まえがき 予感のさなか
今(この記事の執筆時:2023年)から約3年前の2020年を顧みるに、在宅(“ステイ・ホーム”)の年でした。フェス型音楽イベントは軒並み、暖簾を掲げるはずの現地にお客さんを迎えるのを見送らざるを得ない(そもそも暖簾が出せない?)様相でした。それからおよそ1年〜2年して、海外アーティストの招待は控えつつも国内アーティスト中心、お客さんの密度もかなり余裕をもってフェス型音楽イベントが行われるようになるなど、配慮や対策のもと開催の形が移ろっていったのを傍から記憶しています。
くるりのアルバム『天才の愛』がリリースされたのはそんな経過にある2021年でした。私には諸般のフェス型音楽イベントについて語るほどの知見はありませんが、くるりのアルバム『天才の愛』を思うとき、そうした社会の様子を同時に思い出すのが私の自然です。
思い描く未来を期待して楽しみに、おおらかに待つこと。でも、そうした未来はある日突然やって来ることもあるように見えて、実はじっとりと、うごめくように、いつも少しずつやって来ている最中なのだと思います。
その兆候をあなたが察していない場合、ある日突然、思わぬ未来がやって来たかのように感じる、突発的な事件に遭遇したように面食らうことがしばしばあると思うのですが、実はそれは常に起こっている最中なのです。
胸を痛めるような不幸や災難であれば、その兆候をつかむのに努め、対策を練ることが、健やかに長く強く生き永らえるための然るべき戦略かもしれません。
あるいは、幸せの兆候も充足のしっぽも、実はあなたの部屋に、あなたの住む街や山や森や海に、常にふわふわと漂い体温を匂わせている。
そんな雄大な命や自然のつながり、因果の不思議なときめきや輝きを思わせる趣を、くるりの楽曲『潮風のアリア』はなみなみと携えています。
くるり 潮風のアリアを聴く
つくづく、景色の展開や促しが巧いなと思います。私の大好きな歌・楽曲・録音作品です。
箇所毎に、目立ってくるパートが入れ替わります。単純にパートの違いで視界を動かすのもそうですし、同じパートの中でもフィルインやフレージング、演奏の機微で実現します。
骨格のしっかりしたリッチなキックが煌びやかにとどろき、ベースはのびやかに、ところにより16分割で熾烈に昇り降りしながらストロークを描きこみます。海鳥の力強い羽ばたきと滑空で姿勢を保つ運動のようなメリハリを思わせます。
バリトンギターの熱くも打ち崩れるスノーボールクッキーのようなくちどけのほろほろとした軽さを両立したサウンドが16分のオルタネイトでじゅんじゅんと水面を揺らし、海原の雄大な地平を描き込みます。
地平から湧き上がるようなフリューゲルホルンはくるりメンバーとして在籍中だったファンファン(敬称略)、ホルンは米崎星奈さんの演奏です。海原からたちのぼる陽炎のような、燃えたつ夕陽のような色味、しけった有機物の混濁した海のにおいを想起させるなまめかしいハーモニーです。大空を背景に360度を滑る海鳥のつがいの翼影が見えてきそう。
海面とその付近のもくもくと混じり合う空気の頭上に漂うオルガン。ゆらめき・うねりの振幅を、鍵盤を演奏しながらドローバーを引っ張って音色を無段階に動かすように豊かなニュアンスをつけます。
鍵盤奏者のクレジットはピアノとして野崎泰弘さん。大きな音価で横につながった響き豊かなストロークで海面にブイを落としていきます。と、オルガンは岸田繁さんのプログラミングによるものでしょうか。海鳥や魚群が集団でうごめくなまめかしさを幻視させる生演奏のよう。あまりある生命感に脱帽です。2021年のアルバム『天才の愛』のおよそ2年後、『California Coconuts』で聴けるウォーミーなオルガンも岸田さんのプログラミングだといいます。『潮風のアリア』と今一度聴き比べるに、オルガンを奏でる生身のアナザーメンバーがいるかのような息遣いにうなります。
イントロ、エンディングと歌唱部分ではさむ複数回のギターソロが猛々しく雄々しく立ち上がります。
ヴァースとコーラスは骨格共有といいますかヴァースの再現がコーラスにあたる様相で、ハーモニーの厚みなどで「コーラス」らしさを演出し、雄大でゆっくり展開する楽曲の特長を私に印象づけます。あえてコーラスとしてみましたが、A-B-A型の意匠でありヴァース-ブリッジ-ヴァースという、「サビなし」っぽい音楽であるようにも思います。まるで民謡や唱歌のような土着性・恒久性を感じさせるとともに、しばしばくるりレパートリーにみるタイムレスで不朽な霊魂の気配に満ち、意匠の向こう側を思わせます。
潮風のアリア コード進行の考察例
Aパターン
|Ⅰ|Ⅴ/ⅳ|Ⅰ/ⅴ|Ⅱ7/ⅵ|Ⅵ♭|Ⅴ|Ⅰ、Ⅰsus4|Ⅰ|
Bパターン
|Ⅴ/ⅶ|Ⅳ/ⅵ|Ⅱm7♭5、Ⅴ7♭9|Ⅰ|Ⅴ/ⅶ、Ⅲm|♯Ⅳm7♭5、Ⅱ7|Ⅱm7♭5|Ⅴ|
転回形のベースを頻用し、どっしりとした安定感と浮遊のはざまをゆったりとなだらかに漂う和声です。サブドミマイナー系の変位音を含ませる、経過的なベースを手掛かりに副次調の響きを挿す、変化に富む厳かな自然の様相を写し取ったような豊かなハーモニーは「くるり印」のひとつではないでしょうか。
楽曲構造の考察例
①【イントロ・ヴァース・ソロ・ヴァース・ブリッジ・コーラス・ソロ】
②【ヴァース・ブリッジ・コーラス・エンディング】。
楽曲をざっくり2つのコーラスに分割すると、うっとりと流れるロマンチックな物語の概観をつかみやすくなると思います。長い年月をかけて岩石がとろけるような粘りを持って進行する曲想を私に強く印象づけるとともに、場面毎に儚げな表情をみせる登場人物の指の先まで目の前に再現されるようです。なだらかでおおらか、豊かで壮大に見えて実はシンプルでもある構造が個々のモチーフを際立たせます。
歌詞考 星の声を聴く気持ちで
“人知れず花詰む あなたは もうすぐ 次の季節を待ちのぞむ人々の 声を歌にして紡ぎ出す 彼方まで響きわたるようなピアノ線の音 有明の月 永遠の調べ”(くるり『潮風のアリア』より、作詞:岸田繫)
『潮風のアリア』のライブ演奏を初めて私が観たのはアルバム『天才の愛』発売前の2020年、オンライン開催した“京都音博”だったと思います。その頃の世相との重なりを想起させるのが上に引用したフレーズです。
例えば楽曲は、作っても世に出るまでに時間差があるものです。ライブで即興演奏して、お客さんの目の前でその場で作曲しながら同時に演奏・発表するのでない限り。
成果物の象徴が「花」です。あるいは、それを収穫する行為が、成果が報われるとき? いえ、もっと厳密には、収穫した花を利用して実際に何かの効能や利便性や心の充実を得るときこそが報われる瞬間かもしれません。
2020年は、その言葉の忌まわしい響きに不感症になっていえば、いわゆる“コロナイヤー”でした。それまで開放していた活動を我慢した人は多かったのではないでしょうか。多数の人との接触も慎むべきとする空気でした。人が交うことで生じるものは、インドア好きで音楽おたくの私の想像を越えて多いことでしょう。アイディアが化学反応を起こす音楽家同士の交流も、ネットを介して、という形で息継ぎを強いられたはずです。もちろん、そうした様式がもともと肌に合っていた人もおり、図らずも“コロナイヤー”をきっかけに非接触様式の快適さを覚えた人も多いであろうことは言い添えておきます。
恩恵を人にもたらす未来の瞬間を想像して胸をときめかせながら、せっせと手を動かし、頭をはたらかすこの瞬間の愛を感じるのが、上に引用した歌詞部分です。
“思い出と生き方はいつも釣り合わないものだ 何度でも間違えればいいさ 星がいま 流れたよ”(くるり『潮風のアリア』より、作詞:岸田繫)
思い出はあなたのうしろに出来るものです。生き方には希望が映り込み、未来が含まれます。あなたのうしろにできる足跡を引き連れて、あなたは未来への足取りを一歩ずつ選んでいくことになります。うしろに引き連れた足跡に未だない充足を加えるべく、旅を続けます。だから、いつも思い出と生き方は釣り合わないし、それでよいのです。
今の自分が完璧でないことが、悪いことのように思えることはありませんか。負い目、といえばわかりやすいでしょうか。現状の自分の歪さを知っているから生じる幻の風呂敷です。その風呂敷の中身の質量はあなたの生き方によってズシリともフワリともなるでしょう。“何度でも間違えればいいさ”……呪いを解く、きょうだいからの思いやりの言葉に目頭が熱くなります。
星を見やれば、私やあなたの都合に関係なく、昇っては沈み、流れては消えを繰り返します。思いようによっては、あれは私やあなたのために、呪いを引き連れてこの世を去り、浄化してくれた星かもしれません。海を、星を見れば、己の思い込みが呪いを大きくしているのにきっと気づくでしょう。
現実逃避を推奨する意図ではなく、ありのままの観察を尊重することを示唆していると私は思います。私の矮小さも、宇宙の広漠さも真実です。ありのままの真実に絶望して己に呪いをかけることで快くなれるのは誰か。自分にかけた呪いを自分が解くのは、事情を知らない他人がするよりも容易いはずです。心の部屋を広くすれば、魚群が、鴎が、海が、星が、自分の思想や感情と横並びになります。もっと自由になるための一歩を踏み出せそうです。
“魚群は光る なだらかに動いて 心の隅を撫でるように 言葉を残す あれから何年経っても何故か 思い出せないのは その言葉よりあなたの笑顔”(くるり『潮風のアリア』より、作詞:岸田繫)
たまに思い出すことのある、私の屁理屈を披露させてください。
たとえば同志やパートナーと向かい合うと、相手の顔を見ることができますが、相手と同じ景色を同時に見ることができません。お互いの顔と、お互いの背景(背後の景色)を見ることになります。今この瞬間に相手が見ている方向を、相手の顔と同時に見ることはできないのです。
これとは逆に、相手と横に並んで同じ方を向くと、眼前のほぼ同等の景色を同時に共有できますが、同時に相手の顔を正面から見ることはできません。
相手と正対することを諦めて、同じ方角を向き、志を同じくする仲を選ぶのか。お互い向き合って正対し、お互いの存在を観察対象・命題とするのか。二者択一とするのはあまりに狭い了見であり、私の屁理屈です。
くるりの楽曲の歌詞は時に、受け取り方がポンと宙に投げられた趣をまとっています。“あれから何年経っても何故か 思い出せないのは その言葉よりあなたの笑顔”のフレーズも、この結びを受けてどこを向くのかが鑑賞者に委ねられているように思います。
潮のめぐる世の道理を、自然の摂理のありのままを観察することで私の心は解呪を得て自由になれる、かもしれませんが……ひたむきに何かを目指し、志して努力してやってきたはずなのに、ずっとそばにいてくれた何者かの正面を、伴走者のその表情の機微を思い出せないとは皮肉なものです。それは、同じ方角を向いて共に歩くことを選んだ代償なのでしょうか。
あのとき、あなたの顔をもっとよく見ておけば良かった。ふと立ち止まるときに忍び寄る、後悔の影。
“鴎さえ 啼くのを躊躇う 哀しい気持ちと それに忍び寄る戸惑いの影を 振り払うこともなく あなたは 数多の影を追い越して 行くだろう 星は流れて 海鳴りは あなたを待っている”
“行く宛知れず 嫋やかに飛び交う鳥たちも また 街並みを 後ろに背負い 闘う彼等は 足並み揃えて静かの海へ どこ迄も 終わらぬ旅へ”
(くるり『潮風のアリア』より、作詞:岸田繫)
美しいなと思わせる意匠をもつものの中にはしばしば、始点と終点が重なり、どこまでも輪廻する構造を持っているものがあります。
『潮風のアリア』は、海、鴎、星、魚群など、天井や壁のない舞台やモチーフを紡いで、ブロック毎のラインが縦横無尽につながる趣向があります。どこが歌い始めで、どこが歌い終わりでもおかしくないのではと思います。何度でも聴いてしまうし、聴くたびにわからなくなる。それでいい。歩みを止めるな。聴き続けろ。紡ぎ、ピアノ線を震わせ続けろ。そんな平静な激励をもらった気分にさせます。
その感慨深さもほどほどに、私は日常に戻らなければなりません。心の部屋を少しでも広くして、日常と回顧の境界をぼかし、個別の真実をシームレスにつなぎながら。折にふれて、『潮風のアリア』が描く海を振り返るのです。
MVと異ミックス
くるり – 潮風のアリア (YouTube くるりオフィシャルチャンネル)へのリンク
最後のコーラスの歌詞“あれから 何年経っても何故か 思い出せないのは”のあたりで、海岸の漂着物に焦点を当てる映像。岸田さんがそれらを観察したり漁ったりする様子のシーンもありました。大写しにされる漂着物の経年の質感と音楽が合わさりグっと来るシーンです。
うち崩れる白波やきらめく海面を俯瞰するシーン。モチーフの鳥は海鳥に限らず、白い鷺のような個体など種々のものが登場します。車を繰って海へ出かけていく岸田さんと佐藤さんの道中や海岸で思い思いに過ごす様子を中心に、時間に練磨される自然や人工物がひと紡ぎのおおらかな物語を黙示します。具体物や風景・生物の見た目の質感やふるまい、その奥にあるヒトの思念や自然の本質を映した、楽曲と一体になった稀有な美しく快いミュージック・ビデオです。監督は藤代雄一朗さん。
映像にあてられている音源は『天才の愛』アルバム本編収録のものと異なる“-alternative mix-”。『天才の愛』LP盤のD面にボーナストラックとして収録(東洋化成 レコード・ストア・デイ くるり 天才の愛ページへのリンク)。鑑賞した環境によると思いますが、ビチっとしたアタックの輪郭と長い余韻のキックのキャラクターがかなり違って感じます。ジュンジュンとふり注ぐギターがよりワイルドな印象。真ん中がすっきりした定位感で空間の余裕があり、そこにボーカルの残響が漂う味わいです。ロックなデフォルメ感と艶やかな伸び感を両立して、空間のメリハリを重んじる愛情を感じます。たとえば映画館の銀幕とスピーカーで、座席に埋もれて映像と一緒に味わいたくなるミックスです。
青沼詩郎
『潮風のアリア』を収録したくるりのアルバム『天才の愛』(2021)
ご寛容ください 拙演(YouTubeへのリンクShiro Aonuma @bandshijin『潮風のアリア(くるりの曲)ギター弾き語りとハーモニカ』)