作詞:松本隆、作曲:細野晴臣。はっぴいえんどのアルバム『はっぴいえんど』(1970)に収録。

これは凄い。この凄さに今まで気づかなかった自分が恥ずかしくなるくらいです。こんな演奏も音の構築のしかたも聴いたことがない。「はっぴい」の面々がこれらの曲をつくりあげた実感、それを今も評価し続けるリスナーの存在すべてに納得・合点がいく気持ちです。

バスドラムなんて、16分音符で4連続とかで打っているでしょうか。低い音域のタム……フロアタムをきつくミュートしたような音とあまり区別が私の中でできず、どこまでキックでどこからフロアなのかがわからないのでなんともいえません。ドラムスのベーシックの築きかたがとにかく、既存の大衆音楽めいたものとまるで違う。

この自由なドラムスを保障しているのが、案外タンバリンなのかもしれません。チキチキチキチキ……と恒常的に鳴ります。あるいはアコースティック・ギターがきっちりと、安定して終始刻んでいることにもよるでしょう。これらが、リズムの見通しのよさを担保しているのです。だから、ドラムが自由になれるともいえます。

ベースの自由さもまたドラムスと相まっています。ライブだったら細野さんが歌いながらこのベースも弾くのでしょうか。刻みすぎない、でもすごく歌っています、ベースが。歌いながら弾くのに難しい気もしますが、刻みすぎていないから、案外これでうまくいくようにも思います。ビートルズを引き合いに出して、「日本のビートルズだ」などと語られるのにも合点がいきます。ポール・マッカートニーも、こういう、自由で「歌って」いるベースを弾くイメージが私のなかにあるからです。

右にアコギのストラミングを振り、左にはエレキです。これまたいい。口数少なです。弾きすぎない。余白が生きます。歌に呼応する感じ。タンバリンがどこか天井から降ってくるみたいな音場を醸し、エレキがいぶし銀のように光る。ドラムは雄弁で、ベースは歌っている。

このオケに、歌唱の平静素朴なフィールが最高に、やはり光っています。これは恒星のようにおのれが光を発しているというよりは、輝きを映している感じの光に思えます。音楽を愛好する人が放つ光です。凡人(たとえば私のような……)ならつい「光ろう」としてしまうところです。細野さんのご自身のソロにもいえることですが、細野さんの歌唱のこのまっすぐさはそれ自体が異様なフックです。頭が下がります。

歌詞も完全に「音楽化」してしまっています。意味に耳を傾ければそれはすさまじいのですが、それ以前に音楽として聴かせてしまうのです。これは、私のへたな例えで列挙するのを許してもらえば、くるりの楽曲や奥田民生さんの楽曲などにも感じることがあります。言葉を、音楽のために使っている。そんなフィールです(いずれも私が心から敬愛するミュージシャン)。

音楽と渾然一体になって溶けて融合してしまいそうな言葉に、努めて耳を傾ける……注視してみるにこれまたはっぴいえんどの革新性をひしひしと感じます。こんな言葉は娯楽音楽でもロックでもみたことがない。文学? いえ、それも違います。やっぱり歌詞なんだけど、歌詞じゃない。知っている歌詞じゃないのです。新しい。なのに古い……いえ、息の長い質感もある。息の長いといいつつも、今ここでポロリとこぼれるように生まれた鮮やかさ。

特定のラインを抜き出して、ここがこうと蘊蓄をたれる気さえ失せさせます。ラインの連なりで、全体で凄いことになっている。雪や都市といったモチーフは、彼らの生きるグラウンドと純真性。汚れや塵、黄蝕みといったものは、この世に存在し、生きるうえで不可避の経年変化でもあります(歌詞掲載サイトをリンクしますから全文を読んでください。文末にあります)。

“都市に積る雪なんか 汚れて当り前という そんな馬鹿な 誰が汚した”(『しんしんしん』より、作詞:松本隆)

あえて引用するなら今回はここでしょうか。ただただ、おのれを含めて情景をつらねることで、主観の存在を(その思惑を)鑑賞者に想像させるのみに終始する(甘んじる)手もいくらでもあるでしょうが、辛辣で鋭い意思の存在を思わせるラインを楽曲の結びに充てています。中立無害みたいなもので終ってたまるかというはっぴいえんどの「とがり具合」を思わせる、バンドのポリシーを感じる痺れるラインです。私のどんな称賛の言葉も稚拙にしか思えません。しんしんしん、と黙りたくなります。

青沼詩郎(黙ります……)

参考Wikipedia>はっぴいえんど (アルバム)

参考歌詞サイト 歌ネット>しんしんしん

『しんしんしん』を収録したはっぴいえんどのアルバム『はっぴいえんど』(1970)

ゆでめん

ご笑覧ください 拙演(YouTubeへのリンクShiro Aonuma @bandshijin『しんしんしん(はっぴいえんどの曲)ギター弾き語りとハーモニカ』)