あちこちで変化していく音景。ロックバンドを5年10年……とやって行き、この景色が見せられる表現者がどれだけいるか? Mr.Childrenだけでしょう。いかに彼らが独自のところにいるかを思い知ります。
決して器用ではなく、偏ったり足元がふらついたり、不器用な内面をさらしながら、どうにか「まっとうに生きている」と思ってもらえる見てくれのバランスをどこかで保ちもする絶妙なソングライティング。ぎすぎすと世界との摩擦熱にあえぎながら冷たい夜風を感じている……妄想がふくらむサウンドと歌唱の極みです。
グロッケンやビブラフォンが耳福。西洋の端正なコード進行やスケール感も西洋音楽的で緻密な文脈を呈します。グロッケンは表層のきらめき。都市の夜景の街灯を思わせます。間奏はコンコンと、ビブラフォンの音色でしょうか。短2度を印象的に用いて、なめらかな進行でありながらスパイシーなにおい、光陰を効果的に与えています。バンドの間奏=ギターソロではない。己のレパートリーもキャリアも俯瞰して、適確に音楽の語彙を選択し与えていくスタンスを感じます。
エレキシタールみたいな音やらなんやら、交雑した都市や民族臭も香ってくるし、古き良きポップスの様式美みたいなものへの体温も感じます。それを、いまこの身をおいている都市であえぎながら吐き出す生の言葉と声で歌う。Mr.Childrenが生きたコンテンツであり続けるのは、ひとつはこうした現在過去未来にまたがる目くばせの広さと、個としての目線の鋭さ、解像度、体温のような生々しさがありそうですが私の言葉が下手すぎて端から端から彼らの魅力がはみだし、こぼれていくようです。
“もしもまだ願いが一つ叶うとしたら… そんな空想を広げ 一日中ぼんやり過ごせば 月も濁る東京の夜だ そしてひねり出した答えは 君が好き 僕が生きるうえでこれ以上の意味はなくたっていい 夜の淵 アパートの脇 くたびれた自販機で二つ 缶コーヒーを買って”
(『君が好き』より、作詞:桜井和寿)
タイアップの関係もあってか、コンパクトにまずは背景や思いの全容を抽出し、早い段階で提示するつくりです。
「月も濁る東京の夜だ」は思わせますね。都市への批判……というとおおげさですけれど、人々がつどって経済や生活の基盤を共有し、ともに保守・運営・持続・発展をこころみ、実践する場所、その最たる象徴のひとつが東京でしょう。空気の汚れが、月までの見通しを濁らせるのかもしれません。あるいは、主人公のこの眼が濁ってしまっているのか。涙を浮かべたことによる視界の悪さを「濁り」ととらえても良いでしょう。
生きる意味を問われてすぐに答えられたら、用意していたとしか思えません。主人公は考えあぐねた……というよりは「一日中ぼんやり過ごせば」といいます。考えても、答えは出ない。というか、考える前に答えが出ているのでしょう。もちろん、「考えて、出す」類の「答え」の存在を否定するものではありません。でも、「生きる意味」というレベルのばくぜんとした問いともなると……それは考えるというよりも、感じる、反射するようにそこに存在するものなのかもしれません。それについて、「君が好き」というわけです。そこに、正直さと不器用さと誠実さと、それゆえの短絡さも愚かさもみんな映り込んで思えるのです。ただのきれいなだけのラブソングならば私は見過ごしてしまうでしょう。
自販機がくたびれてみえるのは、自分がそうみているからかもしれません。自分のなかにあるものを他人が持っていると、目につくものです。他人の「醜いと思うところ」を反面教師に、自分はそういう醜さを露呈しないようにしよう……と思うことがあるかもしれませんが、意外にも、自分こそがその反面教師とおなじ醜態をさらしているということはままあるものです(私自身がきっとそうであるように)。
くたびれた無機物が吐き出す、缶コーヒーのぬくもり(あるいは冷たさ、甘さ、苦さ…)、インスタントだが、確かにありがたいその感覚上の差し入れ。モチーフのディティールを通して、人の動きや、時間の経過、感情や感覚(「くたびれた」)を描く才覚を真似たいところです。
“君もまた僕と似たような 誰にも踏み込まれたくない 領域を隠し持っているんだろう”
“君が好き この響きに 潜んでる温い惰性の匂いがしても 繰り返し 繰り返し 煮え切らないメロディに添って 思いを焦がして”
(『君が好き』より、作詞:桜井和寿)
スピッツの優れた楽曲の中に、絹のような極上の質感に潜ませたおぞましいほどに鋭い毒や冷酷さ・非情さのようなものを感じることがありますが、そうした熱気や冷気のようなものの実態を、特別なセンサーを持たない者が漠然と知覚してしまったときにこぼれ出る言葉として、こんなラインが適って思えます。Mr.Childrenの楽曲において時折感じるのは、こういった「フツーの感覚」、一般的なセンサーで得られる知覚を基準に沁み出す言葉の実直さです。リスナーに、「自分に近い目線から語られる言葉」、親近感や好感を持たれる理由のひとつかもしれません。
一方で、「君が好き」の響きに惰性の片鱗を嗅ぎ取ってしまう敏感な感性、卓越した感度の高さもありつつ、そのことが音楽を沸騰もさせず、しかしじりじりと焦がすようでもあり、その様子をサビ冒頭での「君が好き」との提示のあとに連ねていくわけです。この機微を味わう品性を一度捨て去ってひとことしてしまえば、なんて偏屈でまどろっこしい奴なのだろうと……それこそが裏返せば、表現者の鑑たる所以なのだと思います。鑑なんだけども、真似してどうこうなる・真似できる次元でもないんですよね。
音楽(楽曲)を聴いて、ひたすら「(うわぁ~……)」と、打ちひしがれる。言葉を超える感覚がゾワゾワと音を立てんばかりにざわつくのです。仕方ないから、言葉の意味を拾い上げて、講釈ぶったものを垂れてお茶を濁す。月と私を隔てる、空間が汚れているのか、その空間に包まれて私も汚れてしまったのか。知覚し、感覚を研ぎ澄まし、文脈をつかむほどにしんどくなる……己に合わせて、残酷にも非情にもなる伸縮性がMr.Chidrenの作家性の特徴である気もします。
青沼詩郎
参考Wikipedia>IT’S A WONDERFUL WORLD
『君が好き』を収録したMr.Childrenのアルバム『IT’S A WONDERFUL WORLD』(2002)