作詞:金延幸子、作曲:大瀧詠一。金延幸子のアルバム『み空』(1972)に収録。

時間が止まったみたいななんとも不思議な曲です。アルバムの存在、金延幸子さんの存在そのものも世界とつながっているようで特異な点に浮遊しているみたいに感じられます。

編成はほんとうにシンプルで2本のみのギターが左右に振ってあるのみ(エンディングの最後の最後の主和音のみ、3本目が真ん中にあらわれるような感じがしますが)。

このギターの音がまた魅惑。左に振ってあるのが、金延さんが弾きながら歌う想定のギターでしょうか。2本のギターと歌をぜんぶ「せーの」で録ったテイクかどうかわかりません、ギターも歌もきれいに収録されています。左のギターの音色がえもいわれぬ繊細な美しさ。金属弦のギターだとは想うのですが、ナイロン弦かどうか?と悩ませるほどに中性的な音色をしています。リュートだとか、そういう中世の古楽器みたいなものも想像させる儚げな音色ですし、ハープなども想像させます……といいつつそこまで絢爛ではないか……木村弓さんが『いつも何度でも』の演奏で用いたライアーのような、パーソナルな響きを思い出しもします。

右のギターが2本目、相棒の奏でるパートといった感じがします。リズムとハーモニーを補強し、臭くならない程度にオブリ(合いの手)を添える感じでしょうか。左のギターよりちょっとだけ上の音域にいるくらいで、役割や機能についていえば左のギターとそこまで隔絶はありません。やさしく見守り、伴走している印象です。ハーモニクスを含めているのが印象的で、適確に華を添えるアイディアだと称賛しておきます。

金延さんの歌唱はまっすぐで繊細。ささやくような可憐さもあるのですが決してぼそぼそした独り言のようなものではなく、世界の空気とつながった芯の通った感じがします。

シンプルなサウンドが与える印象のなかで、和音やリズムの車窓はユニークな情景を映します。“トゥル……”のところですね。A♭メージャーでつむがれる本体ですが、「トゥルル……」のところはG♭M7→D♭M7のパターンでしょうか。あいまいなくすんだ音を出します。雲のよどんだ色がまじる空模様を思わせますね。コーラスの“雨模様”…… ”なのです”を唱えた直後の和音もクセがあり、Fメージャーの和音にいく。セカンドギターがハーモニクスを添える部分です。ここの和音はA♭調でもちいるとⅥメージャー的な立ち位置でしょうか、直後にB♭mとかに進めばセカンダリー・ドミナントっぽい性格がはっきりするのですが、そのまま“トゥル……”のG♭M7に進みます。これもまぁB♭マイナー調でⅥの和音に進んだD→T(ドミナント→トニック)とみてもよいのでしょうが……

和音進行がクセ強(つよ)になると同時に、「トゥル……」で変拍子したような趣になります。ボーカルのリズムのポイント的には6/8拍子×2小節で数えると解釈しやすいと私は思いました。

言葉の乗り方がまた大瀧さん的といいますかはっぴいえんど的といいますか革新的です。

“私が目ざめると 花がこくりうなずき”(『空はふきげん』より、作詞:金延幸子)

「うなずーき」のところは「ほおずーき」みたいに花(植物)の名前が重なるようなふしまわしを感じます。「うなずき」(頷き)という日本語の単語を置いているようには思えず、「日本語ロックは成立する」を証明し論争を終結させるはっぴいえんどのエポックメイキングの延長にあるような印象です。外国語みたい(関係あるかは別として、金延さんは外国に住んでしまう。彼女の特異な存在感とのつながりも思わせます)なのです。

先にも述べた“雨模様”…… ”なのです”の二語のあいだにある溝も、「日本語が日本語であること」という溝の上空をいく表現に思えます。

“花びんに つめたさと朝を 束ねて たっぷり そそぎこむ”(『空はふきげん』より、作詞:金延幸子)

音源の1分10秒頃〜。2コーラス目のこのあたりも「お前は日本語である」の呪縛から解き放たれたような趣。日本語に聞こえない印象を受けもするのですが、聴くほどにどこまでも「日本語」を煮詰めたような意味の濃さも同時に味わう不思議。やっぱり私は日本語なんだ。だけど、どこにでもある日本語じゃないんだ。私も日本語といえば日本語だけど、たったひとつの、替えのきかない、唯一無二の日本語なんだ……と。「日本語」のところは「日本人」とか「人間、ヒト」とかいった、アイデンティティ、固有のものに与えるあらゆる「くくり」を代入して読めばよいでしょう。思えば、言語も、共通の理解をはかるコミュニケーションの道具であると同時に、その人その人に独自の観念が体系が存在してもいる、と私は考えます。一人ひとりのなかで、「訛っている」というのも私のありのままの思いを歪めてしまう。言葉は思いを、意図・意思を、どうしても歪めてしまうのです。もちろん、その精度は、道具の使い手の手技や所作、道具選びによって飛躍的に高まるものだと補足します。だけど、やっぱり言葉はフィルターでもあるのです。フィルターを通して、受け入れ合うしかない。自分のフィルターがどんなものかに対しての観察と評価の更新をやめないことで、私はなんとか正気で世界とのつながりを保っている気がします。

話がひとり走りしてしまい恐縮です。

あなたも、金延幸子を、単曲としての『空はふきげん』を聴くと、そういう「深み」だか「高み」に意識が行っちゃうような感覚を味わいませんか? 私を誘う宙の引力。

青沼詩郎

参考Wikipedia>み空

参考歌詞サイト 歌ネット>空はふきげん

ビクターエンタテイメント>金延幸子

『空はふきげん』を収録した金延幸子のアルバム『み空』(1972)

ご笑覧ください 拙演(YouTubeへのリンクShiro Aonuma @bandshijin『空はふきげん(金延幸子の曲)ギター弾き語り』)