ひとかけらの純情 南沙織 曲の名義、発表の概要
作詞:有馬三恵子、作曲・編曲:筒美京平。南沙織のシングル(1973)、アルバム『ひとかけらの純情』(1974)に収録。
南沙織 ひとかけらの純情を聴く
コーラス(サビ)はじまりで印象づけるコンパクトな構成です。イントロは南沙織さんのメインボーカルが不在、コーラスのみの趣き。イントロなのだけれど、いきなり歌詞のあるハーモニー。でもいわゆるサビはじまりなのとちがって、あくまで「背景」の提示から導入を始めている感じです。
南さんのボーカルの器の底深さを感じます。録音当時お若い頃なのでしょうけれど、品がありつつ同じ地平に立つフラットさ、大衆のなかの私とも目線を共有してくれているような親しみを持てます。
筒美京平さんの作曲・編曲はたとえば平山三紀さんの作品など、ブンブンとベースがファンキーで活発なアプローチにときに驚かされますが、南沙織『ひとかけらの純情』においては甘いハーモニーを質量ある輪郭のひきしまった確かな演奏で統率するようなベースです。短く切ってストロークするプレイが、甘いハーモニーをボワっとさせずに凛々しい印象を与えるほどです。ベースの仰ぐべき功労とはこういうものでしょう。お手本にしたいですね。
メロはしっとりした歌です。ピアノが上行音形でアルペジオ。楽曲そのもの、並びに南さんの歌唱の品のよさを強調するのはこのピアノの存在のおかげかもしれません。
柔和な合いの手を入れる金管楽器も甘美です。ブラスは華を散らしたり、夕日のような哀愁を私に感じさせることの多い楽器ですが、『ひとかけらの純情』においてはブラスってこういう甘い表現もできるのだと教えてくれます。
いつもレクイエムを あの部屋で聞かされたのね ぎこちない手つきの お茶にさえときめいて なぜ思いがけない時さめてゆくの あんなにも愛して まだ信じられないのよ あなたからつらそうな さよなら
何も実らずにいつも終わるのね 若い涙ひとつふたつ今はいいけど
あの恋のはじめの日を 誰かここへ連れてきてほしいの あの胸のうずくような 恋をしてる人にならわかるわ
『ひとかけらの純情』より、作詞:有馬三恵子
レクイエムとは鎮魂歌ですよね。浮かれ気分、幸福・充足、あるいは情熱など、恋愛の盛り上がる最中にはそぐわないスタイルの音楽ではないでしょうか。つまり、恋が収束してしまう、(恋が)この世を去ってしまう、恋が終わってしまうことの暗示でしょうか。レクイエムを聞かされたのは主人公なのかあなたなのか、主語がちょっとあいまいです。
恋愛中はささいなことにも愛嬌を感じ、魅力に思えます。「ぎこちない手つきのお茶」。あー……これ、別れを希望することが意識を覆い尽くしてしまう恋愛の終わりの頃とか、あるいは初々しい恋愛の時期をずっと過ぎて結婚して子供が生まれて育児で心に余裕がないときとかにはむしろ許せなくてイライラさせる数多の些事のひとつになってしまいかねないのを思います。キャンディーズに『年下の男の子』という歌がありますが、あれも、恋愛が盛り上がっているうちはいいけれど、これ、恋の魔法が解けると吐き気をもよおすほどに許せなくなるやつでは?! と私に妄想させる歌詞があったのを思い出します。
『ひとかけらの純情』が描く「ぎこちない手つきのお茶」という歌詞はさすがにそこまでのことはないでしょう。さらっと描いていますから品を感じるし、恋ってそう、こういう些事にキュンとしちゃうのよねぇ、とうなずける気持ちにリスナーを自然にさせてくれるバランス感・かろみです。
些事にときめく心を愚かだったと回顧するのではなく、あのときめきをもう一度連れてきてほしいと願うところが、主人公の心の清さを私に思わせるのです。あの恋を悔いてはいない、むしろ良かった、美しかったと評価している、自分の過去を受け入れている器を思わせるために、さわやかで、甘くて、純朴で、ちょっとせつないのです。
遠い目をしてセンチ(メンタル)になるのでなく、いまもこの胸にあるかのように思い出を扱っています。幻ではなく、この胸に、血や肉となって実在するものを描いているのです。
青沼詩郎
参考Wikipedia>ひとかけらの純情 ひとかけらの純情 (アルバム) 南沙織
『ひとかけらの純情』を収録した南沙織のアルバム『ひとかけらの純情』(1974)
ご寛容ください 拙演(YouTubeへのリンクShiro Aonuma @bandshijin『ひとかけらの純情(南沙織の曲)ギター弾き語り』)