高田渡を知った。西岡恭蔵『プカプカ』を聴いた。関西あたりのフォークミュージックが盛り上がった時代のことなどについても多少知った。

関西フォークとは違う流れかもしれないけれど、1970年代フォークのつながりでネットを泳いでいて出会ったのが泉谷しげる『春夏秋冬』。

泉谷しげるというと、「怒り親父」的なテレビタレントとしてのキャラクターを私はまず思い浮かべる。その知識でいたから『春夏秋冬』の嘆き、つぶやくような平静な歌い方が意外だった。

これまでの私の中の泉谷像に近いのはこちら。

ギターをジャカジャカとかき鳴らし「ィエーーーーーー」と歌う。

歌詞

歌詞に引き込まれた。

“季節のない街に生まれ 風のない丘に育ち 夢のない家を出て 愛のない人に会う”(『春夏秋冬』より、作詞・作曲:泉谷しげる)

“季節のない街”とは都市の喩えか。私の生まれ育った街は東京。都心へのアクセスにほどほどに便利なベッドタウンだった。都心でも田舎でもなく、季節感に溢れる風景の中で育ったのとも違う。そんなことから、“季節のない街”のワンフレーズには幅のある含みを思う。

“風のない丘に育ち”にも似たことを思う。そもそも、平野部の街に私はいたから丘もあまりない。私のバックグラウンドに照らしていうならば、風といえはビル風か。

風は季節の便り。うつろう命の営みの象徴でもある。都市にいると、ときに感受しにくいものだ。人々の経済活動の情報がどんなに届こうとも、命の風は凪いでいる。

経済活動の都合で結ばれた人々の輪の中での生活に“愛のない人に会う”の表現が重なる。集団でいても、孤独なのだ。それは都市に限らず、自然の中にいたとしてもそうかもしれない。

順番が前後したけれど、経済活動の都合のために選んだ土地に住んでいる家庭で生まれ育つことを思うと、“夢のない家を出て”というのにも共感の含みがある。ある程度田舎で育ったのちに上京した人も、うなずくところがありそうだ。その場合は私の思っているニュアンスと少し違うかもしれないが、本質は一緒な気もする。

“今日で全てが終わるさ 今日で全てが変わる 今日で全てが報われる 今日で全てが始まるさ”(『春夏秋冬』より、作詞・作曲:泉谷しげる)

サビで歌われる上のライン。抽象度の高い表現で、どんな生き方をしてきた人も括り、含み、認めうる表現だ。

今日は一瞬であると同時に、これまでの全てを含んでもいる。これからの全ての始点でもある。

この歌の含み、その幅が、私の心に風を通す。

「怒り親父」然とした、私の中のこれまでの泉谷しげる像は一変した。風と詩の人。奥に秘めた熱にはじめて私はふれる。今日ですべてが始まる……あぁ、いかにも。

泉谷しげるが吹き込んだ風が、私の胸の内を押し出す。それがまた、誰かにとっての風でありますように。そう生きたい。

青沼詩郎

チャボ氏と。

泉谷しげる『春夏秋冬』(1972)

ご笑覧ください 拙カバー

青沼詩郎Facebookより
“泉谷しげる『春夏秋冬』。1972年の同名のアルバム収録。以後、カバーやセルフカバーも多い彼の代表曲か。
「__のない__」という型の歌詞のメロと「今日ですべてが__」という型の歌詞のサビが印象的。両者が対になっていて、この構成の間にもまた別の歌詞が入る。淡々とつらねた独白のようでもあるし、自己から漏れ出た二人称への投げかけでもある。
「今日」はこれまでを括る特別な区切りであるとともに、特別視するにはあまりに平凡な一瞬の積み重ねのようにも思う。
私の中で「吠えるオッサン」キャラのタレントとしての泉谷しげる像は覆った。詩と平静な歌い方が魅力。”

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