誰も相手になんかしてやくれないし とぼけたところでバレバレさ 素直じゃないと置いてくよ お化けが来るよ”

(くるり『お化けのピーナッツ』より、作詞:岸田繁)

若い人にはみんな、かまうじゃないですか(赤ん坊なんて構ってもらうことで生きていけます……極端いえば)。キャリア、年齢を重ねていくと……次第に透明になって人から見えなくなっていくみたいに、お化けになっていく。抗いがたい世の冷風。

凄いモノ、抜きんでたモノに大成するという意味での「お化け」もあるでしょう。技量がずば抜けて高いその道のエキスパートのことを、称賛を込めて「お化け」と呼ぶ。「愉快」だったピーナッツ、今や私やあなたの「ロックお化け」……気配を感じます。

“全てをポジティブに、自動運転のような爽快さと快活な笑顔、思った通りになる楽しい出来事、快活な日々こそが、私の夢そして理想だ。

これが私のポップの象徴、ピーナッツ。

うまくできない、どうせ私なんて、うまくやってる彼らが羨ましい、頑張ってることに意味があるよね、全てにおける後ろ向きな皮肉と停止しそうな思考。

これが私のコンプレックスの象徴、お化け。”

(くるり official (note)>『感覚は道標』セルフライナーノーツより引用)

ピーナッツとお化けは、対立するモチーフともいえそうです。コンプレックスとはいわば理想と現実の落差。両者を含んでおり、両者を認識している者だけが持つ知覚です。

自動運転のような爽快さ” “思った通りになる楽しい出来事”と聞くと私は指揮、作曲や編曲(特にプログラミング)などを思い浮かべます。さまざまな媒体・形式の表現、芸の道に心血を注ぐ人の観念的な理想。ときに知覚するのが難しく、迷い、惑う。姿が、フォルムがはっきりしないもの……なんだか「理想」も「お化け」も似たものに思えてきます。とりあえず、サンバ踊りますか。

参考歌詞サイト 歌ネット>お化けのピーナッツ

くるりのシングル、アルバム『魂のゆくえ』(2009)収録曲『愉快なピーナッツ』

no cherry no deal

合宿の夜にブラック・ジャック

“くるりはたびたび、1990年代オルタナティブ・ロックの要素を根幹に、楽曲を作り演奏している。”

(くるり official (note)>『感覚は道標』セルフライナーノーツより引用)

この長文をこれだけ読んでくださっているあなたはお気づきでしょうが、私は各音楽ジャンルについての歴史や変遷、その具体的証左や根拠に明るいわけではありません。ですので、何が1990年代のオルタナティブ・ロックなのか、それを決定づける要素とはなんなのかについての正しい説明は他に求めていただくのが賢明です。

私個人が寄せる思いとしてオルタナティブのアイデンティティとは何かを開陳しますと、「新しく、取って代わる(替わる)もの」。それまでの文脈を、引用し、ときに破壊し、新たに台頭するものごとです。(皮肉なことに)実際に台頭できた・頭角を露にできたかどうかよりは、新しく取って替わるべきものごとの創造に対して意欲的な態度を示たかどうか、そこにチャレンジできたかどうかが私にとっての「オルタナティブ」性です。(そこに、「ロック」が付くわけです。「ロック」だけでも、語るべき論旨が何万項あっても足りないであろうというのに。その引用と破壊、創造を試みるなんて……)

『no cherry no deal』が私にとって面白いのは、調性がフワフワしてはっきりしない第一印象です。いったいどこに腰を据えて聴けばよいのか?

“フェンダーさんからいただいた(ありがとうございます。。)マスター・ビルダーのテレキャスター・シンライン。ハムバッカー・サウンドは太く強い。久しぶりにパワー・コードでバッキングを弾いた。”

(くるり official (note)>『感覚は道標』セルフライナーノーツより引用)

炸裂する、空虚な完全音程を平行させるギターの鮮烈でコシの強い攻撃的なトーン。このサウンドの麻薬性とビートの疾走感にひたすらに酔うだけ、というのも、『no cherry no deal』の薬効をキメる用法として然るべきものです。

非常にシンプルな構成。イントロ、ヴァース、コーラスを2コーラスぶん、きれいに繰り返します。ヴァースもコーラスもイントロ(アウトロ)パターンもすべて各8小節です。ギターソロが8小節ついて、最後はヴァースを欠いてコーラスの再現がつき、アウトロ。ほぼジャスト2分でキメ。『虹色の天使』『THANK YOU MY GIRL』などを思い出させるサイズ感と熱量の濃縮汁。

『虹色の天使』を収録した『NIKKI』(2005)
『THANK YOU MY GIRL』を収録した『THE WORLD IS MINE』(2002)

私が感じるに、ヴァースはDナチュラルマイナースケールをⅱ・ⅵ抜きにした、マイナーペンタトニックスケールっぽい。これをパワーコードのOmit3フィールで演奏しますから、調性が無記名っぽいわけです。

コーラスに入るとどうでしょう。ベースラインを聴きます。「ミミミミ ファ♯ファ♯ファ♯ファ♯ ラララシー……」うにゃ? 響きが……スケール(音階)の地平が高揚しました。

「解釈」などという烙印を押してよいのであれば、私はヴァースはDm調、コーラスはEメージャー調ととらえます。コーラスはメインボーカルの音程がナチュラルDで入りますから、Eメージャーと違うのでは? ここが私の(勝手に)思うくるりの提示するオルタナティブ性であり新しさであって、いきなりⅠ7(E7)をかましているような味わいを私は拾います。Ⅳ(Eメージャー調においてはAのコードの響き)に進行したくなるドッペルドミナントというほど大仰なものに感じるかといわれればそこまででもなく、ロックやブルース、ジャズなどにおいてはいわゆるブルーノート(3♭、6♭、7♭)のトーンが「調性?どこ吹く風ぞ?」的に頻出しますからその程度の粘り気の発露のようにも感じます。Eメージャー調で、|Ⅰ7 Ⅱm|Ⅳ Ⅴ|の2小節パターンを反復している感じが、私が『no cherry no deal』のコーラス部分に押しつける理性の拠り所です。とはいえ、律儀にダイアトニックの響きを踏襲するのでなく、ギターの1・2弦あたりをずっとドローンさせて開放弦の倍音を着服しまくるロック乱痴気騒ぎです。

開放弦をドローンさせ、羽を広げたオスのクジャクみたいな派手な響きでいったいどの音がその瞬間その瞬間の和声音なのか? なんて私のみみっちい粘着を蹴散らし、エレキギターとアンプをギャンギャン言わせてベースとドラムスが疾走。

ボーカルは「メロディアス」であることに反論するように、リズムに依ってポジションを跳ばすヴァースと食ってかかり順次下行しパワーを出すコーラスのシンプルな起伏。調性感に反論するOmit3(パワーコード)、なおかつヴァースメロディの僅かなナチュラルマイナーの調性感でさえ否定し開放的で広々した響きで対抗するコーラス、この対立構図よ。

コーラスは全編に渡ってAadd9だけを狂ったように弾きちぎったとしてもバンドに加われそうなほどで、ひょっとしたらEキーのサブドミだけを8小節間鳴らしきって駆け抜けたような様相もあり、そう解釈すると上行していくベースの浮遊感にいっそうスポットライトが当たる味わいが知覚できます。

くるりの3人が集まってそれぞれが有するロック・ブロマイドを伊豆スタジオのフロアに投げ合い、いまこの瞬間にスっとする・フワっとする新しい「役」を成立させた。合宿所でお菓子をつまんでよなよなトランプ遊びするそれと通ずるのは義務感より自由度・趣味性・享楽性が勝るところくらいで、「オルタナティブ・ロックとは何か」を語るには学不足な私ですが、「なんだこれは?!」という「オルタナらしさ」のいちばん表層であり深層でもある感覚を『no cherry no deal』に見出します。

歌詞は全編英語。ヴォーカル・ミュージックのスタイルをはっきりと有した楽曲で、完全に全編英語のくるりレパートリーに私は初めて出会いました(くるり通のあなた、他にありましたっけ?)。

一聴したときにパっと思い出したのはU2の『Vertigo』。アップル社系の何かのCMで知って、サウンドの粗忽な感じと開放感のギャップにシビれてアルバムCD買ったのを思い出します。

『Vertigo』を収録したU2のアルバム『How to Dismantle an Atomic Bomb』(2004)

In Your Life (Izu Mix)

痺れる再会

ベースラインの動きとトップノートの動きを食いのリズムで表現したギターリフ。弾く弦の数を絞ってシンプルな印象を与えつつも、ベースとトップノートの関係を短7度や長7度で濁しテカりを抑えています。おしゃんで振れ幅のある豊かな響きの追求を3人編成のギターロックバンドのスタイルで試みるところが「この3人によるくるりらしさ」でもあり、スタイルの継承と破壊+X(未知数)の塩梅に新しい光を見出す「オルタナティヴ」的なアティテュードが心にビンビン来ます。

図:『In Your Life』ギターリフの採譜例in G (原曲は in G♭)。「食い」の直後に休符を入れると原曲に近いニュアンスが出る気がします。

メインボーカルとリズムギター、ベースとドラム。アルペジオを添えたりじゃらんと一回弾いて伸ばしたりするだけのセカンドギター。ブリッジ(というのかしら、Bメロ?)やコーラスを彩る、いてくれてサンキューなオルガン。あとはハーモニーのBGV(声)と、間奏のソロギター。油で焼いただけの上等な肉、粗塩をしっかり振って、ちょっとコショウを香らせてドンとご飯に乗せたような……一品料理のシンプルさの背中の自信に高まるリッチ感(背徳感?しらねー!とかっこみたくなる丼)。

シンプルにみえてリズムとハーモニー的なフックがばっちりなリフ。和声がベースの転回とともに変化し、ボーカルメロデイの動き、各パートの演奏におけるオープンなトーンとともに豊かになっていくコーラス。ゴハンと肉だけ(じゃないけど)でちゃんとウマイのは、リズム・メロディ・ハーモニーそれぞれの要素のツボをベーシックリズムとボーカルメロがおさえているからでしょう。

『朝顔』が『ばらの花』を思い出させるなら、『In Your Life』は『ハイウェイ』でしょうか。歌詞にドライブを直接〜間接に想起させる表現が随所に顔を出します。確かなアクセントと安定したビートで紡がれる前半の様子はとくに『ハイウェイ』と重なるところですが、やはりコーラスの部分が『ハイウェイ』の未来に行っている。

“あの場所へ向かえば あの場所へ向かえば あの痺れるような 出会いを思い出せるかな”

(くるり『In Your Life』より、作詞:岸田繁)

未来に行くのですが、やっぱり胸に、足跡を全部持っているのです。それはどんどん増えていく。同じ場所を、時を改めて訪れた時、知覚するものが変化している。新しい発見がある。かつて聴いた音楽を、自分の成長を経たのちじっくりと聴き返したときに得る、まるで違った新鮮さのように。

同じ場所だって、ずっと「同じでいる」わけではありません。街だって道だって代謝します。変わっていく。あの頃を思い出して、会いたい人に会ったら、予想した以上のことが起こるのです。お互いに変化しているし、再会の舞台(場)がもたらすパワー、インスピレーションも車窓のようにとめどなく流れ、生まれ変わり、変容していきます。

歌詞“あの痺れるような”の、「痺れる」の瞬間で和音はⅥmへ向かうセカンダリードミナント、ベースは下行しボーカルは調性外の音に上行……反行しあって広がる響きの緊張感。胸を締め付け、ホロリと来ます(ブラボー)。言葉と音楽上のドラマが相乗する魔法に出会うことは、ボーカル音楽(≠大衆歌)を生み出したり鑑賞したりする至上の幸福です。痺れるよう。

図:『In Your Life』コーラスのボーカルメロディ採譜例in G (原曲は in G♭)。思い出せるかな末ではさりげなくブルーノートでわびさび香る。
くるりのシングル『ハイウェイ』(2003)

aleha

未来と過去といまが重なる足跡

アルバムを通して聴いて泣き、曲単位で聴き返しても泣きました。時折ざらっとしてほろっとするボーカルの哀愁は『In Your Life』『California coconuts』といった配信シングル曲にも顕著。岸田さんのキャリアを祝福したい。儚く、えもい。

6/8拍子でしょうか。近作では『愛の太陽』を思い出します。

くるり『愛の太陽』(2023)

“『感覚は道標』には、バラードが少ない。寓話的な動作や会話よりも、自白的なリリックが多いし、フォーキーな音楽よりは、ビート・ミュージックやロックンロール、ハードなオルタナティブ・サウンドが多い。バンドのジャム・セッションからスタートしていることと、私が歌詞を書く時もメンバーやスタッフと会話しながら作っていったからだと思う。”

くるり official (note)>『感覚は道標』セルフライナーノーツより引用)(ぜひ全文をお読みください)

心をヤられてしまう。自分の考えた曲であっても。心をヤられるで済むのであればまだよいかもしれません。社会の一員としても個人としても、自分の発想したものに左右される。それくらいの力をふるうことがある。自分がこの世に顕現させたものであっても、そこには、どこかの誰かの胸にあった想いが紛れこんでいる。というか、そういうものが巡ることで、私やあなたの体や心は組成されている。

自分のもの想いに呑み込まれ、溺れそうになる美しいバラードです。

海の音が、はじまりを綴り、物語の本をパタンと閉じる「伊豆の音」だと思いました。ラジオで岸田さんが語ったことによると、実は日本海の音だそうです。

京都でうまれたバンド、くるり。『東京』でデビューして、実際に東京に拠点を移して、紆余曲折あって(雑)、森さんと袂を分ち、伊豆で再会し……心の海は京都の海、といったところでしょうか(「日本海」が京都かわかりませんが)。

Gメージャーのおおらかでのどかな調性感のなかで、副次調ドミナントの緊張感ある響きをふんだんに込めて、低音も和声もいっぱい動かして、メロディアスに情緒たっぷりに嘆き上げます。あれは……と。

弾き語りの様相の前半ですが、Eメージャーへ転調しT-S-Tカデンツをする展開でバンドを迎えます。伊豆での再会を思わせます。再会をたたえあうのも束の間、すぐさまGメージャー調に戻ります。めっちゃ久しぶりに一緒になって曲づくりしたけど、杞憂がふっとぶくらい、すぐに前みたいに曲がつくれる。音が出てくる。合わさる。そんな3人の様子に重なって思えます。

でも、やっぱりみんな年をとって(キャリアを味方につけて)、変わっている。バチっとすぐバンドがやれるんだけど、いろんなディティールに出くわす。前のまま、前よりもおおきく。

“あれはなんだろう 遠ざかる 景色 あれは あれは”

(くるり『aleha』より、作詞:岸田繁)

アルバム『感覚は道標』を聴いて、「足跡」という単語を頻繁に思いました。残ったり、埋もれたり。心のなかに輪郭が焼きついていたり。それも霧散してしまっていたり。大切な財産だけど、刹那のもの。今も足の裏で地面を圧迫して、つけている。残るんだろうか、なんの跡も残らないんだろうか。

「あれは(aleha)」。過去をかえりみても、未来を望んでも唱える言葉。冒頭で見えて、曲中そしてエンディングでまた見えてくる海。あれはどこの海か。最初からそこにいた気もするし、これから行くところかもしれない。

通して聴いて、曲単位で聴いて、セルフライナーノーツを読んで、この記事を書いて、その度に泣きました(なんなんだ俺は)。未来を想っていま踏ん張ると、「あれは」っていつか振り返る足跡が残る。消えてしまう足跡も、たぶんそこに入っているんですね。

長い文をここまで読んでくださってありがとうございます。くるり聴こうぜ!

青沼詩郎

くるり official (note)>『感覚は道標』セルフライナーノーツ

くるり 公式サイト

くるり 音博2023、くるりのえいが、感覚は道標 特設サイト

MV くるり – In Your Life YouTube

伊豆スタジオ

くるりのアルバム『感覚は道標』(2023)

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