録音作品は固定されたソフトであるというのも真実です。でも、鑑賞するたびに違った体験をもたらします。どんな状況・環境で鑑賞するかで違いますし、鑑賞する人の成長、もっと些細なことでいえば体調。だれと、どんな気持ち・近況のときに、どんな再生環境でどんなふうに聴くかでまったく違った音楽体験になるわけです。固定された録音作品も、聴く人によって生かされる:生命を与えられるのですね。

ジョン・レノン&プラスティック・オノ・バンドの『パワー・トゥ・ザ・ピープル』は以前にも鑑賞しこのブログで取り上げたことがあります。いま一度鑑賞し、録音作品に生命を与え続けたい(上から目線っぽいのは意図しませんが)と思います。前回と同じことを書くかもしれませんが、あえてあまり重複を気にせず正直に今回思ったことを書きたいと思います。

ちなみに、録音作品もリミックスされたりリマスターされたり……という、送り手側の与え続ける命、息吹もありますね。「更新」がつづけば、生きたコンテンツであり続けるわけです。「周辺の情報の更新」とか、「些細な価値の付加」くらいでも更新になります。それと、リスナー側の生理状況や環境や成長がかけ合わされば、その鑑賞体験の幅は多彩で無限です。

楽曲の初出、作詞作曲名義について

作詞・作曲:John Lennon。John Lennon/Plastic Ono Bandのシングル(1971)、コンピレーション『Shaved Fish / Lennon Plastic Ono Band』(1975)に収録。

Power to the People(Ultimate Mix)を聴く

パワートゥザ……のタイトルの通り、ボーカルの群像の圧倒的なパワー。でも意外と低音域のボリューム的な比重はベーシックのために空けてあります。女性の声が比重としては目立つボーカル群です。イントロのアカペラ、手拍子のサウンドは案外かろやかです。

バンドが入ってくると、アカペラのイントロからややピッチ感が楽器の支配に服して変化する感じがあります。機械的にイントロのアカペラから合わせるよりも自然なセッションという感じがして好ましい。

はじけるようなベースのリズムが良いですね。シックスの音をつかって躍動しています。ドラムスのドカドカした熱量も好きです。これがなきゃ。

ジョンのボーカルがずっと、かなり高いポジションを保っています。たとえばポール・マッカートニーの声域だったらそこまで「高い」というほどの音域でもないかもしれませんが、ジョンのおいしい声域としては比較的高いところにずっといる。それだけ、「怒り」とまでいっていいかわかりませんが、大声で伝えるべきことを直接的に表現しているのを感じます。

サックスがずっとブイブイいっています。ゴロゴロと喉を鳴らすみたいな節まわし、サウンドのアクのつよさ。大衆にわかりやすい娯楽音楽的なアプローチを感じます。崇高で理知的でクールなアティテュードでなく、市街の、ストリートの音です。あるいはその通り沿いにある、なんの変哲もないありふれた酒場でこういうフシの効いたサックスの演奏が聴けるかもしれません。

アルティメイト・ミックスの機微かもしれませんが、フェード・アウトが長く、セッションの空気をたっぷりと収録。音の切れ側まで、ひとつづきの空気=セッションの模様が味わえるエンディングです。

歌のメッセージを聴く

楽曲の主題……といいますか、言っていることは、労働者、それから女性の権利や扱いのあるべき姿、望ましい方向についてでしょうか。2023年(この記事の執筆時)であっても、女性や労働の問題はあらゆる国の社会で存在し続けています。1970年代だったらもっとひどいものだったのか、あるいは時代が進むことによって生じた新しいひどい問題も多々あるでしょう。社会問題や戦争も、ある種の普遍……などとは口が曲がっても言いたくない、「理想としてはなくなってほしいモノ」なのですが、現実として、いつの世にもつきまとっているように思えてなりません。

社会的なメッセージとはいくぶん距離のあるところ……社会の問題うんぬん以前のところでその魅力が堪能できる美しい音楽作品をたくさん残したジョン・レノンだからこそ、ここは、「美しいフィクション」のみを送り出す表現者としてのポジションから乖離することを受け入れてでも、言っておくべきことを、可能な限り近寄り、大声でいうということを選んだのだと思うと、音楽も社会をかたちづくる「現実」である側面を自覚させられます。

私個人としては、どちらかといえば音楽作品は現実の社会問題や政治問題などとはいくぶん距離のあるところで堪能していたいという「心理反応」をしがちな気質の人間ですので、『パワー・トゥ・ザ・ピープル』を発表したあたりの時代のジョン・レノンのふるまいや考え、思想などについてまだまだ研究しがいがありそうです。

それはともかく、私は単純にただの音楽好きとして『パワー・トゥ・ザ・ピープル』を楽しんでいますし、楽しめてしまってもいる。そのメッセージの重さはそれとして、認めつつ。メッセージを無視しているつもりはもちろんありませんが、メッセージそれ自体は音楽とは「別の次元で認知している」とするのも、メッセージ・ソングのアイデンティティを否定することになるのかもしれません。なかなかシビアで難しいところです。この難しさが、平素の私の「なるべく社会や政治への直接的なメッセージと“音楽表現”はいくらかの距離をもって楽しんでいたい」という生理反応の理由のひとつなのかもしれません。「難しさ」をすっ飛ばして、直接五感・六感に働きかけられることが、音楽のいい面のひとつでもあるからです。政治や社会問題に対する考え方の違いを原因に、多様な人々を断絶しないところが音楽のいい面の“ひとつ”であるから……(もちろん考え方・価値観の相違によって人を断絶する音楽もありえますし、その存在を否定もしません)。

私の好きなアーティストのひとりが忌野清志郎さんです。彼も、ある種の直接的なメッセージを含ませる活動をみせたひとりでしょう。どの人の音楽も、いち音楽作品として、深い考えなしに(考えなし、ではないですが社会への価値観とは別の次元で)楽しめてしまっている私ですが、表現者の社会におけるふるまいについて学ぶべき先例として、思いつきですがジョン・レノンと忌野清志郎を連想した……というくらいでこの記事は一度筆をとめておきます。引き続き、音楽の周りをうろうろしながら考えていきたい。

青沼詩郎

参考Wikipedia>パワー・トゥ・ザ・ピープル

歌詞の邦訳参考サイト 世界の民謡・童謡>Power To The People 歌詞の意味・和訳 パワー・トゥ・ザ・ピープル ビートルズ解散が裁判で確定した時期のジョン・レノンによる楽曲 新聞社のインタビュアーに触発されたという作曲動機がうかがえる記事。楽曲でメッセージを直接的に伝える形になったのは、それ以前のジョンの表現活動では効果が薄いという意味での批判が前提としてあったのかもしれません。

『イマジン:アルティメイト・コレクション』(2018)に収録された“Take 7”のPower to the People。筋力いっぱいのシンガロングと違ってジョンの独唱。楽曲の骨子を作曲者・歌唱者のジョンや演奏者たちがどう理解・解釈しているのか、オリジナル音源とは別のディティールが伝わってきます。特にコーラスのところのコード感。トニックとサブドミナントの反復使用がはっきりうかがえるところが目から鱗でした。

アルティメイト・ミックスの『Power to the People』を収録した『イマジン:アルティメイト・コレクション』(2018)

 シングル曲だった『Power to the People』をアルバムとしておそらく最初に収録したと思われるシングル集『ジョン・レノンの軌跡 シェイヴド・フィッシュ』(1975)。ジャケットからかぐわしさがぷんぷんします。

ご寛容ください 拙演(YouTubeへのリンクShiro Aonuma @bandshijin『Power to the People(John Lennon, Plastic Ono Bandの曲)ギター弾き語りとハーモニカ』)