高木麻早公式チャンネル(YouTube)『ひとりぼっちの部屋』へのリンク
スライドギターの音はリゾート感、極楽を私に感じさせます。でも主題は「ひとりぼっちの部屋」。観光地である必要はない。部屋が自分にとっての極楽の場所である、という人も、世には案外多いのではないでしょうか。私もそう思っているふしもある一人です。もちろん旅や外出も好きなのですけれど。
タッカタッカとハネたリズム、シャッフルビートといいますか3連のドラムスプレイが軽いタッチです。たとえば家庭の部屋でも許容されるくらいの音量で本当に叩いているかもしれません。コントロールが効いており、抑えた感じの音量はそのまま音色に直結しており、全体が見えている感じがして好印象です。
高木麻早さんのボーカルもまたニュアンスのコントロールが自在です。伸びやかでウェーブする波長を感じさせたかと思えば、2分44秒頃の歌詞“おやすみなさい”のところの言葉尻に向かっていくダイナミクスと音程の抜き方が表現技術を感じさせます。軽いタッチで甘くささやくニュアンスもあるのですが、伸びとゆらぎ(ビブラート)の質量が確かで、懐のサイズ、歌唱の幅広さを、コンパクトな曲想を乱すことなく映しています。といいつつ曲のサイズが4分半を超えているのが意外ですね。オープニング、間奏、エンディングとありますし、本編の歌詞フレーズもひとつひとつを丁寧に積み上げていきます。母音を長く伸ばすフレーズがほとんどですから、このサイズ感もうなずけます。エンディングのラララ……もありますし。
そうして母音を長く伸ばすのもあって、歌詞のボリューム(語数)はコンパクトです。このタッカタッカ……といった軽快な曲調に乗せて、歌詞サイトでみるにおよそ6行×2コーラス程度で結んでしまう語数。つらつらっと嘆いていったら、2分半くらいで終わってしまう曲が出来上がる平行世界があってもおかしくなさそうです。「ひとりぼっちの部屋」に流れる時間そのものを表現しているような妙味を見出せます。長いような、あっという間にすぎていくような……音楽は相対的なものだとしばしば思い至るのですが、時間もまた相対的なものであり、音楽を「時間芸術」と呼ぶ向きも身に沁みて思い知るところです。
“今ひとりソファー横になって 今ひとり時計ながめている おやすみなさい それは昨日 いつもの駅で それは明日 今ひとりソファー横になって 今ひとり想う あなたのこと”(『ひとりぼっちの部屋』より、作詞:高木麻早)
部屋で、ほんとうに何も起きていないような歌詞です。上に引用したのは2コーラス目で、「駅」のモチーフも出てきます。語っていないだけで、主人公には生活の時間、そしてあなたとの接点のある時間がなんらか、流れているのかもしれません。とにかく、言葉、情報量をすくなくすることで、鑑賞者のイマジネーションの余白を稼いでいます。いろいろ想像しますね。
ただ明るく躍動した曲調をしていますから、恋へ寄せる期待やワクワク、進展を楽しみにする気持ちが楽曲の根底にある、そこを描いた作品であるように思います。……それなのに、ちょっとどこかアンニュイで、つまんなさげ、悲しみを悟ったような響きを携えてもいるように感じるのは高木麻早さんの作詞作曲、歌唱、さらにはバッキングの演奏や編曲の神秘です。
もう砕けてしまった恋を、あとになって回想した曲とも思えてしまう。
“ギターのつまびき それは昨日 甘いささやき それは明日”(『ひとりぼっちの部屋』より、作詞:高木麻早)
何かを象徴しているようです。どう解釈されるのかを試されているよう。試すほどの高い打算の意識はなくとも、自分自身も解釈を絞れない、わかりかねる、ぽっと口をついて出てくるものをそのままに発したような趣もあります。曲が外に出ると、極端な話、その作者・ソングライターでさえ、曲の「鑑賞者」になります。『ひとりぼっちの部屋』の作者がもし私だったら、ずっとあとになってこの曲を振り返って、自分の子供をみやるような気持ちで、「あいつ、何考えてんだかねぇ……」とでもつぶやくのかもしれません。手を離れたら、リスナーとソングライターの壁はないのです。
「部屋」が社会と個人の境界に重なって思える。リズムやメロディ、演奏も極上でいて、「深み」「含み」をコンパクトなモチーフ・主題に重ねた傑作ですね。その「恋」はどう見えるのか。観測者の位置によって、さまざまなのでしょう。
青沼詩郎
高木麻早 “Official Page” へのリンク(facebook)
『ひとりぼっちの部屋』を収録したアルバム『高木麻早』(1973)。
ご笑覧ください 拙演(YouTubeへのリンクShiro Aonuma @bandshijin『ひとりぼっちの部屋(高木麻早の曲)ギター弾き語り』)