変容するいのちの造形
玉置浩二さんの『田園』についてブログ記事を書いていたある時、素晴らしい曲は触れにくいことがある(的なこと)を述べました。
吉田拓郎さんの『流星』もそんなところがあります。ありがたく、おそれおおい、素晴らしい歌なのです。
これを聴いたり、歌ったりすることにすら抵抗が出るのとは少しちがいます。この素晴らしい歌について何か言うことを寄せ付けない反発力を感じるのです。弾性といいますか、巨大なソフトビニールボールといいますか……押す(作品について何か言う)ことで、跳ね返されるような強さを感じるのです。
歌ったり聴いたりすることについての抵抗感のなさに比して、何かについて「書く」というのはどうしてこうも私を苦しめるのでしょう。苦しむのに、なぜ何か言おうとするのでしょう。それは、甘みやうまみを引き立てる香辛料なのでしょうか。そんなかわいいものならどれだけ救われるでしょう。
よい歌は、変幻自在です。鑑賞した人の心を映すからでしょう。鑑賞する人の数だけ、その形が存在するのです。また、鑑賞する個人も、刻一刻と変化・成長します。ですから、同じ歌を同じ人が聴いても、同じ心象が立ち上がることはないでしょう。人は、時間が経つと別の人になるみたいです。
歌を聴くメディアがCDやサブスク、レコードなどであればまだ、再生するたびの再現度は高そうですが、ライブ演奏ともなれば、歌のほうもいつも同じ姿でいてくれるわけではありません。吉田拓郎さんの『流星』をライブで聴く機会が幸いにもあれば、そのたびに、その歌の「生」を映した瞬間的な心象が起こるはずです。
“静けさにまさる 強さは無くて”というフレーズが、吉田拓郎さんの『流星』にあります(1コーラス目のメロの折り返し)。
今日の私の心を砕く言葉です。
何も言わないこと……否定形の文はやめましょう。「口をつぐむ」ことで表現できることもあるのです。
静けさは、何かの助言を、慰めを欲する者には残酷なものでしょうか?
一体どの口が、助けを、慰めを欲する魂に、それに適う言葉をかけられるというのか?
私はときに、命の多様さ、おそれ多さの前に、口をつぐんでしまいます。私があなたに何かを言える道理なんてないのです。たとえば、すばらしい歌を語る言葉を探しかねて黙ってしまうように。
私とあなたは別の生き物です。あなたの境遇からみるあなたの景色など、私の想像では10分の1も、100分の1も再現できません。
それは当然のこととして(私の観察力・想像力の至らなさへの嘆きはさておき)、その上で相手の観る心象に寄り添った、配慮に長けた言葉を編み、抽出し、かけてやることこそが、人の寄り添いあいの理想なのかもしれません。抽象や観念のもとに言葉を編むことが、そのヒントでしょうか。それも愛であり、やさしさの表れです。
あるいは、相手の固有の心象を尊重するからこそ、口をつぐんでやることが愛であり、やさしさとする道もあります。
個人による心の風景が違うからこそ、相手の持つそれを知りたいという欲求もあるでしょう。それは、静けさでなくにぎやかさ、情報を求めている人、心の扉を開いている人の見せる態度かもしれません。
例えばあなたの親にとって、血のつながったかけがえのないあなたを、私は他人としてみることしかできません。あわよくば私があなたと直接かかわりのある友人であったなら、私とあなたの間でみた風景のいくつかは、あなたとあなたの親が見る心象のいくつかに匹敵するくらい、同じように(あるいはまったくの別物として)かけがえのないものだと胸を張れそうにも思います。
何かについて言うことは、言及する対象を限定することです。それなのに、歌のことばは、固有のいのちの有様に対して、広く横たわってみせるのです。最近私がふれた音楽でいえば、それが玉置浩二さんの『田園』であり、吉田拓郎さんの『流星』でありました。
剣も筆も、あなたや私の固有の命のありようも、歌にとってはモチーフのひとつなのです。私が歌にふれ、尊重し、それを続けようとする理由です。
儚いからこそ、まなざしをやるのを絶やさない。私も流れる星のひとつであるのと同じように、儚く瞬く多様な流星の姿を、ひとつでもふたつでも眼に焼き付けたいと思うのです。
あわよくばそれを、歌にして。
青沼詩郎
吉田拓郎『流星』を収録したベスト集『ONLY YOU』(1981)
真心ブラザーズによるカバーの『流星』を収録した『真心』(2001)。初出は同年のシングル『この愛は始まってもいない/流星』。
ご笑覧ください 拙演(YouTubeへのリンクShiro Aonuma @bandshijin『流星(吉田拓郎の曲)ピアノ弾き語り』)