ねどこのせれなあで 泉谷しげる 曲の名義、発表の概要
作曲・作曲:泉谷しげる。泉谷しげるのアルバム『春夏秋冬』(1972)に収録。
泉谷しげる ねどこのせれなあでを聴く
終始ささやくような繊細な声で柔和に唱えます。中央に泉谷さんの声。残響が右トラックに抜けていくように聴こえますがどうでしょう。ステージを下手(しもて)側の袖から見守っているような気分の音響です。
右トラックにハンドクラップのワンパターン貫徹。ドッ、ドドッ……というサンバキックのドラムパターンを思わせるフレーズですが、ハンドクラップなので質量感が軽い。曲の心臓を担うのでなく、表層に乗っかるリズムの彩りです。単一のパターンを貫き通して繰り返すあたり、諦念が漂い寂しくもあります。哀愁がありますね。
左にアコースティックギターの伴奏。金賞もののツブ立ちのきらびやかな流麗かつ落ち着きのある平らな指さばきです。伸ばした爪で弾くのかフィンガーピックをはめるのか、1音1音がはっきりしています。
左にギター。真ん中に声。右にクラップ、以上。明朗でミニマルなパートの配置です。息遣いの近い歌唱、柔和で平静でのどかなギター、ちょっとオフマイク気味で鳴るハンドクラップがそれぞれ記載順に近・中・遠の良い距離感です。
オフクロから
やっと解放されたっちゅうに
今度はあの娘が
リモコンしようとしている
でももうあの娘と
別れることはできない
他の男にやるのなら
殺した方がいいのだ
『ねどこのせれなあで』より、作詞:泉谷しげる
極端。突っ込ませます。本当に殺すんじゃないのだから歌詞は過激で言い過ぎなくらいでちょうどいいのかもしれません。古今東西の事件をみれば本当に殺してしまう過ちも数多起きているのも事実でしょうが……
とにかく現実の殺害は許しませんが、それはそれとしてこれは歌詞。
ハネをのばしたいだとかリモコン(操作、征服の表現でしょう)しようとしているとかいって不満ありげで、ただシンプルに別れればいいもの。でも別れるくらいなら殺した方がいいのだ……というのは……主人公にはあの娘に対して執着があることの表れでしょうか。結局お互い様か。
ぼくがてってい的に
ほれてるあの娘が
ぼくのノウミソを
じゃぶじゃぶ洗ってるんだ
いつ抜きとられたか
知らないが
あの娘は楽しそうに
洗ってるんだ
ぼくはそれを横目で
見ながら
少年ジャンプを読んでいる
『ねどこのせれなあで』より、作詞:泉谷しげる
そう、主人公はやっぱりあの娘にぞっこん。脳みそを抜き取られても気づかないくらいにとろけています(阿呆じゃないか……いえ、失礼)。
脳みそ不在の頭でジャンプを読んでいても彼女のお洗濯の様子は認知・観察できるでしょうか。ジャンプの内容の鑑賞にも脳みそは不要だと(チョイチョイ……)。考えるな、感じろといったところか。感じるのにもやっぱり脳みそは必要だと思うのですが……(もうやめとこう)。
洗脳することを、じゃぶじゃぶお洗濯と平和な言い換えをほどこします。皮肉ですね。シニカル。
デバボウチョウをお求めの様子の主人公。相模原は金物の街だったりするのでしょうか。新潟の燕三条とかだったらわかりますが……
要するに、日用品一般を買える街であれば相模原である必要はないのでは。主人公とあの娘の日々の舞台がその近辺と描いているということに尽きるのではないかと思います。
日用品一般というには出刃包丁は少々専門性の高さを思わせる気もします。
エンディング間際の歌詞で、「ほっほほっほほ……」といって最後には豚の鼻の音を真似するみたいなスキャット、フェイクでしめくくります。ブタバナ、というか、いびきみたいにも思えます。
つまり、この過激で極端な発想や随想はみんな寝言だったというオチをつけたほうが私の心は平和におさまるのですがどうでしょう。
青沼詩郎
『ねどこのせれなあで』を収録した泉谷しげるのアルバム『春夏秋冬』(1972)
ご寛容ください 拙演(YouTubeへのリンクShiro Aonuma @bandshijin『ねどこのせれなあで(泉谷しげるの曲)ギター弾き語り』)