非常時も含めての平常

「平ら」というのは思わせる観念です。人にはバイオリズムとでもいうのか、そんなようなものがあって、あがったりさがったりします。ふわふわ浮かんだり沈んだりするのです。不思議ですね。ずっと地に足か膝か肘か背中かお腹か体側なりをつけていなきゃいけない、重力にさからえない宿命をもった生活ぶりをもつ私たち人間ですが、そのリズム……というか波長みたいなものは、浮かんだり沈んだりするのです。

誰かの発する一声に傷ついたり、何気なくこぼす一言で傷つけたり、そのことで気持ちの重さ・軽さみたいなものがぐらぐらと揺さぶられ、心が天にむかって羽ばたいたり、地の底にまっさかさまに転落したりするのです。地下鉄も鳥もびっくりです。

話は変わって、風邪をひくと、もうなんにもできません……言い過ぎました。できることもあるけど、いつもなら快適にできることがうまくいきません。快適にできることがうまくいかない程度ならまだよくて、つまりはいつもなら差し障りなく発揮できるパフォーマンスが不成立化してしまうのです。いつものパフォーマンスが発揮できることを前提に組んだ予定が、風邪をひいている、つまり風邪が我が物顔で私のパフォーマンスを奪っている期間にバッティングしてしまったらどうでしょう。ちからなく、予定のほうをおじゃんにして休養するのか? 無理してでも低い低い質の劣化したパフォーマンスをさらけだすのか? 私を悩ませます。

「いつものパフォーマンス」と簡単に言っても、「いつも」というのがやっかいです。風邪を引くこともある。生きていれば誰もが出会う局面です。それを、「いつも」の外側にやってしまうからややこしい。風邪を引いたときの、クズかごの内容物みたいな私の劣化したパフォーマンスを含めて、私の「いつも」なのではないか……。

ちょっと待ってくれ、さすがにそれは暴論だ! と唱える私が顔を出します。風邪をひいてポシャっているパフォーマンスを発揮せざるを得ない「私」というのは、その人生の長さ・期間の面においては少数派、というか、ちょっと特殊状態というか、特記すべき事項にあたるようなものだからでしょう。人生を占める、より長い時間においては、私はこんなに腐ったパフォーマーじゃないんだぜといいわけしたいのかもしれません。それでも、最高のパフォーマンスの発揮を前提にした期日というのは往々にしてやってきてしまうのが人生の「常」でもあります。もう、常とか「いつも」とかやっかいだぜ!

空いろのくれよん 曲についての概要など

作詞:松本隆、作曲:大瀧詠一。はっぴいえんどのアルバム『風街ろまん』(1971)に収録。

空いろのくれよんを聴く

そららろぃ〜〜、ろろろろぃ〜……ボーカルの「ヨーデル」めいた、声区を飛び越えていく感じの唱法が圧倒的なインパクトを発揮します。「そらいろ」と言っている感じでもあるのですが、言語を飛び越えた表現でまさに音楽的です。歌詞の「間」を埋めるようなシーンでもあるのですが、楽曲に抱く私のイメージの大半をこのわずかな一瞬(よりは長いですが)が占めてしまうのです。

音の数がメンバーの頭数を圧倒しない程度におさえられています。こういう音が「バンド」っぽくて風通しがよくて私は大好きだ。ソロで音楽をつくっている、それもパソコンに録音しているなんて環境・条件になると、やたらとトラックを重ねてしまいがちですから……話が脱線して申し訳ありません。

右のほうでふわふわとエレキギター。ボリュームペダルとスライドバーを組み合わせたような……というか、スティールギターの類でしょうか(ギターが仰向けに寝ているようなやつです)。とにかくギターの浮遊した音色がバカンス感をかもします。それなのに、どこか怪しくもある。アルバム『風街ろまん』に通底する、劇画のような、暗澹たるニオイのある独特の質感がこのリラックスしたリゾート地のような楽曲にも影をなびかせているのがふしぎです。微かになったりのびやかになったりと艶かしくニュアンスをかえる魔性のギターよ。

左でアコースティックピアノが対になってコードをかなでます。Aメロなどの音数はおさえ、Bメロっぽい部分でアコースティックギターが入ってきます。空間に余裕を感じます。「Ah〜」などとBGVが入ってきます。これまた微かで、奥ゆかしいというか、繊細な表現です。メインボーカルの妖怪っぽさを余計に引き立てます。

ベースが太く暖かく、輪郭も質量感もすこぶる良い。私の思うベースの最も好きなサウンドのひとつです。ほかのあらゆる楽器と調和しているのに棲み分けもよく、それでいて支えているベースです。

ドラムスのハイハットが細かい。繊細な音量が良いです。かと思えば、ごくシンプルなフィルでズドンとタムが鳴ると左のほうに定位が広がったりします。タイトできれのよいサウンドです。6/8拍子の8分音符ひとつひとつを3分割したようなニュアンスでしょうか。スネアのリムショットを効果的に用いて空間やダイナミクスの余白を残します。漂う歌の浮遊感を手伝うようなドラムです。

“空いろのクレヨンできみを描いたんです そっぽを向いた真昼の遊園地で 花模様のドレスがとても良く似合うんで ぼくのポケットにはいりきらないんです ぼくは きっと風邪をひいてるんです”

(はっぴいえんど『空いろのくれよん』より、作詞:松本隆)

風邪をひいているというのは比喩でしょうか。ちょっと、いつもと違う特殊な状態にある、と。「きみ」の存在によって浮かされている僕の心や、カラダまでヘンはふうになってしまう感じ。

その「きみ」も、そもそもすべて、主人公が描いた絵の中の存在かもわかりません。こういうところが妖怪めいている。なまなましくて、おどろおどろしくもあります。まぼろしの、どこかに本当にあるかもしれない浮いた世界を感じるのです。そりゃぁ、ポケットに入らないよ。

発表して50年以上を過ぎても、私を浮かせる傑作アルバムの一曲です。

ポケットの余談

もしも許されるなら眠りについた君をポケットにつめこんでそのままつれ去りたい

(チューリップ『心の旅』より、作詞:財津和夫)

私の好きなチューリップの傑作です。その多くのレパートリーにしばしばうかがえる実直な響きは、はっぴいえんどのアティテュードとはかなり趣が異なるバンドで、いずれも私の大尊敬の対象。

ポケットに愛しいもの、愛着のあるものをいれていつも一緒に帯同できたらというのは、数多の表現者が持ちうる浪漫なのかもしれません。私もポケットというモチーフが好きで、自作曲の作詞に用いたこともあります。

自分のからだのごく近くにある。けど、容量はかなり小さい。かつ、ずっと肌身離さず入れた対象と一身でいられる。そんな空間の象徴がポケットです。選り抜いた、本当に大事で、かつコンパクトで身軽な貴重品のみがそこにいることができる。現実的に入るのは、家の鍵とかそんなようなモノくらいでしょうか。その場所に、愛情や敬愛、親愛の対象たるあなたを入れて行きたい。けど、それは現実的には厳しいというジレンマ。ポケットというモチーフが作詞において優れた演者たりうる理由がちょっと分かった気がします。

青沼詩郎

はっぴいえんど キングレコードサイトへのリンク

参考Wikipedia>風街ろまん

参考歌詞サイト 歌ネット>空いろのくれよん

『空いろのくれよん』を収録したはっぴいえんどのアルバム『風街ろまん』(オリジナル発売年:1971)

ご寛容ください 拙演(YouTubeへのリンクShiro Aonuma @bandshijin『空いろのくれよん(はっぴいえんどの曲)ピアノ弾き語り』)