音に景色がみえるか

歌詞の中で、晴れているとか雨だとかいってしまえば、それは言葉が意味を発揮しますからそういった天気を思わせる視覚的な描写をリスナーの頭のなかに起こすことができるわけです。

ちがう言語を用いる人のあたまの中ならどうでしょう。意味がつたわらないから、雨(ame)という発声・発音を聞いて雨を思い浮かべることはない……はず。ameという発声が、なにか、そもそも言語を超えたところの起源をくんで生まれた言葉だとしたら、ちがう言語を用いて生活している人の頭中にも、その発声、単なる音声の情報が、ふしぎと「雨」を立ち上がらせることもあるのかもしれません。言葉……あるいは歌詞も音楽の一部である、とひんぱんに私が思う理由のひとつをニッチにつつくと(深く追求すると)、そんな屁理屈が顔を出します。

つまり、歌詞のなかで、直接的に、視覚の喚起につながる単語を伝えなかろうとも、音楽は聴く人にさまざまな情景を立ち現せるのです。至極当たり前のことでしょう。

なにかがしゃらしゃら、さわさわと鳴っている……そんなふうにも聴こえる音が音楽に含まれていたら、お米の生産に携わる農作業を思い浮かべるかもしれませんし、風が木々の枝を揺らす森林や山野を思い浮かべるかもしれませんし、海の波打ち際を思い浮かべるかもしれません。その音が、直接、現実にあるほかの何かしらが発する音に似ているからそれを想起する、というのは話の筋が通るでしょう。

直接何かに似ていればそれを想起するのは当たり前ですが、この話の筋が、どんどん複雑化して、多層になっていくことがヒトのアタマ(、と仮にしました。ハート、でも結構です)で起こっているはず。たとえば、さわさわ・しゃわしゃわしている音を聴いて思い出すのは海であり、初めて大きな恋をした相手とキスをしたのが海だった、その相手と別れた場所は上京して大学生活を4年ほど過ごしたあの街だったから、さわさわしたその音を聞くと頭の中に立ち現れるのは別れた相手の表情と4年を過ごしたあの街とそのとき降っていた雨の景色だ……なんてこともじゅうぶん起こりうるわけですし、これでも話の筋が相当に単純なほうで、ヒトのココロや記憶やカラダにおいては、もっともっともっと深層的でカオティックで複雑なことが起きていて、思いもしない感情や思想や発想を立ち現せているはずなのです。

曲についての概要など

作詞・作曲:曽我部恵一。サニーデイ・サービスのシングル(1995)、アルバム『東京』(1996)に収録。

恋におちたら(『東京 (Remastered)』収録)を聴く

随所でリーンと鳴る、自転車のベルのようなトーンが「街」を思わせます。からだのすぐ近くで鳴るありふれた音が都市の暮らしを思わせます。

これは素晴らしい。ひとつひとつの演奏の質感や機微、楽曲、ミックスやマスター的なサウンドの創意や洗練、すべてにおいて素晴らしいです。

右のほうからアコギ。単なるストラミングでなく、指がフレットボードのうえで躍動しているのがみえる。巧くて、いきいきと動く伴奏が良い。アコギと対になるのは左側のエレピでしょうか。やさしく耳ざわりここちよいサウンドで和声を囁きます。

イントロで提示するのはベース。ちょっと引っ掛けたようなストロークのグルーヴ感がまた良い。べらんとした表層の色気と深い低域の両方ある感じで艶やかなトーンです。ドラムスのシンプルなプレイも映えます。フィルインの派手さ達者さも対比が聴いて耳を惹きつけます。

すべてのパートのセパレーションがすばらしい。それぞれのパートの領分が「視える」ようなのです。テキトーに録って混ぜてこんなふうにはなりえない。オトが素晴らしすぎます。

すごく面白いなと思ったのが、コーラス(ⅥmからⅣまで下行してまた上って、を繰り返すパターンの部分)で音像がモノラルっぽくなるところです。各パートの棲み分けがすこぶる良く、極上のサウンドでつづっていく抒情的なメロから、Ⅰ→♭Ⅶ→Ⅳを繰り返す展開でピアノトラックを左右いっぱいにつかって広げて音量的にもガンとぶつけてきます。うわっとリスナーの耳をかっ開いて、コーラスに入ると、ギューッとまんなかエリアに音がまとまるのです。サニーデイ・サービスの、あらゆる音楽に精通した嗜好を感じます。モノラルのレコードで発表された、むかしのグループのむかしの楽曲なんかの愛嬌を私は思い出しもするのです。

メロではエレピが平静に和声を唱えていくのに、Ⅰ→♭Ⅶ→Ⅳのうごきでガンとアコースティックのピアノが盛大に歌いだすのです。コーラスではアコギもちょっとストラミングっぽくなって、バンドの音がまとまりを帯びて、和声の進行パターンもシンプルでコンパクトになります。ユニゾンしたボーカルはいつのまにか字ハモで響きが開いていく。コーラスをおえて、「フゥーフゥー」とボーカルが天井をつつき、私の心を浄化だか昇華に導いていきます。ながくながく余韻を演出し、このままフェイド・アウトかなともおもわせて、イントロでベースとともに聴こえてきた、ささやくように何かをつぶやくようなアコギがエンディングにもついて、バンドの音は長い長いピアノのストロークの余韻とともに、思い出のなかの街へと消えていくようなのです。私の心が拍手喝采をしています。こんなに素晴らしい音源に出会えることは人生の最たる喜びのひとつだと。

恋のにおい

“昼にはきっときみと恋におちるはず 夜になるとふたりは別れるんだから 恋する乙女のようなこんな晴れた日は きみをむかえに きみをむかえに行くよ”

(『恋におちたら』より、作詞:曽我部恵一)

不倫の歌っぽくもあります。夜になると別れるふたりって、どんなペルソナなのでしょう。

恋って見栄の張り合いでもあります。本当の自分をいかに隠して、良く見せ合うか。昼は、その「ハナ」の自分を見せる時間。夜は、仮面を置いてすっぴんの自分に帰る時間。

恋にはエネルギーがいるのです。美化した自分のスイッチを入れ続けなければならない。スイッチが入っている時間が「昼」なのです。

恋も多様です。仮面を置いて、どれだけ裸になってドツキ合えるかこそ醍醐味だとする人がいても良い。私個人としては、ありのまま、実寸大を受け入れ合うのはどちらかといえば「愛」という観念がマッチします。恋は、幻想の見せ合いっこ。幻術合戦です。恋する二人は、理解者というよりは、対戦相手なのです。

愛においても、理解は難しい。相互受容こそ愛です。

昼のまばゆい光は、お互いをまっさらに、潔白にしてしまいます。夜の暗がりに乗じて隠したり、闇に甘んじて誤魔化したりが効かない時間帯が昼だともとれます。誤魔化しのないまっさらな自分になって、お互いを求め合う昼の時間帯の恋の場面なのだとも思えます。

“どこかの家に咲いたレモン色の花ひとつ 手みやげにしてそっときみに見せたいんだ 長い髪花飾りどんな風に映るだろうと 考える道すがら 愛しさ広がるんだ”

(『恋におちたら』より、作詞:曽我部恵一)

街に出て出会うもの、目にするもの・知覚するものが、自己のなかに陣取る意中のものと呼応する様子を思わせます。きみのことを主人公は想っているから、レモン色の花を見て、「君に(やりたい、見せたい)」と思いつくのです。レモン色の花をみて、パッと「きみ」と結びつく反射神経を、主人公にもたらしている。それをさせるのは「きみ」自体なのか、それとも「恋」の仕業なのか。

“晴れた日の朝にはきみを誘って何処かへ 行きたくなるような気分になったりする だれかと話したくてぼくは外へ出るんだ 住みたくなるような街へ出てみるんだ”

(『恋におちたら』より、作詞:曽我部恵一)

晴れた日の朝の知覚が、主人公に「きみ」の想起を誘うのです。きれいだな、天気がいいな、この光と空気の中に自らの身をおきたい、「きみ」をともなってそうしたいと思わせるのでしょう。この冬初めての雪にときめいたら「きみ」に教えたくなるし、夜空に光の穴を空けたみたいなぽっかりした月を見ても「きみ」に教えたくなる、森羅万象が「きみ」を思い出すトリガーになる。これまさしく、恋という現象であり、状態です。

主人公が外へ出ることで、街がつくられます。カフェの店員がお昼前に通りに向けて立てた看板も、その前を通り過ぎるあなたもすべてが街の景観。人の体温、行動やそれにともなう痕跡、その向こうに見える意図や想い。今日はどんな恋がはじまるのでしょう。

青沼詩郎

参考歌詞サイト 歌ネット>恋におちたら

ROSE RECORDS>Sunny Day Service

参考Wikipedia>恋におちたら (サニーデイ・サービスの曲)

『恋におちたら』を収録したサニーデイ・サービスのアルバム『東京』(1996)