断捨離という言葉が嫌いだ。世の中に蔓延るすべての「断捨離」という単語は、くいしんぼう秘密結社の図らいか何かで「銀シャリ」にでも変わってしまえばいい。世界の幸福の総量が若干上がるのではないか。

私は「社会教育的なこと」をライフワークの一部にしている。そこでは日頃、口酸っぱく……いや、口に糊し……いや、口角泡を飛ばし……なんでもいいのだけれど、兎に角、繰り返しくりかえし「つながろう」とか「孤立を減らそう」とか「見守り合おう」といったことを言ったりその使命を達成しうることに直接・間接につながる事業をやったりしている。そういったことに全力なのだ。

断捨離の三文字をまじまじと見てみよう。

「断」。断つなよ。こちとら「つながろう」と言っているのに。頼む。断たないでくれ。

「捨」。見捨てないで。関係を断たないで。私をあなたのそばにおいてよねぇ。安易でD級以下の駄作ポップソングの歌詞みたくなってしまうのは私の用い方のせいであって「私をあなたのそばにおいて」というメッセージ自体が悪いのではない。

「離」。見放さないで。見守りあって、認知しあう状態を保つことで地域のトラブルを未然に防ごうと言っているのよ私たち。

つまり「社会教育的なこと」をライフワークの一部にして、その使命の達成を目指して日々種々の物事を企画したり運営したりしている私にとって、「断捨離」は聞き捨てならない言葉なのである。銀シャリに変わってほしいと願うのも無理ないだろう。お腹減ったし寿司食いたい。

私は、身の周りのものに価値を見出すことに人生の意義を見出している。ずっと近くにあったけれど、ふとその新しい価値に気付くことの幸せをちょっとだけ知っている。

そのためには、お互いに、手を伸ばせば届くところにいる必要がある。これがうっすらとした「つながり」みたいなものである。そういうの、「絆」の一種ともいえるのか。「絆」という言葉はなんだかめんどくさい感じがするのでこれはこれで嫌いだ。嫌い、とまでは言い過ぎかもしれないが、あまり好きではない。

まぁでも例えば、ちょっと何かの音楽に猛烈に感動したとかで、うっすら「音楽」でつながりあっている友人や知人の一人でもいれば、「聴いたか? ××(バンド名でもなんでも)の新曲最高だぞ!」とか言い合えるのである。そのとき、そうした関係までも「断捨離」してしまっていては……永久新進気鋭不世出バンド:××の新曲がいかに最高かを、思い立ったときに心ゆくまで語らうことはできない。そこまでとことん熱を交わす姿勢でなくとも、うっすらと例えば「音楽」みたいな観念で、つながり、結ばり、お互いに意図したときには視線を交わすことができる、すなわち見守り合うことができる距離感を「保って」、そう、「持って」いるからこそできることなのである。離すな、断つな、捨てるな、である。

「断捨離」のマインドも、ちゃんと学んだら、私がこれまで口角泡を飛ばして熱弁してきた批判が大間違いだとわかるのかもしれない。「断捨離」って、私の思うような、つながりあい、見守りあい、関係を保つことの否定では決してないのかもしれない。そこは、断捨離をちゃんと学んでいないから私が語る余地がない。

現時点では私の断捨離のイメージはこうなのだ。「とにかくすぐに必要のないものやその物体に視線を止めてもなんにもトキメかないものは捨て、処分してしまうことだ! そうすれば、その物体が圧迫していたあなたの部屋のスペース何畳分が有効になってくる。部屋のスペースを家賃に換算してみろ! あなたはこれまで不要物で〇〇万円もの家賃を無駄に捨ててきたのだ! なんと愚かなことかわかったかい? さあ、今すぐ己の心を律して断捨離をするのだ!」

こんな様相だから、ちょっと私にとって「ゲンキン」な感じがするのである。ちょっとまってくれ。そのあなたがトキメかない物体は、今でこそそうかもしれないが、現状のあなたが気づかないだけで、あなたが新しい価値観を知ったり学んだり獲得したり、自分が成長して変化したりすると、たちまち必要のあるものに反転したり、それまでにない異様なまでの光を急に放ちはじめることだってあるんじゃないのかい? 家賃〇〇円の無駄だとかいって無情に捨てていいのかい? ってか、それ、家賃〇〇円の無駄だとみなすのって強引すぎる解釈だと思わないのかい? 実際には、そこにその物体がこれまで存在してあなたの部屋のスペースを一定分とっていた事実には、あなたの人生の背景や歴史が溶け込んでいるんだぜ。その事実だけでも私はトキメいちゃうんだけどなぁ。

こんな具合だから、私は断捨離という言葉がキライなのである。

後記 ネタ元ポストとネタ元記事

美馬亜貴子さんのキッパリとしたポストがおすすめに流れてきて思わず目を止め、私の中で思考が沸き上がってしまった。反抗的な口語を「短端文(短くて端的な文章、「たんたんぶん」。新聞でもウェブでも、メディアのナカミ・ソトミをつくるすべての人が常に念頭において物事に臨むべきキャッチコピーである)」でポンと投げる潔さが爽快である。

美馬亜貴子さんがポストした元ネタを知ろうと引用画像をGoogleで画像検索したら、Rakutenニュースサイトの記事が出てきた。記事の提供元はOTONA SALONE、記事タイトルは「40代が似合わないTシャツはコレ! 失敗しがちな真夏の痛カジュアル5選」である。執筆者は松本小夜香さんだと思われる。よく見たら投稿は2018年8月14日 17時0分とあり、もう6年近く前になろうとする記事だ。ことあるごとにネタにされ続ける、ロングセラー記事なのかもしれない。

ある年代に達するオトナがバンドTをまとうことのリスクと、それを厭うのであれば断捨離リストへ……とする記事には、執筆者さん自身もバンドTを持ってたり着たりした経験があって、それへの自虐や自嘲、自戒が込められているのかもしれないと勝手ながら想像する。“うるせーバーカ”のポストが痛烈な美馬亜貴子さんにせよ、ネタ元記事ライターの松本小夜香さんにせよ、別にSNSやWebで攻撃しあって相手を絶命させたいのではないはずだ。いや、まぁそこまでわからんけども……本気で根絶したいからロックなポストが出来たり、ファッションを語れたりするのかもしれない。

現状の私は30代男だし、いわゆる「ロックTシャツ」は1枚も持っていない。くるりファンなので、くるりグッズとして数枚持っているくるりTシャツがある、程度である。いわゆる「ロックTシャツ」を指すのと、単に「バンドTシャツ」とするのとでは微妙にニュアンスが違うなとも思う。

“今 あなたの視線感じる 離れてても 体中が 暖かくなるの 今 あなたの愛信じます どうぞ私を 遠くから 見守って下さい(作詞:安井かずみ)”の歌詞が霊感に響く。飯島真理さんが歌った傑作『愛・おぼえていますか』は存在の認知を保持することの愛おしさ、尊さを私に教えてくれる。関連づけ、ここにリンクを貼って見守っておこう。

青沼詩郎