メロの歌い出し
“幼い微熱を下げられないまま 神様の影を恐れて”(スピッツ『空も飛べるはず』より、作詞:草野正宗)
幼さとは生じたばかりという観念。未成熟とも。微熱……高熱ではなく、放っておける程度のものを想像させる。あるいはこれから熱が高くなる兆候かもしれない。「幼い微熱」となれば、生じたばかりの(放っておける程度の)未成熟な熱。そんな意味を想像した。それを下げられない、と。
熱を下げるにはどうしたらいいか。風邪だったら安静にして寝る。症状が軽微なら特に何もしないで、いつも通りすごす。頭の隅にも、からだの感覚にも、どこかに微熱の影響を感じながら。
微熱の影響ってどんなものか。からだのだるさ・重さか。思考の愚鈍化か。微熱があると、むしろ頭が冴えるという人もいるかもしれない。生きようと必死になるのか。
「神様の影」とは。神様ってなんだ。上位、上級にあるもののイメージだ。人智を越えたもの。自分でどうすることもできないもの。自分や世界をつくったもの。そんな存在があるのなら、それは「神様」だろうか。単に、崇めるくらいに尊敬しているの意味で「神様」を使うこともある。「神曲」とか「神絵師」とか。神様もいろいろ忙しい。
その「影」。人智を越えたどうすることもできないものや、崇めたり英雄視している高みの存在や、そのほかどんなニュアンスか不特定の、その影。影響。それがあることによって自分や身のまわりに起こる変化。ものに光があたる。そのものによって光を遮られた範囲には「影」ができる。影はオリジナルの輪郭を再現する。
影は、落ちた面や角度の影響をうけて形が歪んで見える。影は、投影先の条件によってあらわれ方を変える。影もまた環境の影響を受ける(編集者に直されそうなくらい「影」を重々しく重ねてみた)。そうした影を「恐れて」、なんとやら。
先のわからないものに、私は不安を覚えることがある。正体がよくわからないものは、自分にどんな影響を及ぼすかがわからない。ひょっとしたら、深刻な変化を強いるかもしれない。自分の命さえ脅かすかもしれない。緻密に計画して、理想をめざして努力してきたことも、その経過における労働や仕事のすべてを水泡に帰すかもしれない。だから、私はそういう未知を恐れることがある。
サビの歌詞
“君と出会った奇跡が この胸にあふれてる きっと今は自由に空も飛べるはず 夢を濡らした涙が海原へ流れたら ずっとそばで笑っていてほしい”(スピッツ『空も飛べるはず』より、作詞:草野正宗)
個人と個人の出会いは、稀な確率のもとに起こる。どうしてこんな因果になったのだろう。それを考えると、「神様の影」を思わずにいられない。あなたと私がこうしてこのブログで出会ったのも、奇跡といっていい。おおげさだと笑いますか?
あるいはそれ以外の何かの奇跡が、己の心臓が轟くところのすぐそばに溢れている。胸という単語は、感情の居所を指すニュアンスで用いることがある。単に、おなかから上、首の下までの範囲を指す意味でも使う。身体の特定の部分を指す言葉。
感情は胸にあるのか、頭にあるのかと問われたら「どっちにもあるんじゃないの?」と私は言う。それ以上の答えを望むなら、問合せ先は私じゃなく専門をあたってほしい。そんな門があればだけど。感情は心と体にまたがっている。
出会いの奇跡のようなものが、ときに感情のいどころだったり、ときに単にからだの一部だったりするところに溢れるのだ。お風呂にお湯を張り過ぎて、そこに自分のからだを沈めるときのことを想像する。自分のからだを湯船に差し入れる体積が増えれば増えるほど、その分だけお湯は浴槽の外へ逃れ出していく。
空は飛べない。飛行機を使えば飛べる。グライダーをつかえば、空を滑るくらいならできるだろう。鳥たちが雑作もなくやってのけることが、私にはできない。これを読んでいるあなたが鳥やコウモリや羽を持つ虫ならば、空も飛べるはずだが。
それを可能にするものは何か。飛行機でもグライダーでもないのだとしたら。空を飛ぶのを可能にする機構。自分に羽をあたえるような出来事。それは、誰かとの出会いであると想像する。正体不明の未来は怖い。が、出会いはそれを期待に変える。
涙は、私の目からこぼれ落ちる体液だ。染み出るとも。流れ落ちるほどの量はなくとも、いつも実は、少しずつ、とめどなく溢れて粘膜を潤しつづけている。涙が夢を濡らすという表現からは、眠っているときに悲しい夢や辛い夢を見て涙が出てしまう様子を想像する。
夢そのものが乾いたり濡れたりするという表現は詩的な言葉遣いである。観念的なものだからのそ、この比喩が成立する。夢には、決まったかたちがない。就寝中の私の頭の中で起こっている? あるいは胸の中だろうか。
乾いたり潤ったりは、夢の死活問題。潤いは生命の象徴だ。適度に潤い続けているのが望ましい。潤すものが押し寄せ、溢れてしまうと、それは災禍にもなる。過度な潤いは流れて海へ行く。いつかまた、私に適度な湿り気をくれますように。そばにいる誰かにも、あわよくば無垢な笑顔を。
『空も飛べるはず』MV スピッツ、曲に思うこと
『空も飛べるはず』はスピッツのシングル、アルバム『空の飛び方』(1994)に収録。
MVに、私は猛烈に『ドグラ・マグラ』(著:夢野久作、1935年)の世界を思い出す。壮大な作為。その堂々巡り。
歌詞とメロディ、サウンドが一体になって丸呑みにしてしまうほどに、よく知っている曲だし、触れてきた曲。そう思っていたけれど、丸呑みにしているということは、咀嚼して味わうことをしてこなかったということ。
スピッツの曲の多くには、「これは○○味です」というラベリングがないと私は感じる。かつ、丸呑みにさせる滑らかさがある。丸呑みしてしまうと、味を覚えずに曲を体にインストールし、一緒に過ごすことになる。
それで一緒に過ごさせてしまうのは、スピッツや草野マサムネのソングライティングのすごさ。味わおうと思ったら、いつでもからだの中にある。いつでも味わってもらうために、そういうフォルムになった(した)のかもしれない。あなたの中にもあるはずだ、なめらかでしたたかなスピッツ。
ささくれたりひっかかったり、とげとげした曲もあると思う。ロック嗜好と絹のような滑らかさの二面性。可愛い面してグサッと刺す。空を飛ぶみたいにアブナイ魅力だ。
青沼詩郎
『空も飛べるはず』を収録したスピッツのアルバム『空の飛び方』(1994)
『空も飛べるはず』を収録した『CYCLE HIT 1991-1997 Spitz Complete Single Collection』(2006)
『空も飛べるはず』を収録した『CYCLE HIT 1991-2017 Spitz Complete Single Collection -30th Anniversary BOX-』(2017)
ご笑覧ください 拙演