ヒッチハイクってする?
ヒッチハイクを一度でもしたことがあったら、それだけで話のタネになりそうです。
女性がやったらあぶなそうだなと思ってしまいます。性別以前に、犯罪やトラブルに巻き込まれるなどいろいろやばいんじゃないかと思ってしまう私は今の世のリスクヘッジ中毒にあてられてしまっているのでしょうか。
猿岩石がヒッチハイクをしていた1996年だったら、今よりは安全などに対する考えが緩かったかもしれません。20年も30年も前の放送業界における……特にバラエティー番組の世界における安全や良識なんて、もはやないようなもの? 私は門外漢なので邪推するのみです。
猿岩石がヒッチハイクをして旅をする企画を放送した『進め!電波少年』という番組は、ちょっと遅めの時間帯の放送でした。1996年当時、私は10歳くらいだったはずなので、夜おそめの番組をしこたま見るような機会はなかなか得られにくかったように思います。だから、“電波少年”は私自身はあまりリアルタイムでがっつり視聴した思い出がありません。番組を知ってはいます。切れ切れに、ちょっと見た記憶くらいならあります。松村邦洋さんと、松本明子さんが、合成の背景をバックに顔をだして話しているサイケでヘンテコな画面をみた記憶がある……程度です。
ヒッチハイクも、やってみたら、案外人懐っこくて、愛嬌たっぷりで、頼んでもいないことまであれこれサポートしてくれるような「いい人」が乗せてくれることもあるのかなぁ、なんてのは私の想像が甘いのでしょうか。
それを知るにはやってみる一択だとは思うのですが、今の私の生活のどこにヒッチハイクをする必然性があるのか……
外国だとまったく事情がちがうでしょう。車が一台でも通ることが貴重な、広大な国土をぶった切る道路沿いにポカンと立ち親指を天に向かって高々挙げるのと、このせせこましくて凝縮した島国の都市の狭い道路に立ち冷ややかな衆人の視線を浴びるのとでは、親指のモチベーションとコケンに関わります。
やる必要がないからこそチャレンジするのが人生の醍醐味だとも思います。「なぜそんな馬鹿なことを?」を必要とする、珍妙奇特な生き物がニンゲンなのです。知性があるんだかないんだか。
猿岩石 白い雲のように 曲の名義、発表の概要
作詞:藤井フミヤ、作曲:藤井尚之。猿岩石のシングル(1996)、アルバム『まぐれ』(1997)に収録。
白い雲のようにを聴く
謎に「良い時代だな」と思ってしまいます。素朴なバンドのサウンドが、身ひとつで海外を旅した彼らのパーソネルを映して思えます。遠くまで続く空がつながりながら変化していくみたいに、恒久で安定したリズムの運びで曲が進んでいきます。
マイクへのノリ込みが強くてエッジー、キャラ強めの声と、突風が吹いたら飛んでしまいそうな甘々なキャラの声のデュオ。どちらが有吉さんで森脇さんなのかあえて確かめませんが……前者が有吉さんなのかなと想像。
イントロやエンディングのツインギターのトーンが倍音を轟かせ、素朴なベーシックを基調にしたサウンドに華をあたえます。ツインギタートーンは、猿岩石のおふたり、コンビの象徴なのかもしれません。アコギが風のようにリズムと響きを敷く実直なサウンドは、私の記憶の引き出しから思うに作詞者の藤井フミヤさんサウンド。オルガンがヒヨーンと漂う塩梅も私好みです。
歌詞を分担して歌い、字ハモし、ユニゾンで決める。下ハモをいくのが甘めの声の彼でしょうか。
サムアップするながれもの
“ポケットのコインを集めて 行けるところまで行こうかと君がつぶやく 見えない地図を広げて
くやしくて こぼれ落ちたあの涙も 瞳の奥へ沈んでいった夕日も 目を閉じると輝やく宝物だよ
風に吹かれて消えてゆくのさ 僕らの足跡 風に吹かれて歩いてゆくのさ 白い雲のように”
(猿岩石『白い雲のように』より、作詞:藤井フミヤ)
尊い歌詞ですね。そのまま藤井フミヤさんの声で聴こえてきそうな無垢な言葉です。
「見えない地図」の表現が読み筋の風呂敷を広げます。どうなるかわからない……つまり、未定・不定である行く先のことを表現しているようにも思えますし、物理的な地図はなくともココ(頭、胸、心……)にインストールされてるんだぜ、という自尊心やはっきりした理想が存在することの表現でもあるように思えます。
涙も足跡も儚いものです。強烈な記憶を焼き付けた思い出の場所は、かつてのままであるようでいて、かつてのままではないのです。人も街も心も、風とともにめぐり、代謝していきます。思い出すということは、記憶を更新する行為なのかもしれません。
“遠ざかる雲を見つめて まるで僕たちのようだねと君がつぶやく 見えない未来を夢見て”
(猿岩石『白い雲のように』より、作詞:藤井フミヤ)
雲は儚いものです。そこにあったと思っても、つぎにおなじ場所でおなじ顔に会えることはありません。ながれものである自分を重ね見るようなフレーズです。遠い目をされると、かえっていまここの地面につけている足元を私は思います。
未来はみえないのですが、この足に宿っているのだなぁと……腰の重い私を感化する詩情が尊いです。
白い雲は、夕日をうければ燃えるように赤くなります。うすぐらくてどす黒い雲がやがて大雨を街にたたきつけはじめることもあります。雲は表情を転々とするのです。それでいて、どこまでも無段階につながってもいて、経過的で流動的です。人生のようではありませんか。
青い空を大海に見立てれば、変幻自在な舟が雲でしょう。猿岩石が挑んだムチャクチャな企画にしても、人生は自由なんだと体で示すようでなお尊い。親指立てて、どこへ行きましょうか。
青沼詩郎
『白い雲のように』を収録した猿岩石のアルバム『まぐれ』(1997)