石つぶての破格
歌詞の話をするとき、私がしばしば話題にするのが井上陽水さんです。彼の書く歌、その歌詞は「なんじゃそりゃぁ!」とつっこみたくなることがあるのですが、どうにもあの冷たく澄み渡る次元の裏から湧き出るみたいな声でフフゥンと歌われるとこれは神のお告げか思し召かと錯覚してしまいます。最大の敬意で陽水マジックとお呼びしたい。熱にあてられるか、冷風に骨抜きにされるか……彼の音楽を聴けば、私は降車ボタンの壊れた行き先不明のバスで連れ去られてしまうのです。
私のこの感慨は、歌詞は変だが声がすごいのでそれで納得してしまう……という向きに聞こえるかもしれませんが、「なんじゃそりゃぁ」とつっこませるようでいて、陽水さんの歌詞は読み味が反芻するほどに広がります。「つっこませる違和感」に仕掛けがあるのです。かといえ当の仕掛け人は鑑賞者が陥る混乱、バグを先読みした様子もなく、まるでずっと前からあたりまえにそうであったようにポンと置いてしまうのです。
不謹慎ですが、私の人生の線路にポンと置石のいたずらをされたようなものです。作為的であり無邪気でもあるのですが、それで私は人生が大脱線してあまりある衝撃を受けるのです。道端の石つぶてのような些末な物質によって、私に大変革を与えてしまうのです。これが異次元から漏れ出た未知でなくいったいなんなのか。
大脱線した恐慌の平行世界のスピーカーの前で陽水さんの声を浴びる恙無い私は気がヘンになりそうになりながらうなり、平和であることにひとり謝辞を浮かべます。陽水さんの歌に・ことばにセンセーションを覚えられるのは、あの規格外(破格、別格)の表現を味わえる心の平和と素地があるからです。ありがとう!
たいくつ 井上陽水 曲の名義、発表の概要
作詞・作曲:井上陽水。井上陽水のアルバム『陽水II センチメンタル』(1972)に収録。
井上陽水 たいくつを聴く
こんなに繊細なのに心にトロットロにへばりつく歌唱の異質さと来たら。
2コーラス済むと奥のほうから、風合いのある音色のポルタメントがきこえます。無段階に音程をうつろうようなオバケ、この世のものならずの怪異のようなトーン……これはエレキギターのスライド奏法でしょうか。ものすごく遠くから聴こえる印象をうけます。しっかりと存在感と違和感を私に与えながらも、はなはだ「遠い」のです。エコー・チャンバーといって、いちど収録した音源をあらためて、響きのある空間に置いたスピーカーから再生し、スピーカーから出て空間に響くその音を収録しなおして独特の残響の質感を得る録音技法によるものなのか? と想像しますが実際はどうでしょう。
2本のギターと歌唱が、まさにその場にいるような臨場感です。左のギターがコツコツした質感で、こぶりで軽めな独特のサウンドをしています。ピッキングのリズムがまるでカホンかボンゴといったリズムをもっぱら担うパートがいるような錯覚をもたらします。素直なエイト(8分割)のダウンストロークでリズムを敷き、“退屈”を体現します。
これの対になるのが右のギターで、一緒に和声をストラミングしたかとおもえばオブリガードのフレーズにまわるなどします。ワイドで豊かなサウンドをしており、シンプルな構造の楽曲の肉づきをもっぱら担う美しく哀愁ある響きのアコギです。
ベースの存在感のなじみかたがすごい。まるでギターと歌しかそこにいないような気にさせつつ、確かに足元を支えます。これは案外大変な労働といいますか、水準の高いプライスレスな成果です。自己を嘆きも誇張もせずにその場によりそうことは、この世でもっとも崇高な協調の芸当です。
ここにいるような、どこかにトリップしているようなマイナー調の帰結感の薄いカデンツを終止連ねて3コーラスとその間を埋めるだけの構造。いかにもアルバム曲的な構造かといえばそうでもなく、別に構造としてはこういったコンパクトな身構えの「シングル曲(それだけで成立するある種の存在感や独立感のある曲)」もあるとは思うのですが……この「なにか言っているようで何もいっていないおぞましさ」をシングルでやられたらそれこそ私の気が狂ってしまいそう……これがアルバム曲でよかったと謎の安堵を覚えます。私も私で、それを取り出して単曲で聴くなよと自分につっこみたいところですが……終始美しいのです。
歌詞
“つめがのびている 親指が特に のばしたい気もする どこまでも長く”
(『たいくつ』より、作詞:井上陽水)
「なにをいっているんだ?」となりませんか。親指のつめをどこまでもながく伸ばしてしまっては邪魔で仕方ない。親指だけじゃないでしょう。なんの指だって爪があまり伸びては困ります。クラシックギターの奏者だったら指によって必要な爪の長さも存在するでしょうが……ここではそんな話ではないのです。それともそんな話なの?
親指だけ特にのびるってどういうことでしょう。個人差があるのでそういう人もいるのかもしれません。なにかをこするとか、生活の動作のために「爪」を役立てるとき、まっさきに活躍するのは一番面積が広く丈夫そうな親指の爪だという気もします。次いで人差し指あたりの爪でしょうか。頻繁に使う爪ほど、人間の爪は発達を目論んで(実情に適応して)伸びるのが早くなる……という仮説はどうでしょう。たとえば小指の爪よりは親指の爪のほうがずっと大きくて、のさばる生命感が強そうにも思えます。
と、陽水さんの歌の言葉(歌詞)は考えれば考えるほど、いろいろ納得しうる筋(屁理屈?)が浮かぶ「おかしみ」が深いと思いませんか? こんなのが3番まで続くからうっかり落命しそうですが……死んでいるのはアリです。
“アリが死んでいる 角砂糖のそばで 笑いたい気もする あたりまえすぎて”
(『たいくつ』より、作詞:井上陽水)
ナワバリ(行動範囲)に角砂糖なるごちそうがあろうものならばアリは取り付く一択だと思います。人が加工してつくりだす角砂糖は、本来自然界のアリとは結びつきにくいはずなのですが、人の生活圏とアリのそれは重なっているのが実情です。いかにも、人がうっかり落として放置した食べ物と、都市にいるありふれた生き物のイメージは相性が良いもの。カラスと生ゴミの入ったふくろとか。鳩や鯉と、千切れたパンくずとか。
せっかく角砂糖を傍にしているアリですが、それが死んでいると描きます。何か報われる機会を近くに望みながらも命が尽きてしまう人生を皮肉っているのでしょうか。笑うというのは、ばかにするとか軽蔑するといったニュアンスもありますし、諦念と共に受け入れる「笑み」もありうるでしょう。こっけいだ、傑作だ、といった大笑いもあります。嫌味な高笑いもあるでしょう。
笑いたいでも、笑ったのでもありません。あくまで“笑いたい気もする”です。なんでだよ、歯切れが悪い……とつっこみたくなるのですが、逆に歯切れが良い気もするから不思議です。私は陽水さんの魔力に服従してしまっているのでしょうか。
命あるものは、果てるのが道理です。その意味では、アリが死ぬのは必然であり、当たり前です。それをなぜわざわざ言うのか……これは大衆歌なのでしょうか。商業音楽として片付けるにはあまりにも芸術的な飛躍力を備えすぎている。井上陽水クオリティならあたりまえすぎるのでしょう。笑いたい気もします。
“手紙が僕にくる 読みづらい文字で 帰りたい気もする ふるさとは遠い”
(『たいくつ』より、作詞:井上陽水)
「なにを言っているんだ?」と突っ込みたくなる哀愁の根源にかかる霧が多少晴れる気持ちです。帰京のハードルの高さにたじろぐせつなさよ。
読みづらい文字は、老化した親を思わせます。あるいはただ乱筆なだけで年齢は関係ないかもしれません。“〜気もする”というあいまいな表現が3コーラスにまたがる秩序。そんなところで正気を保たれても困ります。
わかるようなわからないような、霧に真実をまくしたてる井上陽水節の神秘です。
青沼詩郎
『たいくつ』を収録した井上陽水のアルバム『陽水II センチメンタル』(1972)
ご寛容ください 拙演(YouTubeへのリンクShiro Aonuma @bandshijin『たいくつ(井上陽水の曲)ギター弾き語りとハーモニカ』)