心臓バクバクといえば。フジファブリック『夜明けのBEAT』。

久しい無酸素運動

息がゼエゼエ切れるような運動を無酸素運動といいます。息をクァッと止めてやる運動です。「無酸素運動」の名の通り、息を吸わないでその運動をするのですね。おおむね、短時間・瞬発的な、一時的で高い出力のことです。全力ダッシュがまさにそれでしょう。

全力ダッシュ、あなたは最後にいつやった記憶がありますか? 日常生活でしないですよね。●時●分発の電車に間に合うために、駅まで全力ダッシュ! とかのレベルじゃないですよ? 100メートル走のタイムを0コンマ何秒縮めることが出来るか、それにしたがって自分の存在価値が問われる! というレベルでの全力ダッシュの話です。あなたが中学生や高校生で、特に運動を含む部活動に所属している部員だとしたら、全力ダッシュはそこそこ日常でしょう。競技では全力ダッシュしてなんぼです。バスケ。サッカー。ラグビー。野球。球技に多そうですね。ほか、なんでも。

吹奏楽部員だったら

吹奏楽部の部員だったらなかなか無酸素運動はしないでしょうか。いえいえ、そんなことはない! ティンパニを階段をいくつも越えて運搬しなればならない。まるでベンチプレスかバーベル上げのようにフンッと力を出し、まずはこの階段を目の前の踊り場まで乗り切るべし。その踊り場の次もフロア越えが続きます。あと何層この重たいティンパニーを越えさせなければならないのか。ティンパニーをせーのっ! で持ち上げるとき、吹奏楽部員は瞬間的に息を止めるかもしれません。これです! 文化系の無酸素運動! ……違う?

たとえば吹奏楽部員がオーボエパートの担当で、超ロングブレスのフレーズがあったらどうでしょう。他の楽器に比べても、息の圧力が必要なイメージが私としてはあります。あれって無酸素運動になるのでしょうか。単に息を吸えないというだけ?

「だけ」だなんて言ったら、諸管楽器奏者に失礼です。演奏者たちは、一秒だって「息を止めているだけ」なんて暇はありません。全身全霊を表現に注ぐのです。命のすべてを賭して、その時間、音楽のために燃え上がる。儚い一瞬に刻むのです。それがたとえ、休符であろうと音程の保続であろうと……演奏談義になると熱くなってしまう私です。

運動会や体育祭の前に

中学生や高校生であれば、体育祭や運動会といった学校行事があります。短距離走が課せられますね。私なら、負けたくありません。だから、そうした運動行事が近くなると、近くの公園で、最も長いストレート(直線)が確保できる場所を使って、全力疾走する自主トレをしました。

自分一人でやっていても、本番の「ヨーイドン」をイメージしてやる無酸素運動は緊張感があるものです。そうやって、体と心に刺激を与える訓練期間を自分なりに努めて設け、それで迎えた本番で得る結果であらば、あきらめて受け入れようと思えたのです。

学生時代に、そうした努力の果てに得た体育祭や運動会の結果が実際どうだったか、もう20年以上経とうとしているので正直、忘れてしまっています。それなりに芳しいものだった気もしますが、それで何かの試験の合否が決まるのでもありません。結果よりも、対策を練って実施した自己評価だけが記憶に残るのです。

鈍重のスローモーション

私は中高生時代と同じ地元にずっと住んでいるので、かつて全力ダッシュの自主トレをした公園を今も子どもと利用します。普段はなんとも思わないのですが、先日はなぜだか、かつて全力ダッシュの自主トレをこの場所でやっていたことをふと思い出しました。思い出さない日と何が違うのか分かりませんが、たまたま軽装で訪れていたので、体がうずいたのです。5月で気持ちが良い季節だったせいもあってか。今、久しぶりに全力疾走したらどうなるかな、と。

よく走った公園周辺

やってみたものの、暗澹たる気持ちになりました。体の感覚が、鈍く重いのです。かつてのストレートコースで、「このあたりに到達する頃に、この程度の苦しさ」という目安よりも、ずっと手前で体の理想的なアクションが失われているのを知覚しました。情けなし。自分がスローモーションに思えます。なんでこんなに遅いんだ? おまけに、ダッシュをやめたあと10分も20分も、心臓が落ち着くのが遅い。回復までもがスローモーションなのです。リジェネかよ。一気にケアルガかかれよ(藪から棒にファイナルファンタジー)。

演奏仙人のトップギア

作詞作曲や楽器の演奏や歌唱、生演奏や録音のことを命題にしている私ですが、いかに力を抜くかをよく考えるのです。いえ、「いかに力を抜くか」というのは歪んだ認識かもしれません。言い直しますと、「適切な瞬間に適切な量の力を出すこと」が重要だと思うのです。それって、私が抱く観念としてはいくぶん伸び縮みがあって、有酸素運動的なのです。私にとっての音楽は、おおむね「競技」ではなく「自己表現」、自己闘争だからかもしれません。

「競技」あるいは「他者へのサービス(奉仕)」として音楽に取り組むとき、場合によっては「無酸素運動」的な出力を求められ、それをクリアすることが競技者、あるいは奉仕者の務めとなるでしょう。

それにしたって、一流の音楽家だってそうそう「全力ダッシュ」じみた、心肺に瞬間的に高負荷をかける無酸素運動は日常的にやらないよな……と自己擁護を入れる私。

全力疾走するにしても、ウォームアップして、徐々に体のギアを入れていくべきです。先日の私の久しぶりの全力ダッシュは、準備運動もせずに、あまりにも急にやってしまったのです。中高生の頃の私だって、少なくとも1000メートルくらいはジョギングで流してから全力ダッシュに臨んでいました。適切な瞬間に適切な量の力を出すための、プロセスが欠落したのです。そんなんじゃあ、これがたとえ「演奏」であったってうまく行きゃぁしません。

音楽であっても競技であっても、やっぱり私は「対・自分」で負けるのが嫌いなのです。普段の練習やリハーサルというのも、本番のための広義の準備運動ですよね。そして最たるスイートスポットでトップギアに入れるのです。演奏とは、そういう仙人芸の一種なのだと思います。

爆風スランプ『Runner』。直線的なビート感が主題を表現します。サンプラザ中野くんの歌唱も至って真っ直ぐなイメージです。

青沼詩郎