まえがき 浜辺の砂粒

2020年に音楽ブログ、それから弾き語り動画の毎日更新を始めた私。宅録が好きすぎるあまり社会の動きに鈍く、インドアで独りよがりな音楽を好き勝手やっている自覚でいたけれど、思えば私のこの活動は新型コロナウィルスが社会に与えた影響のひとつといっていいのかもしれない。やりたいと思っていたことを、本当に「よし、やろう」と踏み切って音楽ブログを始められたのは、そうした社会のショッキングな出来事の上(下)にあるのだ。ひきこもり仙人の気分でいたけれど、私とて、ひどくまっとうに社会の動きに影響されている人間だ。砂粒かもしれないけれど、確かに社会の浜辺の一部なのである。

そんな2020年以降からの近年の私の音楽作品がbandshijin『青沼詩郎』というアルバムになった。拙作の解説で恐縮だけど、努めて世に出ている固有の楽曲などとの関連づけを(勝手に)して紹介していくので、僅かでも関心を持っていただければ幸いである。今回はアルバムM-2『祝日リマインド』。

祝日リマインド サウンドメモ

2拍子形というのか、ベースがルートと5度をとりながらずんずんと進んでいく。エレキギターがチャカチャカとバックビート。鍵盤ハーモニカも裏打ちに帯同。クラヴィネットにも似たドライでピーキーなちょっとウザイ感じの音(?)は愛用のYAMAHA Reface CS(アナログモデリングシンセ)で、鍵盤ハーモニカやエレキギターの役割に便乗する、気まぐれに離脱してボーカルメロをなぞるなど奔放にふるまう。ボーカルメロのモチーフのバトンをずれて追いかけ再現するエレキギターが音楽意匠上の手前味噌。

このようにエレキギターとシンセと鍵盤ハーモニカが「リズム、オブリ」など重複する役割を奪い合うでも仲良くするでもなく、ようすを見合ってハマった。

演奏パートはアコースティックギター(フィンガーピッキング)&ボーカル、ドラムス、ベース、エレキギター、鍵盤ハーモニカ(Hammond pro 44 hp)、シンセ(Reface CS)、トイピアノ、リコーダー、バックグラウンド・ボーカル、ボーカル(歌詞ハモ)。

YAMAHA Reface CS

bandshijin『祝日リマインド』で思い出すこと

一.世にもすてきな短調リファレンスたち

二.アルバイト・ブルース

順番に述べていく。

一.世にもすてきな短調リファレンスたち

『祝日リマインド』を作曲する頃の私は短調の楽曲にはまっていた。

くるり 益荒男さん

社会からライブが消えまくった2020年。「無観客ライブ」「有観客ライブ」など、コロナ前だったら何のことをいっているのか良く分からない(かもしれない)言葉まで誕生した。くるりが主催し毎年恒例になっている京都音楽博覧会も、2020年は配信コンテンツとして開催。そのときにくるりが披露し、私は新曲としてまた奇天烈な作品が彼らの創作の泉から吹き出したのを認めた。配信形式の京都音楽博覧会の開催からまもない11月11日に配信シングルリリース。翌年のアルバム『天才の愛』(2021)に収録。作詞・作曲:岸田繁。

GARO 学生街の喫茶店

曲名を知らなくてもアーティスト名を知らなくてもこの歌の一部分を聴いたことのある人は多いのではないだろうか。かつて私がそのひとりだった。

私はYouTubeに弾き語り一発録音・録画を毎日公開する活動にハマり、日々のネタの仕入れの都合で至ったのは70年代前後くらいの歌謡やらロックやらニューミュージックやらアイドルやらフォークやらグループ・サウンズやらとにかくこの国のヒットソングあるいはそれ未満(私が言うな)のあれやこれやである。なにせ都合が良いのは、発表媒体がシングル・レコード中心だからか、泣いても笑ってもくすぐってもくすぐられても曲が3分(くらい)で終わる。

コード進行やリズムも安定というか定番で、キテレツ(型外れ)な作品はマイナー(少数派)(それは現代でもそうか)であり、マイナー(短)調がメジャー(多数派)なのではないかというくらい、現代のメジャー(有名)なヒットソングにはみられないくらいに短(マイナー)調の大衆音楽が多くある。

『学生街の喫茶店』はそういう私の「短調(マイナー)のヒット曲がメジャー(いっぱい存在する)」という概観を体よく象徴する存在だが、ヒットソングの焼き回しでは概観のハイライトを飾るだけのオリジナリティを備えるのは難しいであろうなか、細部に至る音楽の意匠を担保する作曲者はすぎやまこういち。ドラクエの音楽で有名かもだが、ジュリーこと沢田研二をメンバーに含むグループ・サウンズ・バンドのザ・タイガースのレパートリーをたくさん作曲している。『シーサイド・バウンド』『僕のマリー』『忘れかけた子守唄』『落葉の物語』……私が自分でも演奏してみたいと思うものたちだ。

『学生街の喫茶店』はGAROのシングル曲でアルバム『GARO2』(1972)に収録、作詞は山上路夫。大衆が親しんだ歌だと思うが原曲キーで歌うには私には音域高めで難曲に思える。GAROの楽曲はほかのものについてもボーカル(歌唱)や音楽性において、ベタベタ気軽に触る軟派な輩を遠ざけるような気高さを感じる。ユーザーが歌って楽しむのを決して駄目とは言わないだろうが、一定の距離を置いて鑑賞して愛でるべき、毅然とした磁場がある気がする。

原田真二キャンディ


短調の湿った質感を持ちつつも、歯切れのよい各パートの演奏のせいかとても乾いた印象もある。ボーカルのメロディラインの豊かなこと、刻々と変わるハーモニーや楽曲展開。古楽器を中心に徹底して演出されるサウンド・アレンジが素晴らしいうえ、少年か女性かと思わせる甘く儚げなボーカルのキャラクターが稀有でオリジナリティが極めて高い。

間奏は幽霊が出そうなアタックが消えダイナミクス揺らめくエレキ・ギターのヴァイオリン奏法のバトンが生のヴァイオリンソロに引き継がれるのが面白い。この楽曲の登場は、のちのアンティーク趣味というか、ジャパニメーションやコミックスを発端にしたゴシック・ロリータ愛好文化の予言だったのかとふと思える。1977年のシングルで、アルバム『Feel Happy』(1978)に収録されている。作曲が原田真二、作詞が松本隆。私としては近年、松本隆の作詞のキャリアに焦点を当てる文脈で紹介するメディアによってこの曲の存在を再認知した向きもある。

斉藤和義 キャンディ(カバー)

『キャンディ』を私が初めて認知したのは、テレビ番組で斉藤和義がアコースティック・ギターの弾き語りでライブパフォーマンスするものだった。歌いながら弾くというハードルの上空を悠然と行く流暢なギターに感動したのを記憶している。いつのなんという番組だったか失念したが、斉藤和義の企画盤『紅盤』(2007)に収録されているからその発売の時期に合致した出演だったのかもしれない。当時私は大学1年生くらいだったはずで、番組を目にしたのは言われてみればそれくらいの時期だった気がする。

アルコールとたばこの煙のニオイがしてきそうな音場・空間に惹き込む。フィルインを細かく叩くベースラインとコンビネーションしつつボーカルとからむ高音弦づかいこれギター1本、街の喧騒を忘れさせる斉藤和義のぽつねんとした歌声は聴き手の孤独に無言で味方する無責任な飲み友達のような趣がある私の好きなところである。

世にもすてきな短調リファレンスたち・まとめ

ガロに原田真二にもっとそれ以前のグループ・サウンズなど、ほか最新の時事に脇目もふらず70年代前後くらいの大衆音楽にどっぷり浸る生活をする中、くるりは私にとって貴重な、現在進行形で関心を惹くトピックでありつづけている。そんなくるりが2020年代の初頭に、短調メラメラ(?)な新曲を放ったのだ。しかも珍妙な言葉が踊る歌詞がなんともオカシイ。

これにはリファレンス元というか文脈があり、明治時代の流行歌に『オッペケペー節』なるものがあって、それをモチーフの一部に取り入れて蛇口をひねりコトコト煮込んだ現代版くるり節が『益荒男さん』かもしれない(し、全然ちがうかもしれない)のだ。くるりは新旧の時事を一体化させて私に再定義をくれる。私が時事にわき目もふらずに漁る自分の趣味まっしぐらの(特定の時代の)大衆音楽を、最新の時事に引き上げてみせたような事件である。

これらの短調リファレンスが混沌となって、私の拙作『祝日リマインド』として噴出した気がするのだ。

二.アルバイト・ブルース

2021年度、私は飲食店で勤務した。ほぼ人生初の業務で、サービス業である。これは、歪んだ認識を承知で云えば、世の人がはたらくときに様子をみながら休養をとり、世の人が休養しバカンスに励むタイミングで血気盛んに「よろこんでっっ!!」する業態なのである。

つまり、世の人と休みが食い違うのである。この負担感のシーソーのバランスを少しでも均すためにか、土日祝の出勤にはすずめの涙ほどの手当を出すようなアルバイトも世にはしばしばあるようである。

従事する人やら経営する人自身が望めば、ヒトがはたらくときに力を養い、ヒトが休むときに力をだす仕事に誰もなんの文句はないだろう。むしろ望むのは世のほうで、世はありがたいのである。

ありがたいことに、私には家族がいる。家族は字の如く、家を同じくするメンバーであるが、家族もまたそれぞれが「世の人」の一員だ。この国の社会に属する以上は、七曜も祝祭日も影響する生活をせざるをえないメンバーである。

もちろんサービス業に従事したからといって、世のヒトが休養するときいついかなるときでも、そのサービス組織のすべてのメンバーが常時働くわけではない。ただ、シゴトの本質として、稼ぎが見込めるときに然るべき手法や戦略で稼ぐというのは業界の鉄の精神なのである。

私を外したメンバー構成で私の家族は、世のヒトのマジョリティに近い七曜や祝祭日の動きをする。対する私はネガポジ反転した動きで働き・休みつつ、音楽の活動をすることで不屈の精神を保つ。

(念を押すが、サービス業に従事したからといって、必ずしも世の人のマジョリティ的動きと足並みを揃えることが常時できない、というわけではない。)

単に、私は、もっとほかの戦い方ができると思った。それだけの話である。

(そうしていまここにいる) 

“嬉しくないよ 祝日なんて 君に会えない リマインド 嬉しくないよ 祝日なんて 祝う間もなく 行かないと” (中略) “雨が降ろうと 風が吹こうと 夢追い人の おもてなし 僕は神妙に 祝いたい 休みを君と 祝いたい”(『祝日リマインド』より、作詞:青沼詩郎)

我ながらひねりのない歌である。ここまで率直な作詞も自作において稀かもしれない。

ちなみに“リマインド”はパソコンやスマホのリマインダー、プッシュ通知みたいなもののことである。あるとき、“ポキィーーーンッ”という一心不乱な効果音とともに、その日が祝日である旨をユーザー(私)に知らせる通知が轟いた。カレンダーアプリのプッシュ通知だったのだろう。

その瞬間の私の心情は、“うっせぇわ” である。“うれしくもなんともねぇわ” “何が祝日じゃ” “コチトラ働くんじゃぼけぇぇーー” なのである。

“きれいな音でおしえてくれてありがとう!” “今日はきっと、たくさんの人が幸せな気持ちで休みを過ごす日だね!” “そんな人たちの幸せに貢献する仕事ができるなんて、うれしくって、僕はなんて幸せなんだろう” “お客さんの幸せを思ったら、今にも働きたい気持ちがみなぎってくる!” 

……と、思える心の持ち主が私だったらば、『祝日リマインド』は決して生まれない幻の楽曲になっただろう。書き方がたいへんヒクツであてこすりのようになってしまったかもしれない。不快を与えてしまっていたら申し訳ないが、こうした人格を己の内に認め、それを解き放つことに決めたからこそ『祝日リマインド』は生まれた。醜いかもしれないが、私の真実の一部なのである。仕方ないのだ。己の一部を無視したり欺いたりするほうが、結果として自分に対しても他者に対しても不誠実に行き着くはずだ。たった一年間働いて、私は飲食店のエプロンを置いた。

まとめ

たいへんヒクツで醜い心の内をお見せするブログになったかもしれないが、拙作『祝日リマインド』の作詞・作曲、演奏の収録自体は大変楽しいものだった。時を映す、水のような流れモノであることが、大衆音楽や娯楽作品の命題である。私の自作が「大衆音楽」を満たすかはさておき(もちろんこの作品においてそれを志向してはいる)、己の生活のリアルな悲哀をモチーフにした割には、短調の大衆音楽のお手本(リファレンス)たちが私にくれた楽しみに音楽的なエネルギーをもらって、音が音を呼び、手をつなぎ、楽曲『祝日リマインド』は肉づきを得て服を着て活発に歩く作品となったのである。

よくも悪くも、軽妙な趣だ。人生につきもののしみったれた感情やら余計なリマインダーやらは笑い飛ばすかして、軽くあしらって先へ行くのが吉である。

青沼詩郎

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